翌朝。
神薙は、人生で最も寝覚めの悪い朝を迎えた。
いつもの様に起き、いつもの様に着替え、いつもの様に下へ降りる――が、その一挙手
一投足がとてつもなく重く、辛い。
下へ降りると、これもいつもの様に朝食が彼を迎える。いつもの様に席に着き、いつもの
様にそれをたいらげる。だが――
ただひとつ――既に朝食を食べ終わっている真崎が、一言も口にしない。彼が降りてき
た時から。彼が食べ終わるまで。ずっと。それだけが、いつもと違っていた。
いや。
彼女は、昨日から彼と口をきいていなかった。あの時から。
(法井の奴を見た瞬間から、こいつが何か言ったためしがねえ……。)
だが、それはそれで、やたらうるさい真崎が静かになったと思えばいい、と神薙は楽観
的に考える事にした。
(けど、言った方がいいのだろうか……あいつの事を。ひょっとしたら、こいつの事だ。法井
の事をただの不法侵入者としか見てないかもしんないが……)
そこで、彼の楽観的な思慮は停止した。隣の居間で、彼が降りてくる時には既に朝食を
終えていた西村が、テレビ――どうやら朝のニュースか何かだろう――を見ているらしい。
そのテレビから発する人の声が聞こえたからだ。
彼は朝食を中断し、居間へと走っていった。その様子を見て、畳の上に座っている西村
が、手を挙げて挨拶する。それに彼も手を挙げて応え、西村の隣に座り込む。
テレビは、マイクを持った一人の女性を映していた。彼女の背後にあるのは、『医学王朝』
付属病院である。西村に訊くと、やはり朝のニュースらしい。テレビの女性アナウンサーは、
マイクを持って真剣に語り始めた。
「えー、ここ、明智家付属病院では、昨日、CADの治療手術が行われました。昨日だけで、
その手術を受けた人は三十六人という大人数でありまして、その結果を世界中の人間が
待ち望んでいるわけであります。俗に、明智家の別名であります『医学王朝』の二代目、
明智秀治さんが発見されたというこの手術法は“B・ウェブ”と名付けられ、その内容といた
しましては、CADに対する抵抗力を持っていると思われている脳細胞を、CADに侵食され
た細胞の中に、網で包囲する様に埋め込み、CADに対する抵抗力を細胞全体に繁殖させ
ると共に、細胞の回復、復元を狙ったものであります。また、これに関しましては、秀治さ
んの息子さんであります、樹さんも手がけているらしく――」
それ以上の事は耳にせず、神薙はその場で俯いた。
隣でそれに気付いたのか、西村はテレビを消して神薙と向かい合った。昨日、神薙が慌
てて『医学王朝』を止めに家を出ていったのを、西村には「どんな騒ぎなのか見に行ってく
る」と言っておいた。実際、西村の方も、「司は『医学王朝』に嫉妬しているのだろう」と(誤
解だが)それを納得しているだろう。
実際そうなのか、彼は神薙を落ち込んでいるものと見て取ったらしい。彼は薄く笑みを浮
かべ、神薙の肩をポン、と叩いた。
「司……気にするな。お前はよくやったさ。ただ、やっぱり、ああいった大きな組織には、個
人の力じゃ勝てないのさ。それも、国内でもトップクラスの、な。まあ、しかしまだ完全にキ
ャッドってやつが解明したってわけじゃないんだろ?
だったら、そいつで『医学王朝』の先
を越してやればいいじゃないか。まあ、お前の事だから、黙っててもそうするんだろうけどな。
ま、どのみち、あまり落ち込まない事だ。何たって、お前らしくない事だからな、それは。」
(そう。解明したわけではない。)
彼は、胸中で独白した。同時に、付け加える。
(まして、治療されたというわけでもない!)
確かに無力だった。個人では。西村の言う通りに。
法井はどこにいるか分からない。何を考えているかすらも分からない。久池井は、自分達
の案が『医学王朝』に洩れた事を残念がって、拗ねている(拗ねる程度で済めばよいが)ら
しい。そして、その洩れる原因を作った流雲は――昨夜の、彼からの電話によると、口封じ
のため『医学王朝』に幽閉されているという。まあ、当たり前といえば当たり前だろうが。
個々の力はあっても、それが分離されると、これほど脆いものはない。彼は今まで、この
時以上に自分の無力さを呪った事はなかった。
(無力だ――)
隣の、親友の気配もまるで感じない。いつもの真崎の声も聞こえない。
(打つ手なし、だ。何もできない――)
何もできない。ただ黙って、患者の死を待つ事以外には。
その、彼の絶望の成すがまま、彼としての一日はそこで終わった。終わった様なものだっ
た。
彼は、何もできなかった。
それこそ、この大して大きくない邸から出る事はおろか、決して来客が入ってくる事のない
三階からすらも出る事はできなかった。
いや、禁止されていたのだ。彼の父親と兄という、たった二人の人間によって。ただそれだ
けなのに、彼にはそれを破る事ができない。彼等の創った“規則”を。
そんな事は、つい数日前に終わったものだと彼は思っていた。しかし、いざ実際に実行を試
みても、なかなか身体が意志についていってくれない。“規則”の及ぼす力とはまあ、その様
なものなのだが。
(何故だ!?)
その様なものに、彼は絶対的な疑問を抱いていた。
(もうしないと決めたのに! もう、『医学王朝』の言いなりなんかにはならないと決めたのに!)
そしてもう、泣かないと決めた――
そう思っていた時には既に、一筋の涙が頬を伝っていた。
「あ――あれ……?」
わけが分からなくなって彼は、ハッと顔を上げた。三階にある、彼専用の――彼しか使う事
のない研究室を見渡す。涙を拭う事すら忘れ、彼はその場に佇んだ。双眸から溢れる涙は、
今や頬全体を濡らしている。
(ここは……どこだ? 久池井教授は……神薙さんは……神薙さんはどこだ?)
彼は辺りを見回した。だが、久池井教授がいつも用意している研究用具はどこにも見当た
らないし、第一、慶応の研究所の一室とはこんなに広くない。自分はといえば、いつも持って
くる青いリュックは持ってないし、かといってその中身である研究レポートだけはしっかり持っ
てきているというわけでもない。
(研究レポート……?)
何か引っかかるものを感じ、彼はその単語を胸中で反芻した。昨日、慶応に行く時に忘れ
ていったもの。当日、久池井教授と行うはずだった研究内容が書かれているもの。父親と兄
に、奪われてしまったもの。『医学王朝』が隠匿したもの。自分を幽閉に陥らせたもの。
事態の根元となったもの。
(忘れていった……それを父さんと兄さんが見つけて……?)
今、自分は『医学王朝』によって幽閉されている。口封じのために。自分が発案者であると
いう事を世間に洩らさないために。しかし、それは自分のミスがもとでそうなってしまった――
自ら、『医学王朝』への帰化を望んだ?
刹那、彼の視界はまっ白になった。
「違う!!」
彼の叫びと。研究台を叩く音とが。
激しく、しかし空しく研究室を飛び交った。
「そうじゃない! 僕のミスだ! あれを忘れてさえいなければ、僕は『医学王朝』に勝っていた
んだ! あれを忘れてさえいなければ、僕は――」
(個人の力で、CADを倒せていた――)
『医学王朝』という、組織から完全に脱した事を証明できたはずだった。
自分の発案した研究の結果を、また、それが彼にとって吉と出るか、凶と出るかも知る由も
なく、彼はそう誤解していた。
誤解しながら、彼――流雲は、自宅の三階にある研究室の中で、予想を裏切る翌日を前に、
彼の一日を終えようとしていた。
そして、彼等の夜明けはやってきた。
『医学王朝』がCAD患者に“B・ウェブ”を施して三十九時間後、大量殺人は遂行された。
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