ツー、ツー、ツー……
      受話器から聞こえたのは、その機械音の繰り返しだった。仕方ないと思い、彼は手にし
     ている受話器を元に戻す。
     (話し中か……。)
      ひょっとしたら、もうマスコミが“事件”の事について殺到しているのかもしれない。中川
     は短く息をついて、顔の下半分に手を当てた。
     (いや……違う。あいつはそんな事はしない。)
      胸中で否定し、彼は頭を振った。
      テレビはつけない。真実でないニュースを見るのは、意味がないからだ。息子は決して、
     そんな事はしない――
     (……親バカっていうのか、これが?)
      それも違う。確信のある事が、親バカと呼べるはずがない。
      ――証拠はないが。
     (司……お前は、大丈夫なのか? お前は……このニュースを知っているのか?)
      そう思いながら、彼は前言の確信を得た。
      親バカなどではない。親心なんだ、と。
 
     (……早く出てくれ、神薙さん。早く……)
      なかなか繋がらない携帯電話に苛立ちを覚え、流雲は歯ぎしりした。無意味に腕時計
     を見たりする。かけ始めて、ものの数秒しか経っていないのは、自分でも分かり切ってい
     るはずなのだが。
      そうしているうちに、ようやく耳元に接続の反応を捕らえた。が、それは相手に着信を知
     らせるベルではなく、単純な機械音の連続であった。
     「話し中……くそっ!」
      声に出して流雲は、携帯電話を床に叩き付けたい気持ちを、何とか抑えた。物に当た
     っても仕方ない。が、それでも彼は悔しさを抑える事はできなかった。
     (何か、手はないのか……このままじゃ、神薙さんがあまりにも可哀想だ。)
      落ち着く事すら忘れ――もっとも、やろうとしてもできるとは思えないが――、彼は早足
     でその場を往復し始めた。が、混乱している頭は、解決策を閃く素振りすら、見せない。
     (マスコミから、電話が殺到しているのかも……そうすると、電話も使えない事になる。
     “事件”の起点がうちである限り、マスコミはここからも離れない。つまり、外にも出られな
     い……)
      まさに四面楚歌だな、と流雲は、小さく鼻で笑った。苦笑ではない。かといって自嘲で
     もない。気が触れたというわけでもないが、ひょっとしたら、それが一番近いのかもしれな
     い。
     (……ごめんなさい、神薙さん。僕、やっぱり足手まといでした。むしろ、あなたを窮地に
     追いやってしまった……)
      涙はでなかった。胸中でそう許しを乞いながら流雲は、意味もなく、やたらと高く感じる
     天井を、ただただ見つめ続けた。
 
      苦痛。
      色々な意味で神薙は、その二文字を脳裏に浮かべていた。苦痛。苦しく、そして痛い。
     痛いのはきっと、心なんだろうと、彼の目的とは全く関係のないことをつい、考えてしまう。
      時計を見た。午後八時前。そろそろ、西村が帰ってくる。彼が家を出てから、今までマ
     スコミの類は来なかった。無論、法井が彼等の記憶を操作したためである。とはいえ、
     マスコミ全ての記憶を操作したわけではない。前に彼女自身が言っていた様に、そんな
     事をすると、世界全体を変えてしまう――つまり、歴史を変えかねないのである。そのた
     め彼女は、真崎の家にある程度近づいた人間だけを、対象としたのである。
      ただ、今までに彼に接触した人間は一人いた。久池井である。彼は大学から電話をか
     けてきた。勿論、神薙の身を気遣って、である。彼は、あれは自分と流雲が考えた手術
     法であり、何らかの方法で医学王朝が流雲の研究データを手に入れたらしいという事、
     彼等は十分な実験結果を得ないまま、手術を行なったのだろうという事を、手短に話し
     てくれた。それを聞いて、神薙は少し気が楽になったのを覚えている。
      しかし、それ以外は苦痛そのものだった。何より、キャッドの治療法が閃かないまま、
     何時間も時だけが過ぎ去っていくのを、何もせず(無論、頭は働かせていたが)受け入
     れている時が最悪だった。まだ、腹拵えに何か口にしていた時が、自分のために何か
     をしているという実感が持てた。
      あれから、結局真崎とは接触していない。いや、実際はしようとしたのだが、彼女の部
     屋のドアをノックすると「一人にしてほしい」と言われたのだ。それから今までずっと、彼
     は思索していた。キャッドを治せるであろう知識を全て。
      だが――
     (結局、何も分からずじまいか。)
      最後の結論は、それだった。完全に落胆して彼は、頭を冷やそうと、コップに水を汲む。
     帰ってくる西村に何と言おうと、弱気になりながらそれをじっと眺める。
     (……こいつにキャッドが憑依していれば、飲んだ俺もキャッドにかかってしまうんだろう
     か……。)
      虚ろな目付きで、神薙はそれを飲み干そうとした――と同時に、ふと思う。
     (キャッドの侵食は、地球の三パーセントだったよな、確か……)
      その割には、人の占める割合が多すぎる。
     (地球のおよそ、七割は海だ……)
      そう考えると、割合的にもつじつまは、合う。
     (…………!?
      そう考えると?
     (何だ……一体、何て考えたんだ、俺は?)
      動悸が激しくなる。手で、顔を押さえながら、神薙はさっきの思索を反芻してみる。
      海。割合。地球。
      人。海……水?
     (水だ!)
      神薙は、胸中で歓声をあげた。水に――つまり、水分にキャッドが憑依しない(いや、
     できない)と仮定すれば、さっき考えた事は全て、つじつまが合う事になる。
     (物体が液体であるには……いや、液体の特徴は何だ? 個体と液体との、絶対的な
     違いは一体何だ?)
      必死に考える。物体の状態が変わるのは、分子構造が変わるためだ。その構造がど
     う変化すれば、液体化する?
     (氷が溶ければ、水になるな……つまり、熱されるからだ。つまり、温度が上がる。温
     度が上がると分子は……)
      そこまで考えて。
      瞬時に神薙は、体を動かしていた。毛布、ストーブ、湯たんぽ――体を温められそう
     な物を、片っ端から探し出し、手に抱える。自分の予想の是非を確認するまでもなく、
     重すぎるはずのその荷物を、難なく二階まで運び終えると、神薙は真崎の部屋に飛び
     込んだ。
     「真崎、入るぞ。」
      彼女は、横になっていた。力なく、布団に横たわっている。ベッドがあるのに、何故布
     団を敷いているのか神薙には分からなかったが、その方が都合がよかった。
      真崎はしばらく目をつむったままだった。が、こちらの騒々しさに気がついたのか、少
     し頭を上げて、
     「……かんちゃんこそ……入る時はノックしてよ……黙って女の子の部屋に入ってくる
     なんて……まあ、かんちゃんらしいっていったらそうなんだけど……。」
     「さっきやったろ? それに、今はそれどころじゃない。」
      ストーブのコンセントを付け、嫌がる真崎をむりやり毛布で包んだ。何枚かそうしたと
     ころで、用意していた湯たんぽを毛布の間に入れる。
     「どっ……どうしたの、かんちゃん? 何する気だよ?」
     「黙ってろ。今からお前の……キャッドを治してやる。」
      その言葉に、真崎は明らかに驚愕した様だった。言葉をつまらせ、視線をそらして、
     真崎は声を小さくした。
     「き……気づいてたの?」
     「当たり前だ。俺が今、何の研究をしていると思ってやがる。」
      暑がって手足を出そうとする真崎を、神薙は強引に押しつける。
     「……暑いよ、かんちゃん……。」
     「我慢しろ。これがキャッドの……治療法なんだ。」
      真崎の顔は、既に汗だくになっている。無論、神薙自身もそうだ。
     「もう……ダメ。耐えられないよぉ……。」
     「死にたいのか!? このままだと、確実に死んでしまうんだぞ!」
      何とかして逃れようとする真崎を、神薙も必死になって制する。
     「俺は……お前に死んでほしくないんだ! 俺は、お前の事が……好きだから。」
      だんだんと、かすれ声になっていった。が、そう言い終えると同時に、神薙の体温がさ
     らに上がり始めた。代わりかどうかは分からないが、真崎の抵抗がそこで途絶える。
      しばらく、二人は動かなかった。途中で西村が帰ってきた事も、恐らく気づいてない
     ほどに、沈黙が続く。
      神薙は、頭の中が真っ白になっていた。今、自分が何をしているのかすら、分からな
     いほどに。視点が合わない状態で、真崎の体を抑え続けている。
      そんな中、ふと、毛布から真崎の左腕が覗いている事に気が付いた。慌てて彼は、そ
     れを毛布の中に押し込めようとして――
     「白く……ない?」
      汗で湿っているその腕は、うっすらと肌色を帯びていた。キャッドにかかる前の、真崎
     の肌の色――
     「真崎……もう、大丈夫だ……。」
      あまりの暑さにぐったりしている真崎を毛布から出してやり、神薙はそのまま真崎の
     体を抱きしめた。
 
      翌日。
      神薙は朝早くから、散歩をしていた。いつもの様に真崎が作った朝食を、西村と話をし
     ながら食べ終えて、である。だが、彼の歩く先には目的があった――
     ――よく分かったわね、ここが。」
      住宅街の外れ。人気のない、小さな四つ角に、法井はいた。壁に背を預け、腕を組ん
     でいる。
     「違うだろ。俺がお前の居場所を当てたんじゃなく、お前が俺の行き先で待っていたんだ
     ろうが。」
      神薙がそう言うと、法井は頭を掻いて応えた。彼は最初、頭にきたが、どうせ法井と顔
     を合わせるのも最後だと、ここはこらえる事にした。そして続ける。
     「生憎と俺は、お前が思っているほどマヌケじゃないんでね。」
     「そんな事思ってないわ。だって、あなたはあのキャッドを治療したんですもの。」
     「……まあ、それについては、見返してみるとそれこそマヌケだったかもしれんが。」
      法井に背を向ける形で、神薙は言った。
     「液体の分子運動以上の物質には、キャッドは憑依できない。それだけの事だ。考えて
     もみろよ? もし気体にキャッドが憑依できたとしたら、その時点で生物は絶滅だ。後は、
     残された陸や建築物が、風化される様に、徐々に崩れていく……そうすると地球は――
     つまり、お前は死んだも同然だ。」
     「……それと、身体を温めるのと、どういう関係があるわけ?」
      いかにもわざとらしい口調で、法井が訊いてくる。この時も彼は口を閉ざしかけたが、
     まあいいだろうと、そのまま話を続ける。
     「温める――つまり、分子運動が活発になると、分子間にすきまができる。このすきまが
     生じると、魂はその物体に憑依する事ができない。つまり、温めるとキャッドの根元であ
     る魂を“はがす”事ができるわけだ。考えてみたら、そういえば暖かい気候の地域では、
     キャッド患者ってのはほとんどいなかったな。例えば、アフリカあたりとか――当初は、
     地元における、特別な栄養素の摂取がキャッドを防ぐとか何とか言っていたが、何の事
     はない。気候が暑いからだったんだ。それでもキャッド患者が少しはいたのは、病弱で
     体温が下がる人がいたからなんだろうな。それで……そう、すきまの事だが、生物にと
     っては僅かなすきまでも、奴等から見れば“身体”がすり抜けてしまう様なものなんだろ
     うな。」
      言い終えて、神薙は再び法井の方へと向き合った。同時に、神薙の背からそよ風が吹
     いてきて――そのまま、法井の髪をたなびかせる。
      法井は目をつむって、ホッとした様な笑を浮かべた――しばらくして、その双眸を開
     く。青空の様に青い双眸を。
     ――ありがとう。」
      珍しく――というより、初めてかもしれない――彼女のまともな表情を目の当たりにし
     て、神薙は頬を掻いた。
     「……まあ、いいけどな。」
      視線を少しそらして、言う。対して法井は、笑顔で応えてきた。
      それから、神薙はしばし迷った表情を見せて――法井の方へと一歩、歩み寄った。彼
     女の表情には、特に何も変化はない。別に、いつもの様に悪戯な雰囲気は帯びては、
     いない。
      だが、それでも神薙は油断しなかった。何しろ、自分にとっての、最大の問題である。
     ここで知らぬ振りをされては、さすがに正気を保てる自信はない――
     「ところで……問題が一つ、残っているんだがな。」
     「え?」
      突拍子もない事を言われたかの様に、法井は目を丸くした。嘘が苦手な彼女は、ここ
     まで演技まくはない。
     「本当に、知らないんだな。」
     「……何なの、問題って?」
      心配そうに訊いてくる彼女に、神薙は短く息をついた。視線を少し、鋭くする。
     「一つ訊くが……温められる事によって、解放された魂はその後、どこに行くと思う?」
     「どこって……もとある場所に戻るんじゃないの?」
      きょとんとして――少なくとも神薙にはそう見えた――法井は応えた。確かに、自然
     の摂理ではそう考えるだろう。そう考えて当然なのだ。やはり、これは――自分自身に
     しか分からない事なのか?
     「魂は……“はがして”しまえば、恐らく二度は同じ物に憑依しないんだと思うんだ。そ
     れからは――俺の仮説なんだがな。憑依できなくなった原因――つまり、俺に憑依す
     ると思うのさ。」
      反応はなかった。いや、できなかったという方が正しいのかもしれないと、神薙は胸
     中で思った。ある程度、予想はしていた事なのだが、未だ法井は呆然としている。
     「魂は嫉妬している。現代医学の発展に。これは以前、お前自身が言っていた事だ
     ―つまり、魂にも意識はあるんだ。だから、嫉妬の原因である俺に憑依し――消す。
     そして彼等の嫉妬は晴れ、呪い(キャッド)――消える。
     ――どうして、そう思うの?」
      法井の声は、低かった。構わず、続ける。
     「いくらお前が万能だとしても――個人の事は、やはり個人自身が一番よく分かるって
     事さ。気付かないか、俺の手足がだんだんと白くなっている事に? ちなみに、温めて
     魂を“はがして”しまっても、次から次へとやってくるからな……治療は、できない。」
     「……どうするの? これから。」
      法井の問いに、神薙は小さく笑った。地球に懸念されて死を迎えるというのも、そんな
     に悪くないと思う――
     「俺の周りには、これから大勢の魂がやってくる――他人が巻き込まれない様に、どこ
     か遠くへ行くさ。人気のない所へな。」
     「……私をこんな所へおびき寄せたのも、そのため?」
      神薙は黙って頷いた。
     「あと、治療の報酬をもらいたいんだがな。報酬といっても、頼まれ事を聞いてほしいん
     だが。まず、あの“B・ウェブ”ってやつに関する全ての記憶を消去してもらいたい。勿論、
     歴史が変わる様な事があっても、だ。次に、俺がキャッドの治療法を、流雲に教えた、と
     いう記憶をあいつに植え付けてやってくれ。それだけだ。できるだろ?」
      法井は応えなかった。だが、応える事はできたかもしれない。何かを言おうとするが、
     言葉がつまって出てこない。
      神薙は、それ以上は何も言おうとはしなかった。駅まで歩くのに、途中に真崎の家の
     前を通るが、どうにかごまかせるだろう。問題は、電車に乗った時に、巻き添えを食う人
     が出るかどうかだ。そんな事を考え、彼はきびすを返し――
      そこに、真崎がいた。
      神薙は驚愕した。彼女がいたからではなく、彼女を目の当たりにしても、冷静でいられ
     る自分に、である。彼はそのまま過ぎ去ろうとした。足は止まらない。止めてはならない。
     止めてしまえば、彼女にも迷惑をかけてしまう――
     ――かんちゃん?」
      後ろから、真崎が呼んできた。口調に陰りはない。法井との話を聞いていたのかどうか
     は知らないが、今は彼女に陰りはない。
      神薙は、最後の溜息をついた。安堵の溜息を。
     「真崎――
      その場に足を止め――しかし、再び動かす事を約束して――だけを、後ろに向ける。
     「真崎――ゴメンな。」
      それだけ言い残して、彼はその場を後にした。後ろから法井の泣き声らしきものが聞こ
     えてくるが、足はもう、止まらない――
 
      そして、その夜。
      宇宙(そら)の中、地球(ほし)は蒼く悲嘆に瞬いた――
 
 
 


 
 
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