第6章・そして地球は悲嘆に瞬く

      診察室の掃除を終え、とりあえず一段落ついたと中川は椅子に腰掛けた。もう着替えは
     済ませてあり、机には食パンとコーヒーが置いてある。診察用のベッドには、起きた時に
     取ってきてそのまま置いてある朝刊がある。それを片手に彼は、コーヒーを一口飲んで初
     診の時間が来るのを待った。初診は午前九時。それまでに、まだ三十分ほどある。
      ――
      ピンポーン
     (……何だ?)
      唐突に、ドアホンが鳴った――怪訝に思って中川は、立ち上がって玄関に出ようとした。
     が、それより早く彼は診察室に現れた。
      よく診察を受けにくる、顔見知りの中年男性である。中川より、歳は若干上であるが、彼
     は息を切らせ、こちらに視線を向け、訊いてくる。
     「な、中川さん、み、見ましたか。け、今朝のニュースを!?
     「どうしたんですか、そんなに慌てて。一体、何があったんです?」
     「どうしたもこうしたも、今朝のニュースを見てみりゃすぐに分かる事じゃ! あんた、まだ見
     とらんのですか?」
     「ええ。今し方、ここの掃除を終えたもので。」
     「だったら、はよう見てみんさい。えらい事になっとるんじゃ!」
      急かす男を横目に、中川は診察室の隅にあるテレビをつけた。男がこれだけ騒ぐほどの
     事なら、この時間にやっているどのニュースを見ても同じだろうな、と彼は適当にチャンネ
     ルを変えた。と、同時に、マイクを持って現場と思しき所に佇むアナウンサーの姿が画面
     に映る。
     「……というわけでありまして、えー、明智秀治氏は、“B・ウェブ”手術を発案したのは神
     薙司という青年であり、彼が売名行為として手術案を「医学王朝」に提供したと述べてお
     ります。これにつきましては、また後ほど詳しくお伝えして……」
      アナウンサーの言葉を、しばらく中川は理解できないようだった。彼の隣でテレビを見て
     いる男の方を見やると、男はそれを「どういうわけか教えてくれ」と言いたげだとみてとった
     か、
     「ああ、私にもよく分からんのやがね、ただ、こりゃ何かの間違いやろうとしか分からんの
     じゃ。何たって、あの司君がそんな事をするわけがないじゃろう。あの医学王朝とかい
     うのが、一体どうして司君の名前を持ち出したかぁ知らんがね。」
      焦りというより、ただ単に、でたらめに口早にまくし立てる、といった口調で、男はそう言
     った。
     「しかし、どうした事じゃろうか。何でまた、司君の名前が、ニュースでこんな風に言われ
     るんかいなぁ。」
      それから男は、しばらくブツブツと独り言を言っていたが、やがて首を傾げながら、困っ
     た様な顔をして病院を出ていった。
      一方、中川は文字通り、取り残された気分だった。訳の分からないまま、こんなニュー
     スを見てもどうしようもない。とりあえず、彼はテレビのスイッチを切った。だが、それから
     どうしていいのか分からない。いつもの通り、診察を始めるとしても、こんな状態ではさす
     がの中川もそうはいかない。
     (司……一体、何があったんだ?)
      先日に書き留めていた、現在の息子の連絡先を確かめ、中川は受話器を手にした。
 
      かろうじて言い逃れる事ができ、秀治は心底から安堵していた。例えそれが、一時的
     なものとしても、最悪の場面は免れた。まだ外で騒いでいるマスコミをよそに、彼は自分
     の邸の二階で胸をなで下ろした。
      一息ついてから、彼は部屋の中を一瞥した。自分の部屋。机の上は、講義の内容をま
     とめたプリントや、自分の著書等で散らかっている。大して利用しないソファーには、今は
     長男の樹が座っている。怯え、戦く様に、絶え間なく震えている樹が。
      最後に彼が見たのは、その隣に佇んでいる男の姿だった。彼の次男坊。彼の血族にし
     て、王朝の一員でない男、流雲。彼は、兄の様に戦慄してはいないようだった。だが、ま
     るで瞳孔を開いた死人の様に、呆然としたまま微動だにしない――
      自分の息子達の姿を見て、彼は頭を振った。だが、そんな事をしても状況は良くはなら
     ない。そんな事は分かりきっている。彼は小さく、ため息をついた。
      ――
     「……父さん。」
      危うく、聞き逃してしまいそうな、か細い声だった。秀治は、声のした方――流雲へと視
     線を向けた。
     「……ああ、何だ?」
      そう応えたが、流雲は反応しなかった。聞こえていないのか、と秀治は訝ったが、やが
     て流雲は、再び口を開き始めた。
     「……何故、あんな事を言ったんですか?」
     「……あんな事?」
      言われて秀治は、眉をひそめる。
      そんな秀治に対し、流雲ははじかれた様に、その場から父親の前へと足を運んだ。
     「何故、神薙さんを犯人扱いしたんですか!あの手術は、僕が考案したものじゃないです
     か。何故、僕だと言わなかったんですか!」
      決して、それは大声ではなかった。だが、秀治は今までに見た事のない、次男の芯の
     ある、強い口調に迫られ、たじろいでしまう。
     「何故、本当の事を言わなかったんですか! 医学王朝ともあろう者が、自分達のミス
     を他人になすり付けようというのですか!」
      言いながら、流雲は「自分達」という自分自身の言った言葉に、僅かに頬をひきつらせ
     る。そして、彼の言葉はそこで切れた。続きを言おうとするのだが、喉の奥でつまってい
     るかの様に、言葉が出ない。しばらくその場で肩をいからせていた――が、一つ息を短く
     吐いて、さらに短く叫んだ。
     「……どいて下さい。僕は彼を助けに行きます。」
      そして、父親が動く前に流雲は、秀治をかわして部屋を出た。
      外では、マスコミが騒いでいる。いくら普段は父親や兄と別行動をとっているとはいえ、
     自分の顔は十分外に知られている。仮にここから出られたとしても、電車に乗ろうものな
     ら、自分がどの様な人間なのか、この話題の中で気付く人間は一人くらいいるだろう。し
     かし、ここから出ないことには、神薙に会う事はできない。
     (どうする……助けるといっても、ここから出られない事には……だけど、こうしている間
     にも彼等は、神薙さんを探し出して、ありもしない罪を問い出そうとしているんだ。)
     『医学王朝は滅びた。もはや、そんなものに自分が脅かされる事は、なくなったのだ。
     階段を下りながら、彼はそんなことを脳裏に思い浮かべていた。
      だが――
     (身内の次は、民衆か!)
      一難去って、とはよくいったものである。流雲はこの時ほど、その諺を呪った事はなか
     った。別に諺が悪いわけではない。それは彼自身も分かっている。諺にあたるつもりもな
     い。だが、今はそれ以上に、この現状をどうにかしなければ、という焦燥が彼を攻めてい
     るのである。
     (こうなったら、バイクで行くか……でもあれは、学生以来触ってもないし、第一東京で乗
     った事がない……)
      普段外に出ないから、当然地理にも疎い。考えれば考えるほど、窮地に追いやられ、
     自己嫌悪が増していく。
     (……くそっ、結局僕は、自分一人ではどうする事もできないのか!)
      拳を握りしめ、彼はその場に立ち止まった。
     (せめて、連絡を取る事ができれば……)
      連絡?
      流雲はふと、顔を上げた。別に俯いていたわけではないのだが、何となく体がそう、動
     いたのだ。思いついたその言葉を、胸中で何度も反芻してみる。
     (そうだ……電話があったんだ!)
      ごく単純な発想に、流雲は身を踊らせて二階の自分の部屋へと駆け出した。そして、
     椅子にかけてあるリュックから、一枚の紙を取り出す。
     「あったぞ……どうやら、この中の物は取り上げられなかったようだな。」
      それから彼は、さらにリュックの中を漁りだし、携帯電話を見つけ出す。
     (大変な事になってなければいいけど……神薙さん。)
      固唾を飲んで、先に取り出した紙を広げる。そして、それに書いてある神薙の電話番号
     を、間違えない様にと、大袈裟なまでに見合わせながら彼はダイヤルを押した。
 
 
 


 
 
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