神薙は、呆然としたままテレビを見ていた。それも、佇んだままで。座る事すら忘れ、
     彼はずっとブラウン管に映る映像と、スピーカーから聞こえる音声を捕らえる事だけを、
     心懸けた。
      キャッド患者が死んだ。
      手術の失敗で。成功のしようのない、でたらめな手術によって。
      その手術の発案者が――
     ――何故、俺なんだ?)
      今度は、そんな単純な自問を繰り返し始めた。根拠は? いや、それより言い出した
     のは一体誰だ?
     (……医学王朝? 秀治だと?)
      秀治といえば、医学王朝の二代目だ。彼が一体、どの様な理由で自分の名を挙
     げたのか――
      いや――どこで知ったのか?
     (……流雲? いや、まさかな。あいつがわざわざ、俺の名前を医学王朝に言う事は
     ないだろう。しかし、そうすると一体……)
      顎に手をやり、テレビから視線を外す。流雲は医学王朝を嫌っている。彼が自分の
     名を売り渡したとは、正直考えにくい。
      考えがうまくまとまらず、神薙はとりあえずテレビのスイッチを切った。そしてキャッド
     の謎解きの続きをしようと、椅子に座ろうとしてきびすを返し――
     「……わっ?」
      唐突に、眉をひそめた西村の姿が目の前に現れた。彼は心配げな表情でこちらを覗
     き込んで、
     「どうしたんだ、司? さっきから呼んでいたのに、気付かなかったのか?」
     「あ、ああ。悪い。」
      西村の顔を一瞥して、神薙は小さく頷いた。
     「お前もお前なら、真崎も真崎だよ。何か、えらく元気がない様だったけど。あんな真崎、
     初めて見たよ……待て、さてはお前達、ケンカでもしたな?」
     「い、いや。そういうわけじゃ……」
      慌てて頭を振り、神薙はそこでふと気が付いた。彼女の手の白さ。それをかばう様に
     して部屋に戻っていった彼女。
     (あの手の白さ……あれは確かにキャッドの症状だった。あいつは……気付いているん
     だろうか?)
      懸念に思い、彼女が上がっていった階段の方へと視線を向ける。それと同時に、再び
     動悸が激しくなる。
      真崎がキャッドに冒された。キャッドを治療できた事は、未だかつてない。つまり、彼女
     の病を治す事は――できない。今のままでは。
     (……いや、単に記録されていないだけかもしれない。)
      世界中のどこかに、実はキャッドを治療したという人間が一人くらいいるかもしれない。
     神薙はいつの間にか、そんな事を考えていた。自分の手であの難病の解明をするよりか
     は、そのいるかどうか分からない人間を捜す方がよっぽど楽に思えてくる。
     (現実……逃避? いや、違う。キャッドをこの手で治すなんて考える方が、夢物語だ。他
     人にすがる方が、よほど現実的じゃないか……)
     「どうしたんだ、お前? 真崎と何かあったのか?」
     「……いや、俺は別に関係ないさ。ただ……」
      そこで、神薙の言葉は途切れた。
      言うべきなのか。彼女の状況を。
      彼女が――死ぬかもしれない、という事を。
     ――死ぬ?)
      誰が
      彼は自問した。一体誰が――
     (真崎が、死ぬ?)
      死ぬ?
      聞き慣れない言葉を反芻し、そしてゆっくりと頭を振り始める。今まで以上に動悸が激
     しくなり、身の毛がよだつ。口の中が妙に乾き、肢体が震え、背筋が――凍る。
     ――ウソだろ?)
      もう一度、彼は自問した。現実は受け止めている。真崎がキャッドに冒された。そう。こ
     こまでは認めている。現実である事を、自分の中で認めている――
      だが。
     (真崎が――死ぬ!?)
      神薙は、そこではじめて、胸中で絶叫した。何かにはじかれた様に、西村の方へと顔
     を向け、彼の肩を掴み、揺さぶる。
     「真崎が――真崎が危ないんだ!」
     「危ない? 誰かに付け狙われたりでもしているのか?」
     「そうじゃない! 彼女が……キャッドにかかってしまったんだ!」
     「……何だって?」
      そうは言っても、西村も最初は、神薙の言葉を飲み込めていない様だった。しかし、そ
     れでも神薙の様子を目の当たりにし、次第に表情を険しくする。
     「……おい、それじゃ、まさか?」
     「遅かれ早かれ、あいつの命が危険に晒される事は間違いない。最悪の場合……肺炎
     なんかにでもかかってしまえば……三日と、もたない――
      身体中から、力という力が抜けていくのを感じる。鼓動と同時に、肩や胸が悲鳴をあげ
     る様にして、震える。
      人間の――それも、身近な者の死というのは、こんなに辛いものなのか?
      医者は、時にはこの様な辛さにも耐えなければならないのか?
     (親父――親父も、こんな事を体験した事があるのか?)
      心細さに、胸が締め付けられる。力の抜け切った身体には、痛すぎるほどに。さらに喉
     の奥が熱くなり、瞼が妙に重く感じる――
     「冴樹……俺は、一体どうすればいい?」
      親友の表情は、崩れてはいなかった。少なくとも、その双眸からはまだ光が失われて
     いない。コンタクトを入れた瞳を動かし、西村は視線を強めた。神薙に向ける視線を。
     「司……昨日の女は一体、何者なんだ?」
     「え?」
      全く関係のない話をしてきた。神薙は一瞬、自分の耳を疑ったが、西村はそんな彼の
     様子に構わず、続ける。
     「あいつ、恐らく妬いているんだと思うぜ。そうでなくとも、何か勘違いしているはずだ。」
     「昨日の……法井の事か?」
      西村の言葉を怪訝に思い、目を細くする。
     「ああ。俺はお前の事はよく知っているから、彼女がお前にとってそういう存在なんかじ
     ゃないってのは分かっているつもりだ。だが、真崎は違う。例え一年一緒に住んで――
     さらに大学で六年顔を合わせて――いたとしても、男と女じゃ、分からない事なんていく
     らでもあるさ。男同士と比べてな。」
     「……それと、あいつを助けるってのと、一体どういう関係があるんだ?」
      そこで西村は、一瞬、小さく笑った様に神薙には見えた。彼は肩をすくめて、
     「よく言うだろ? 病は気からってな。とりあえず、今は真崎を元気づける事を考えてや
     れよ。キャッド云々ってのは、それからだ。大丈夫、あいつはそんなにヤワじゃないよ。
     だからそう、心配すんなって。」
      そう言って、神薙の肩をポンと軽く叩いた。そのまま、肩を押さえつける様にして「な?」
     と、再び笑ってみせる。
      神薙はしばらく、黙って西村と対峙したままだった。しかし、法井の事はどうあれ、確か
     に真崎の今の感情を知っておくべきだ、と彼は判断した。彼女は、自分の症状を知って
     元気がないのか。それとも――
     「そう……だよな。患者とコミュニケーションをとるってのも、医者の大事な役目だもんな。」
      そう、一つ頷く。再び彼は、目の前にいる親友と対峙した。西村冴樹。彼の親友だ。幼
     い頃から、色々と彼の問題の相談役となり、その解決の助けとなってくれた。そして、今
     もまた、彼にとって――いや、彼等にとっての、最も大きな問題の支えとなり、こうして存
     在している――
     「冴樹……」
     「……何だ?」
      訊くというより、単に返事を返す様に、西村はその言葉を口にした。西村の気持ちは、
     よく分かっている。昔から、最も顔をつき合わせた男。だが、その男に神薙は、照れに近
     い笑みを浮かべた。少々、ぎこちない口調で。
     「……ありがとう。」
      西村は最初、(何故か)その言葉に驚いた様だった。しばらく目を丸くしていたが、やが
     て吹き出す様に笑い、俯く。
     「何言ってんだ、親友だろ?」
      顔を上げた時には、二人とも笑っていた。根拠はない。ただ、互いの顔を見つめながら、
     それを笑っているのかもしれない。それは自分達自身にも分からない。だが、気持ちは
     よく分かっている。ひどく哀しいほどに。最愛の友人の死を前にして――
      ピンポーン
     (……何だ?)
      実際に、声には出さなかった。店主である真崎の父親がいない今、薬局は閉店中で
     ある。そのため、客が来たという事はない。月末でもないため、新聞代の徴収でもない
     はずだと、怪訝に思って神薙は玄関に出た。
     「……法井?」
      澄んだブルーの双眸に薄く涙を浮かべ、法井はそこに佇んでいた。今まで泣いていた
     のか、その綺麗な瞳も赤く充血している。
      神薙はゆっくりと、彼女の方へと歩み寄った。表情は、特に現れていない。感情を押し
     殺しているためとは、彼自身も気付いていないかもしれないが。
     「……全く、いつも忘れた頃に現れるよな、お前は?」
      声にも感情は現れていない。ただ、少し視線をそらす。
     「会いたい時に限って現れず、勘弁してほしい時に限って顔を出しやがる。まぁ、それで
     も俺にとって害となる事はしなかったからよかったがな――今までは。」
      最後の言葉に、法井が小さく震えるのが分かった。理由も分かる。当然の事だ――
     「だが――それも、今となっては些細な事だ。俺一人が犠牲になって、あの惨事が許さ
     れるというのなら構わない。俺の命だろうが何だろうが、くれてやる。」
      それを聞いて、法井は驚いた様に目を見開いた。言葉は出ない。ただ、双眸が悲哀の
     色に染まる。
     「ただ――お前にどうしても頼みたい事がある。真崎を――救ってくれ。」
     「彼女は――
      そこで、法井の言葉は途切れた。途切れた様に神薙には聞こえた。それほど彼女は
     間をおいた。端正な顔を歪めて。
     「彼女は――危険な状態にあるわ。一般に比べて、病状の進行が恐ろしく早いの。既に
     キャッドが全身にまわり始めている――
     「そんな事は訊いていない。救ってくれと言っているんだ。真崎を――
     「無理よ!」
      絶叫に近い声で、法井は短く叫んだ。しかし、それにも神薙はたじろぐ様子は見せず、
     むしろそれを予想していたかの様に、静かに法井の顔を見やる。
     「無理よ……私はキャッドを……治せない。」
     「俺は別に、キャッドを治してくれ、と言ったつもりはないんだけどな。」
     「え?」
      目を丸くして――法井は疑問符を口にした。そこではじめて神薙は視線を彼女へと向
     け、
     「知っているとは思うが……真崎の様子がおかしいんだ。昨日――お前と会った時から
     な。あいつの元気を取り戻してほしい。できるはずだ、お前なら、簡単に。」
     「私と会った時から――?」
     「……ああ、そうだ。」
      わざとかどうかは分からないが、法井は首を傾げた。それに対し、神薙の後ろ――西
     村が、応える。
     「率直に訊こう。あんた一体、神薙の何なんだ?」
     「私は……彼の、依頼人よ。」
     「依頼人?」
     「彼に、キャッドの治療を依頼したの。私の“身体”を蝕むキャッドを。」
     「キャッド……あんたも?」
      驚愕する西村を、神薙は右手で制した。その意味が理解できず、西村と法井はそろっ
     て彼の方へと視線を向ける。
     「……どうした?」
     「いや、これ以上こいつと話すと、厄介な事になりそうだからな。そんな事で今は、時間
     を失いたくない。」
      西村はますます、表情を怪訝なものとした。が、黙って神薙に従う事にする。
      しばらく何かを考える素振りを見せて、神薙は再び法井を見やった。今度は彼の言わ
     んとする事を読んでか、法井も相手の顔をしっかりと見据える。
     「恐らく、やがてここにマスコミがやって来るだろう。俺を捜しに。」
     「……それを、追い返せばいいのね?」
     「ああ。真崎や冴樹に、迷惑はかけたくないんでね。」
     「……分かったわ。」
      法井は苦笑しながら、頷いてみせた。
     「冴樹、お前は……しばらく、この場を離れていてくれ。後で必ず理由は話す。だから、
     今は――黙って、俺の話を聞いてくれ。頼む。」
     「……ああ、分かった。」
      西村もまた、薄く笑ってそう応えた。神薙は彼の方へと向き直り、これもまた苦笑して、
     言う。
     「……悪いな。」
     「なーに、いいって事よ。どうせまだ、調べ事が残っているしな。」
     「……真崎さんはどうするの? あなたが看病するの?」
      後ろから聞こえた声は、当然法井のものだった。神薙は――まるでその言葉を待って
     いたかの様に――振り向き、応えた。
     「ああ。あいつの事に関しては、全て俺がやる。あいつの病は――俺が、治す。」
 
 
 


 
 
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