第2章・“帝国の敵”とは何か
「おはよう。」
駅から徒歩一分という短い通学路――駅の構内を含めても、まあゆっくり歩いてもせ
いぜい四・五分だろう――を歩き抜けるのは、文字通り、あっという間である。その通
学路で挨拶されるとすれば、その時間帯にやってくるチューターか、たまたま会う、違
うリニアで登校してくる浪人生くらいのものである。同じリニアの人間なら、乗車駅で既
に挨拶を交わしているからだ。そこで言いそびれたか、予備校に着くまで顔を会わせな
かったか、そうでない限りは。しかし、その確率は限りなくゼロに近い。
そして今朝、その確率で白石は、通学路を歩いていると後ろから彼女に挨拶をされた。
「あ、おはよう。」
彼は声のした方を振り向き、彼女――広瀬と挨拶を交わす。
「リニア……同じ、だったっけ?」
「うん。昨日までは今日のより二本先のに乗ってきてたんだけど……これくらいの時間
帯なら、みんなに会えると思って。」
「あ、そうなんだ。で、誰かに会った?」
「うん、中布利って人にね……って、いけない、いけない。“参謀総長”って呼ばなきゃい
けないんだっけ。」
言って、広瀬はペロッと舌を出した。たったそれだけの仕草に、白石は照れながら、
「いや、いいよ、別に。指令中でない時はさ。」
一枚の自動ドアに迎えられ、それから彼等はタイムカードを押した。もうここは、予備校
の中である。
彼等は階段の前で靴を脱ぎ、二階へと上がりだした。白石の七番教室は三階であり、
広瀬の八番教室は最上階の五階である。なぜ、七番と八番でこんなに位置の差がある
のかは誰も知らないが、そんなことはどうでもいいと、これも誰もが思っていた。十六番
教室となると、最下の地下一階である。八番より番数が倍も大きいのに。
ただ、教室番号とそれぞれのランク付けが無関係のものだとは、誰もが納得するもの
だった。七組が国立理系中位に対し、八組が国立文系中位なのは、ただ単に教室に入
る人数の容量が、そのランクの人数に合っているだけのことである。ちなみに、九組は
国立文系上位、十組は私立文系下位クラスである。人数の関係で、理系より文系クラ
スの方が圧倒的に多い。
各浪人生の、それぞれの教室の向かい壁には、室内用のスリッパを入れる下駄箱が
設置されている。そこでスリッパに履き替え、浪人生は一時間目に備えるのである。
三階で白石は、下駄箱でスリッパに履き替えた。同時に広瀬の方に振り向く。
「じゃあ、広瀬さん。昼休みに。」
「うん、じゃあね、白石君。」
広瀬は手を振って応え、上への階段を上っていった。その姿が見えなくなるまで、白石
はそちらをずっと見つめていた。
「『じゃあね、白石君』、か……やっぱ、かわいいなあ……。」
無意識のうちに、周りに津波の姿がないか警戒し、ほくそ笑んで彼は教室へと消えた。
「くあ……。」
四時間目終了のチャイムと共に、男はあくびをしながら目を覚ました。
少し長めの黒髪に、長袖の、グレーのポロシャツとジーンズを履いた、身長百七十強ほ
どの、ごく平凡な男である。ただ、男性の長髪は予備校の規定に反するものだが。
彼は、机に出してある教材――二時間目の、国語のテキストとノート――をカバンの中
にねじ込んだ。一時間目は、寝坊で遅刻したため出席していない。二時間目以降はずっ
と寝ていた。
昼休みになって、彼のいる教室――十番教室は、弁当を持ち出す浪人生で、にわかに
騒がしくなった。三・四人でグループになって食べるのもいれば、独りテキストを見ながら
食べるのもいる。そんな光景を見ながら、彼は空腹になった腹を覗き込んだ。それに応え
るかのように、腹はグゥー、と音を立てる。コンタクトをつけている目を傷つけないよう、優し
く目をこすりながら彼は、カバンから弁当を取り出した。思えば、予備校で弁当を食べるの
は三日振りだ、と今さらのように彼は思った。昨日、一昨日は親に「予備校に行く」と言って
家を出て、近くの公園で食べた記憶が鮮明に蘇る。
「たった三日でも、久しぶりなんて思うもんなんだな。」
弁当を包んでいる布を外しながら、小さく彼は独白した。そして何か考えるような仕草をし
て、ふとその手を止める。
「久しぶりといえば……あいつら、今日もあそこにいるのかな?」
言い終わると同時に、弁当を持って彼は二階へと階段を上がっていった。
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