「さて……と。」
      四時限目が終了して、浪人生はそれぞれ昼食の準備を始めた。持ってきた弁当を持ち出
     す者。予備校に弁当を売りに来た車に殺到する者。駅のうどん屋に走っていく者。みんな、
     午後に向けて腹ごしらえを始める。
      が、昼休みというのは、何も昼食を摂るためだけの時間ではない。この空き時間を利用し
     て、競って教師に質問を受けにいく浪人生も少なくはない。また、様々な仕事のため、チュ
     ーター達もなかなか手が離せない。このため、教師やチューターはそれぞれ受け持つ時間
     帯以外に昼食を摂るというケースが多かった。
      そして――模試の前日、問題・解答用紙が予備校に運ばれてくるのも、この時間である。
     よって、その解答の奪取法を思案するための「斥候」が教員室に送られるのも、この時間帯
     であった。そして、その解答を奪取するために戦闘を行うのは、予備校内の人間の大半が
     帰宅する午後八時以降である(その後、皇帝・原田の家に全員集合して勉強を始めるので
     ある)。
      もっとも、この「斥候」というのは、目立ってはいけない。かといって、下手に行動を遠慮し
     ていると、かえって目立ってしまう。
      そこで、この「斥候」役を任されるのはいつも山代(他数名)だった。とはいえ、実際やるの
     は大抵、山代一人だけだが。
     「……緊張する?」
      山代は、後ろに控えている二人――中村と広瀬に、顔だけ振り向かせて訊いた。
      昨日の作戦会議で、結局笹原・森口の二人に四・二で当たるということが決まったのだが、
     それ以外の事項の一つとして、山代と新入者の中村・広瀬が斥候役を任されることとなった。
      実際のところ、斥候は山代一人で十分(いや、むしろ余計な人数がいては邪魔)なのだが、
     戦闘当日、彼が予備校をサボった場合の代役として働けるよう、いつも一人か二人、彼につ
     いていくのである。
      無論、今回は体験学習ということでこの二人に決まったわけだが。
     「いやあ、緊張するというよりかは、ワクワクしてるって感じだけどな。」
     「私は……ちょっと、緊張してるかな……。」
      二人は、二階の下り階段に足を踏み入れている山代に答えた。
      教員室があるのは一階なのだが、山代はいつも、連れていく人間の緊張がおさまるまで一
     つ上の階段(それも、今しているように一歩、足を踏み入れて)で待機しておくことにしてある。
     一階で待機していると怪しまれるのは必至であり、階段の手前だと、天井に設置されている
     (授業サボり防止)カメラに映ってしまうのである。だが、カメラの設置角度上、この階段に足
     を踏み入れている状態が、ちょうどカメラの死角になり、待機するにはいい場所なのである。
      山代は、階段の手すりに寄りかかり、二人に向かい合った。
     「いつでもいいよ。慌てずに気を落ち着かせてくれ。」
     「俺はいつでもいいぜ。ちょっと、テンション高いかもしんないけど。」
     「う〜ん……私は、もうちょっと待って……。」
      広瀬は駆け足で、その場で足踏みをしだした。やがて、タンッと勢いよく床を蹴って、
     「うん、いいよ。さ、行こう。」
      と言うが早いか、自分が先頭を切って歩き出す。
     「……ま、いいけど……。」
      山代は、頭を掻きながら階段を降り始めた。この予備校には、二つの階段があり、一つは
     今、山代達が通っている教員室寄りで、もう一つは模試の解答等が運ばれている事務室寄
     りである。他にエレベーターが一つあるが、それはチューター、来客用のものであり、浪人生
     は使用禁止となっている。
      その階段を降りながら、中村が呟くように、言う。
     「ところでよ、山代。」
     「何だ?」
     「お目当てである、模試の解答があるのは事務室なのに、何でわざわざ教員室なんかに行
     かなくちゃならんのだ?」
     「何でって……そりゃお前、教員室に解答があるからだろうが。」
     「……はぁ?」
      すっとんきょうな声をあげて、中村はその場に立ち止まった。
     「何言ってんだ? ブツが運ばれてくるのは、事務室だろう?」
     「だからといって、それが事務室だけにあるとは限らないさ。」
      言われて、ますます中村は首を傾げてしまった。ハハ、と山代は笑いながら、
     「まあ、今に分かるさ。見ておけって。」
      そう言っているうちに、彼等は一階に着いた。階段から降りた、すぐそこに教員室がある。
     昼休みにはいつもこの入口(予備校内は基本的に自動ドアだが、この教員室と事務室、そ
     れとトイレは手動ドアである)には、質問を受けに来る浪人生で塞がれる。時には、行列が
     できることもあるが。ただ、この日に限っては、入口に人がいるほど質問に来る浪人生はい
     ないようだった。
      その代わりというわけでもないが、何をしていいか分からず、おろおろしている広瀬の姿が
     この日にはあった。
     「山代く〜ん。あのぉ……」
      彼女は、俯き気味に、上目遣いでそんなことを言ってくる。
     「……どうせ、先に来ても何をすればいいのか、分かんなかったってんだろ?」
      広瀬は、顔を紅潮させて頷いた。山代は軽くため息をついて、
     「ま、そんなこったろうとは思ってたんだけどな……軽はずみな行動は、戦闘では命取りに
     なるから、気を付けろよ。」
      ポン、と広瀬の肩を叩いてやる。彼女は再び頷いて、山代の後ろへとまわった。さらにそ
     の後ろにいる中村が、腕組みをしながら唸っている。
     「どうにも分かんねえなあ。一体、ここでどうやってブツを手に入れるってんだ?」
     「いいからいいから。まあ黙って俺についてきてくれ。あと、ブツや模試については今からは
     禁句だからな。気を付けてくれよ。」
     「ああ、分かった……にしても、何で予備校ってのは、週休二日制のご時世にわざわざ模
     試を土曜にやるのかね。せっかくの連休がつぶれちまう。」
      彼にとって、それは独白か、呟き程度のものだったのだろう、しかし山代はそれを聞いて
     教員室のドアノブから手を離した。禁句と言われたのをものの数秒で喋ったのだ。また何か
     言われるだろうが、まあそれはそれで構わんだろうと、中村は気楽に考えた。
     「……何言ってんだ、土曜に模試をやるからこそ、ナニをものにできるんじゃないか。」
      山代の言葉――自分の予想していたものとは、随分内容が違うもの――に、とうとう何が
     何だか分からなくなってしまった。が、中村はとにかく黙って山代についていくことにした。そ
     れで謎が解けるならば。
      教員室の中は、浪人生もそうだが、教員もあまりいなかった。大抵は四・五人いるのだが、
     今は三人しかいない。浪人生となると、たったの二人しかいなかった。広さにしてみれば二
     十五・六畳はある教員室としては、少ない人数だ。
      しかしそれでも、山代の目的の人物は、その中にしっかりといた。毎週金曜にしかいない、
     K予備校きっての人気教師。一見、予備校生と見間違えてしまうほどの、若い男。
      それでも確か、歳は三十一じゃなかったかと山代は記憶していた。
     「平井先生。」
      山代は、その人気教師の名を呼んだ。平井と呼ばれたその教師は、すっとんきょうな表情
     を見せてこちらに振り向いた。ポロシャツに古びたジーパン。短めに刈り込んである、黒い髪。
     極めつけの、一瞥すると二十歳前後に見えるような顔立ちというその容姿は、どこから見て
     も浪人生のそれにしか見えない。
      彼は、シャーペンを持って動かしていた手を休め、口を開いた。
     「おお、山代か。そろそろ来る頃だろうとは思ってたが。」
     「そう言ってもらえると嬉しいですね。我が校随一の人気教師殿に。」
     「何言ってやがる。俺より人気のある教師なんてたくさんいるだろうが。」
     「先生こそ、何を謙遜しているのですか。百人が百人、そう言っているというのに。」
      そう言って、二人は笑い出した。その様子を中村と広瀬の二人は、首を傾げながら見つめ
     ている。それに気付いてか、平井が笑うのをやめ、
     「……山代、今日はまた違う奴等を連れているんだな。」
     「ええ、ぜひ先生のお話が聞きたいと。」
      山代は(作り笑いをして)二人に視線を向けた。どうやら、話を合わせろと言っているらしい。
     もっとも、それが二人(特に広瀬)に伝わるかどうかは定かではないが。
      しかしそれでも、ぎこちない口調でありながらも彼等は何とか山代の思惑通りに話を合わ
     せようとした。
     「あ、ああ。こいつに、先生の話がおもしろいって聞いたもんだから。」
     「だったら、私達も実際聞いてみようかなって、ねえ。」
      二人は顔を見合わせて、頷いた。それを見て平井は眉をつり上げて、
     「へぇ。山代の他にも、俺の話を聞きに来るっていう奇特な奴がいたとはねえ。」
      と、手に持っているシャーペンを机の上に置いて、改めて山代達の方へと向きやった。同
     時に、彼等の後ろの方へと指さし、言う。
     「まあ、立ちっぱなしってのもなんだから座ってくれや。そこらの椅子をこっちに持ってきてよ。」
     「そうスか。では、お言葉に甘えて。」
      三人は、それぞれそこかしこにある椅子を持ち出して、平井の前に集まり、座った。ここに
     ある椅子は全部、教師専用の物であるが、まあどうせ、今ここにいない教師は、寄り集まっ
     てどこかに食いに行っているだろうからそうそう帰ってこないだろう。教師といえども、暇な奴
     は暇なのだ。山代はそう思い、胸中で舌を出した。
      その時、そこでふと脳裏にひらめくものがあり、山代はそれを口に出した。
      さもしらじらしげに。
     「そう言えば……木田先生はお見えになりませんなあ。一体、どうされたんです?」
     「ん、ああ。あいつは……またどっかにメシでも食いに行ってんだろ。あいつ、いつも昼は暇
     だとか抜かしているからな。」
     「ホウ。しかし、先生はお暇にはならないでしょう。いつも浪人生が殺到しておりますからな。
     人気教師ってのも、なかなかつらいですな。」
     「あいつ、俺より四・五歳は若いくせに、考え方はやけに老けてんのな。頭はいいんだが、
     固定された解答を生徒に強要しすぎだ。それさえなけりゃ、二枚目で通るのにな。」
     「全くその通りですな。それも、国語の授業で解答を固定させるのは、我々予備校生の個性
     を根絶やしにしようとしているとしか思えませんな。それにひきかえ、福谷先生の授業は素
     晴らしい。新しい視野を開拓させるようなあの斬新さ! 初めてあの人の授業を受けた時は、
     身体を電撃が走り抜けました。」
     「あの下ネタ帝王・福谷先生か! 確かにあの人の授業は、初めて受ける奴には刺激が強
     すぎるだろうな。俺もあの人のおかげで、どれだけ大人になったか。」
     「福谷? おお、俺の心の師匠とはあの人のことよ。英語ギライの俺が、授業中、一睡もせず
     に受けられたのは、あの人の授業が初めてだった。」
      山代と平井の話が盛り上がる中、中村もサングラスを光らせて参入してきた。広瀬に至っ
     ては(柄でもなく)顔を赤くしていたが。
      そんなこんなで、四人の間ではしばらく世間話で盛り上がっていた。昼休み始まって直後
     からの彼等の時間は、あっという間に残り少なくなってきた。それにつれて校内は、外に食
     べに行っていた浪人生の帰りでだんだんと騒がしくなってきた。そして当然、山代達が座っ
     ている椅子の主達も帰ってくる。
      だが、この時こそが山代が「計」を見計らう時であった。
      彼は椅子から立ち上がって、何気ない様子で平井に訊いた。
     「さて、そろそろ我々も戻ろうと思います……そこで、我が校ナンバー1教師の平井先生殿
     にお尋ねします。ズバリ、明日の模試の社会のヤマは何ですか?」
     「そうだなあ……『モヘンジョ・ダロは死の平原』かな。」
      ハッハッと軽く笑いながら平井は答えた。
      それを見て、山代も軽く笑い返して二人――中村と広瀬の肩をポンと叩いた。続いて、言う。
     「それでは先生。今日もありがとうございました。授業、頑張って下さい。」
     「おう。来週もまた来いよ。」
      平井は、手を挙げて山代に応えた。山代達は、きびすを返して出口へと歩く。
      そんな中、中村が小声で山代に訊いてきた。
     「なあ、さっきの話とブツと、一体どんな関係があるんだよ? さっぱり分かんねえ。」
     「さっき、先生に明日の模試のこと、訊いてみたろ? ああやって、冗談で答えた場合は、解
     答を一通り見終わった証拠だ。うっかり答えを喋ってはことだからな。だから冗談で流すのさ。」
     「なるほど。だから……」
      そう言って、納得して頷きかけて――
      ふいに、中村は双眸をむき出しにして山代の方へと振り向いた。同時に、口を塞がれる。
     「ムガ! モガモガ、ムガ!」
     「だから、禁句っつったろ。それに関しては、九時間目にメシ食う時にでも詳しく教えてやるか
     ら、今はじっとしてろ。」
      中村が落ち着くのを確認して、山代は彼の口から手を離し、教員室を出ようとドアを開けた。
     当然のごとくそこから廊下が現れ――同時にそこに佇む、一人の女も姿を現す。
 
 



 

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