彼等は動揺していた。それも、焦燥というものではなく、錯乱に近かった。何をしてい
     いのか分からない。玄関から一歩でも出ようものなら、たちまちマスコミ連中に囲まれ
     てしまう。今朝がた、三十六人という大人数の患者が、一斉にしてこの世を去ったのだ。
     原因はキャッドによる――いや、“B・ウェブ”という彼等の行った手術が根元――衰弱
     死。脳細胞は確かにキャッドに侵食はされなかったが、それが埋め込まれたために細
     胞レベルのバランスが崩れ、患者の持つ生命力を少しずつ削り取っていったのである。
     結果、生命維持に異常が発生して間もなく、彼等は息を引き取った。
      その手術における研究データが、過去に成功という形で一つでも残っていれば手術
     失敗という事になるのだろうが、生憎その研究データからして不完全な代物である。
     自分達のプライドというつまらないもののために、不完全な研究のもと行った手術であ
     る。これが世間に暴露されては、医学王朝は解体――いや、明智家自体に存在危
     機が迫る。
      それだけは、何としても避けなければならない――秀治は、自分の持てる知恵という
     知恵を賢明に働かせてみたが、事態を絶体絶命から変えられる案は浮かばない。
     「くそっ! やっぱりあいつの研究は不完全だったんだ! 所詮、クズはクズだったんだ!」
      秀治の隣では、樹が彼以上に錯乱していた。殆ど発狂に近い。しばらく彼は息子を眺
     めていたが、それに気付いたか、樹は父親に迫り、
     「親父、流雲を犠牲にしよう。いや、あれを考えたのはもともとあいつだ。あいつが責任
     を背負うのは当然の事だ。そうしよう、親父。」
     「樹、少し落ち着け。」
     「何を悠長にしているんだ、親父。このままでは、俺達が危ないんだ。」
     「落ち着くんだ。」
     「親父!」
      叫んで、樹は秀治の胸ぐらを掴みにかかった――それをはたいて、秀治は一喝する。
     「馬鹿者! 焦っているのはお前だけではないのだぞ! 少しは落ち着いて、現状から脱
     出する方法でも考えろ!」
     「だから、流雲を――
     「あいつも、明智家の人間だ。医学王朝の一員ではないとはいえ、このスキャンダル
     はいずれ、我々をも巻き込む事になる。そうなっては意味がないのだ。これは明智家と
     いう、一家の問題でもあるのだぞ。」
     「……………………。」
      言われて樹は、今度は焦燥しだした。あのできそこないの弟のせいで、何故自分達が
     こんな仕打ちにあわなければいけないのかと、腹が立ってしょうがない。本当の根元は
     自分自身である事をすっかり忘れ、彼は俯き、胸中で両手をわななかせた。
     (クソ、あの野郎が。あいつがあんなレポートを机の上なんぞに出していなければ……!
     そもそも奴は、俺や親父がキャッドの研究はするなと言ったのに、何故あんなものを持っ
     ていたんだ? まさか、俺達の言う事に反発したってのか?)
      今までそんな事はなかったのに、こんな時に限って自分達の言いなりにならないとは、
     本当にムカつく奴だ、と彼は憤怒の形相で拳を握りしめた。ふと顔を上げると、階段から
     流雲が降りてくるところが見える。
     (この野郎、三階から降りてくるなと言っておいたのに。また俺達の言いなりになりやが
     らねえ……)
      樹は再度、拳を握った。こいつが言いなりにさえなっていれば、こんな事には――
      …………また?
     「流雲!?
      自分でも驚くほど――当の流雲よりももっと――の声で、彼は弟の名を呼んだ。
      流雲はこちらに走ってきた。同時に樹がぶん殴ってやろうと拳を振り上げ――その前
     に、秀治が立ちはだかる。
     「どうしたのだ。お前は、いいと言うまでは三階に監禁だと言っておいたではないか。」
     「どうした――ってこちらが訊きたいですよ。うちを取り囲んでいる人達は一体、何なん
     ですか? 見たところ、取材か何かの様でしたけど。何かあったんですか?」
      それを聞いて樹は、今度こそ怒りが爆発したようだった。自分達の苦労を流雲は全く
     知らなかったのだから分からなくもないが、それこそ幽閉されていた彼にそんな事は分
     かったものではない。その彼を秀治は制し、今いる居間の、ソファーの上に置いてあった
     数枚の紙――流雲のレポートを手にとって、
     「それは、お前の考えたキャッド解析が失敗したからだ。今朝がた、“B・ウェブ”を施した
     キャッド患者三十六人が全員死亡した。衰弱死だ。」
     「! そんな……!?」
      流雲は、顔を蒼白にして驚愕した。
     「お前の研究は不完全だったのだ。キャッドに対する抵抗力はあっても、患者の肉体構
     成までは頭に入れてなかった様だな。研究が不完全である事を連中が知れば、たちま
     ちそれは世間に広がる――最悪な場合、殺人容疑で逮捕、それも大人数なだけに死刑
     の可能性もある。」
      流雲は、さらに蒼くなった。秀治の後ろで話を聞いている樹も、彼と同じくらい蒼白して
     いる。
     「さあ、どうする?」
      秀治は、流雲に迫った。治療法が不完全なら、せめて現状の脱出法は考えてもらおう、
     ワラをも掴む思いの表情で。
      流雲の返事は――単純だった。
     「その、不完全な研究を父さん達は何故、手術に用いたのですか?」
     「てめえっ、俺達に楯突く気か!?」
      とうとう樹が流雲の胸ぐらを掴んだ。その時、にわかに玄関の方が騒がしくなる。
     「何事だ?」
      秀治が騒ぎのする方へと向いたと同時、数人の新聞記者らしき人間が、質問をまくし
     立てて駆け込んできた。
     「明智さん、今回行われました、“B・ウェブ”手術の失敗について、感想はいかがです
     か?」
     「何故、患者全員が死亡したのでしょうか?その点について、お気付きの点がありまし
     たらどうぞ。」
     「やはり、医学王朝のCAD研究が不完全だったのでしょうか?」
      彼等にもみくちゃにされ、樹はあまりの唐突さに腰が抜けてしまった。流雲も、その場
     に金縛りにあった様に佇んでいる。ただ一人、秀治が彼等を押しのけ、叫ぶ。
     「な、何なんだ、お前達は!? いきなり人の家に入り込んで。不法侵入だ!」
     「お宅の執事さんに入れてもらったんですよ!ドアを開けてくれたもんで!」
      答えたのは、先頭の記者だった。開けてやったのではなく、開けた時に入ってきたのだ
     ろうと秀治は言い返そうとしたが、彼等の勢いにひるみ、彼は二、三歩後退する。
     「明智さん! 一体、手術失敗の原因は何なんでしょうか。やはり、CAD解析が不十分だ
     ったのですか?」
      絶体絶命だった。崖っぷちに立たされた思いだった。
     『医学王朝の名を汚す事だけは、許されない――
      秀治は、無意識のうちに流雲のレポートへと視点を転じていた。記者達が「それは何で
     すか」と訊いてくるが、答えている余地はない。視点を滑らせる様にそれを見て、ふと一
     枚の紙の右端に視点を止めた。共同研究者、と書いてある。二人。同時に、こちらを覗き
     込んでくる記者の顔が見える。
      彼は、もう何が何だか分からない状態にあった。その時、自分で何と言ったかすら覚え
     ていない。ただ、二人のうち、短くて言いやすい人間の名を口にした様な気がする。
      秀治は、声を荒げた。
     「“B・ウェブ”の発案者は私達ではない。私達はそれを実行しただけだ。発案者の名は
     ――神薙司という男だ!」
 
      真崎は、その日の朝も口をきかなかった。神薙が朝飯を食べている時も、その後も、た
     だ黙って一人でテレビを見ているだけだった。
      彼女の沈黙が一日半も続いている――
     (一体、どうしたんだ?)
      怪訝に思って、彼はキャッドの事をまとめた紙を手に、居間の真崎へと近づいていった。
     刹那、テレビの映像が切り替わる。
     「……番組の途中ですが、ここでニュースをお伝えします。先日、医学王朝が行った
     “B・ウェブ”手術は失敗に終わり、三十六人の患者全員が死亡しました。これについて、
     『医学王朝側は手術実行のためのキャッド解析が不十分であった事を表明しました。ま
     た同時に、この“B・ウェブ”を発案したのは医学王朝ではなく、神薙司という男性であ
     る事も表明し――
      耳を疑った。それが彼の最初にした事だった。患者が全員死亡した事に、ではない。そ
     れはもう、予測できた事だ。だが、手術の発案者。問題はこれだ。自分はその手術の内
     容すら知らなかった。なのに――
     (俺……だって?)
      そうは思っても、何かの間違いだろうと頭の中では現実から逃避する。彼はとりあえず、
     テレビの前の、真崎の顔を覗き込んだ。
     「おい、どうしたんだ。元気ないじゃないか――?」
      その時、何か違和感を感じた。ふと、彼女の腕に目をやると、まだ春とはいえ、腕が異
     様に白い。というか、昨日まではそんなに白くなかった――
      瞠若していると、その腕をさっと隠す様にして真崎はその場に立ち上がり、階段の方へ
     と走っていった。無言で。
     「あ、おい――!」
      彼女を追いかけはせず、彼はその場で驚愕していた。さっきのニュースと同じくらい。い
     や、それ以上かもしれない。動悸が激しくなり、震える様にして両腕に鳥肌が立つ。
      肌の色が、透ける様に白くなる。大抵は腕、あるいは足から。四肢に現れる病状が、次
     第に体全体に広がっていく――脳を除いて。
      死を意味する白。細胞というものの小さな死が、やがてその人間をも死に至らしめる。
      そして、真崎――彼女の腕。その白さ。
      それは間違いなく、キャッドの症状だった。
 
 
 


 
 
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