彼は、たった一枚の紙切れと、未だ格闘を続けている。正確に言えば、その紙切れに書
かれている内容なのであるが、そんな些細な事は、彼は気にとめなかった。赤ペンを持っ
て、その内容に、さらに付け加える。
『CAD細胞……超過憑依の魂によって核以外が蒸発してしまった細胞。いずれ、その残っ
た核も崩れ果てる。ただ、その前に肉体が何らかの病原体に侵食され、滅びる場合が多
い。非生物においては、分子レベルの構造が魂の憑依によってアンバランスとなり、いず
れは分子レベルの崩壊を起こす(風化に似た現象と思われる)。
脳細胞がCADに侵食されない理由(法井も知らない)……グリア細胞は、生物の記憶
力を成す。朽ちたグリア細胞は、再生する事はない。細胞との違い。生物の記憶……?』
久池井は、機嫌が悪かった。大学の教壇に立ちながら、ポインターを握る手に無理な力
を込める。結果、黒板を示す度にバシバシ音を立てて、それが学生を脅かす事となってい
た。
(クソ、学長の野郎。何も一日くらい無断休講したくらいで、俺に警告まで出さんでもええや
ないか。)
昨日、かつての教え子の一人と『医学王朝』の次男坊とで医学研究するために、無断で
その日の授業全てを休講にしてしまったため、彼は今日の朝早くに学長に呼び出され、も
う二度とこんな事はないようにと、警告を受けてしまったのだ。
というのも、ユニークな人格と、若い――学生と年が近い、という事もあって、彼は学部内
の人気教授であった。そのため、無断休講されたとあっては、つまらん講義ばかりするくそ
ジジイ共の授業はともかく、彼の場合は学生達が残念がるわけである。そしてその波紋は、
学長の耳に入るほどの広範囲に及ぶ。
しかし、久池井はそんなもの、どうでもいいと思っていた。今日、行うはずだった研究の事
を思うと、講義に身が入るものではない。どうにも落ち着かなくなって、学生に演習させると
装って、教壇の席に着いて考え込み始めていた。
(グリア細胞をキャッド細胞の一つに埋め込む……脳だけは、キャッドに侵食されんのやか
ら、何らかの異変はあるはずや。細胞に、キャッドに対する免疫そのものを付けるのやなく、
対キャッド用の細胞の抵抗力を付ける! さすが『医学王朝』の人間やで。こんな発想がで
きるんやからな。グリア細胞によるバリケードってトコや。うまくいけば、グリア細胞が周り
の細胞のキャッド侵食を妨げてくれるかもしれんで……。)
先端が“手”の形をしているポインターを弄びながら、彼はこっそりとほくそ笑んだ。
(そう……キャッドに対する抵抗力を付けるしかない。)
彼は、胸中で自分に言い聞かせる様に独白した。それに答える様に、独り頷く。
(しかし、キャッド――魂なんかに抵抗できる様な要素を、人体に付着させる事が可能なの
か?)
彼は俯いた。手にしていた赤ペンを、とりあえずテーブルに置いて頭を抱える。こんな苦
悩は初めてだ、と彼は思った。答えの欠片すら見当がつかないからだ。学校の宿題で相
対性理論の方程式を出された様な気分で、彼――神薙はかぶりを振った。
魂といったら、言い換えれば幽霊の様なものだ。というか、幽霊そのものかもしれない。
現代人に嫉妬しているというのだから、やはり幽霊と表現した方がいい。そう考えれば答
えは簡単だ。霊能力者でも連れてきて怨霊退散の儀式をしてもらえば、世界中の医者が
頭をひねっている難病はすぐに治るじゃないか。
と、我ながら変な事を考えるものだ、と神薙は自嘲じみた笑みを浮かべた。そんなに簡
単に解決するものなら、法井は俺の所なんぞではなく、世界最高の霊能力者の所へ行っ
てるだろう、と。
だが、それがかえって彼の気分転換となった。ふと気が付くと、既に時計は午後二時す
ぎを指していた。バカげた事なんかを考えていたのに、空腹に、時間感覚に気付かないほ
ど自分は集中していたのだろうか? と自分に問いながら、台所の棚からカップラーメンを
取り出した。どうも今は外食する気はない。
神薙はやかんに水を入れ、コンロに置いてスイッチを入れた。思えばこんな昼食は学生
時代以来だ、と何となくおかしくなってきた。のどかな風景にいる自分を見つめて、さっき
までの苦悩を忘れてしまいそうな感覚に陥る。果たして、本当に現世に恐ろしい難病が存
在するのだろうか? それなら、自分の知っている人間の一人くらいはそいつに冒されても
おかしくないじゃないか? そんな事まで考え始める。
やかんが湯気を吐き出す中で台所の調度品を眺め、彼は本当に自分のした事が杞憂だ
ったと信じ込みかけた。それくらい自分が疲れていたのを、その時彼は、はじめて自覚した。
彼の視界に、ブルーの髪と双眸を持った女性――法井の姿が映って見えたのである。
あまりの唐突な出来事に、一瞬、神薙はそれこそ幻を見ているのか、と訝ってしまった。
法井はというと、いつもの様に、出会い頭に見せる、頭に来るまでの笑顔ではなく、どこ
か悲痛を感じさせる双眸をこちらに向けている。彼女はゆっくりと歩を進め、こちらとテーブ
ルを挟む形で足を止めた。
「…………法井?」
神薙は彼女に、しかし自分自身に問う様に言った。彼女は何も言ってこない。ただ、じっ
と、悲しそうな瞳でこちらを見つめるだけ……。
(何なんだ、一体……?)
再び、彼は訝った。目の前の人物は、本当に法井なのだろうか?
それとも本当に、ただ
の幻覚なのか? だが、訝る前に自分で確かめた方が早いと、蓋を持ち上げて沸騰を知ら
せるやかんを背に、彼は法井の方へと近づいた。
テーブルをかわし、彼は――おそるおそる、法井の肩に手をやった。同時に、そこから体
温が伝わってくるのを感じる。とりあえず、法井本人である事を確認して、彼は安堵した。
それに応える様に、法井はようやく沈黙を破った。今にも泣きそうな声で。
「助けて……」
(……え?)
三度、彼は訝った――というか、わけが分からなくなかった。そうしているうちに、彼女は
言葉を続ける。
「助けて……人が、人が大勢死んでしまう……」
「……何だって?」
聞き捨てならない言葉に、彼は法井に視点を集中させた。涙こそ流してないものの、彼女
は顔をくしゃくしゃにして、それを神薙の胸に埋める。
「『医学王朝』を止めて……彼等が、彼等がキャッドの過ちを犯そうとしている……!」
「過ち……って、おい、落ち着け! 一体、何が起きたってんだ?」
「彼等は……流雲の研究データを奪って……誤ったキャッドの解析を行っている……あの方
法では……ダメ……かえって、病状を早めてしまう……彼等を……止めないと……!」
「止めろって……お前なら簡単だろ? いつか流雲と俺を会わせた時の様に、そいつらの記
憶をいじってやればいいじゃないか。キャッドに対する記憶を消してしまえば……」
「無理よ!」
法井は、叫んで顔を上げた。一筋の涙が、頬をつたう。
「歴史を変える様な事は……進行中の言動を変えてしまう事は……できない。」
「できないって……進行中? どんなデータだか知らないが、連中はその研究の最中なんだ
ろ? だったら、それが終わった時に記憶を消してやればいいじゃないか。いくら何でも、一
日やそこらで研究して、そいつを即、世間に公開しようってバカな事は、連中も考えちゃいな
いだろ。」
「考えているのよ。」
冷淡に、彼女は吐き捨てた。
「…………何だって?」
「そんなバカな事を、連中は考えているのよ。後先を顧みない様なまねを、ね!
明日にでも
公表して、患者を集めまくるわよ。その患者全員を殺してしまうとも知らずに。その治療手術
を受けると、すぐに――とはいわずとも、二日もかからずに、衰弱して死んでしまう。」
「な……何で、そんな事をするってんだ! あいつら、東大出以外の人間は相手にしないんじ
ゃなかったのか!?」
「そこが問題なのよ。自分達が手も足もでなかった難病を、三下と思っていた流雲が解決し
た――あくまで、彼等がそう思いこんでいるだけだけど――事で、彼等のプライドはズタズタ
になった。そして、それを挽回しようと、自分達――『医学王朝』の手で流雲の研究を完成さ
せようとしている――」
「バカげている!」
神薙はたまらず、吐き捨てる様に叫んだ。あまつさえ、法井の肩を掴み上げる。
「医者にプライドもクソもあるか! 患者を治療する事だけが、医者の信条じゃねえのか!」
「……………………。」
法井は、それ以上言い返してこなかった。ただ、両肩を掴んでいる神薙の手を、ゆっくりと
そこから離す。それに合わせて、彼の動作も穏便なものとなる。
彼は、ゆっくりとかぶりを振った。俯いて、告げる。
「……悪い。お前にあたるつもりは……。」
「いえ、いいの。もとは私が悪いんだから。」
法井は、彼女もかぶりを振り――きびすを返し、テーブルの奥へと歩いていって、蒸気で
騒擾しているやかんのコンロを切る。それに神薙は、今さら気付いた様にハッとして、
「……すまん。うっかりしていた。あんな大きな音がでていたのに。」
「いいわよ、こんな事なら。それより、ここへ来たのは頼みがあっての事なの。」
「頼み? キャッドの治療以外でか?」
「ええ。流雲君に会って、『医学王朝』を止めてくれるよう、頼んでほしいの。」
「頼んでほしい、ってお前、それこそあいつの記憶をいじってやりゃ、そんな事……。」
「だからダメなのよ。実際にあなたと会って頼まれたという記憶でないと。単に『医学王朝』
を止めるという記憶だけでは、いざという時に連中が「そんな事はしていない」なんて言い
のけたら、“止める”理由という記憶がはっきりしてないから、ひるんじゃうわよ、あの子。た
だでさえ、連中には逆らえないのに。それに、私が直接彼に伝えるにしても、まだ彼とは
対峙した事がないもの。話なんて聞いてくれるわけがないわ。」
「……なるほどな。」
一つ頷いて、神薙はきびすを返した。足を玄関の方へと向けて、法井に訊く。
「で、流雲の居場所は分かっているのか?」
「慶応の、栄養学部校舎の図書館よ。久池井教授が研究に参加できないからって、彼に
そこを使わせてもらってるみたい。ちなみに、あなたの友達もそこに行ってるみたいね。」
「ああ、朝に確か、そんな事言ってた……久池井さんが、研究に参加できない?
あ、そう
か、授業か……分かったよ、栄養学部校舎の図書館だな?
あそこはそんなに広くないか
ら、すぐに見つかるだろ――」
神薙は、そう言いながら歩を進めようとし――同時に、玄関のドアが開く。
ガチャッ
「ただいま〜。」
考える余地もなく、声の主――真崎と、西村はそのドアをくぐって神薙のいる食堂へと入
ってきた。そこへすかさず真崎が口を開く。
「ねえねえ、かんちゃん。お昼にテレビ、見た?
かんちゃんの研究してるキャッドってやつ
の治療法を『メディカル・ディナスティ』の人達が見つけたんだって。すごいよね。いつか、
かんちゃんが格好つけって言ってたけど、やっぱりやる事はやってるんだよ、あの人達…
…って――?」
彼女は、言いかけの言葉を飲んで呆然とした。目の前には、同じく呆然としている神薙
の姿と、これまた呆然と佇んでいる、見慣れない女――髪と双眸がブルーの女性――が
彼の後ろに見える。
(何……だって…………?)
それは肉声だったのか、言った神薙自身もよく分からなかった。いや、実際は言ったつ
もりで、胸中での独白だったのかもしれない。ただ、それよりも彼女の小さな呟きの方が、
はっきりと、聞いて取れた。真崎は、ピントが合わない双眸をこちら――神薙のやや後ろ
ろ――に向けて、ただ一言、呟いた。
「あなた、誰…………?」
その日の夕方。
世界中が注目する中で。
慌てて出ていった法井を目で見送ってから、一言も口をきかない真崎がテレビに釘付
けになっている中で。
無駄とは分かっていても、流雲を探して二人で『医学王朝』に向かって神薙が走る時
間の中で。
『医学王朝』による、公開大量殺人が行われた――
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