「んっ〜…………とっ。よく寝たな〜。」
      階段を踏みしめる音と共に、彼がその日最初に聞いた言葉がそれだった。まるで昨日の
     悪夢の様な出来事を忘れさせるかの様なのんきな声で、真崎は二階から降りてきた。
     「さって、と。今日はどんな朝ご飯を作ろうかな……って……?」
      彼のすぐ目の前――といっても、実際彼は顔を上げてはいないのだが、とにかくその声
     は、そこで止まった。
      しばらく、というか大分待っても、その声の続きが聞こえてくる気配はなかった。訝って、
     神薙ははじめて顔を上げた。同時に、この世の異形な物体を見るかの様な双眸で立ちつ
     くす真崎の姿が目に映る。
     「かんちゃ……ん? どうしたの、こんな朝早くに。何かあったの?」
     「俺が早起きして、そんなに悪いか?」
      彼は、陰険な視線を真崎に向けた。が、すぐに意識を――もとのテーブルの上に置いて
     ある一枚の紙に集中させる。
      真崎は、普段なら自分に対して何らかのボケをかますとか、とにかく相手をしてくれる神
     薙が、自分の話に首を突っ込まず、かつ個々の行動がテキパキしている事に、素直に驚 
     愕した。そういえば昨日も彼は夜遅く帰ってきたと思えば、まっ先に風呂に入ってそのまま
     寝てしまった。きっと昨日に、何かあったんだろうと勝手に決めつけてこれ以上彼に構わな
     い事にした。代わりに別の話題を持ってくる(それでは前者の意味がないのだが、彼女に
     は分からないらしい)。
     「……ああ、かんちゃん。今日は朝ご飯何がいい?」
     「別に。いつものでいいよ。」
     「……ん〜と、そうだ。あのね、今日はボク、学校に行ってくるから。」
     「学校……慶応か? 何でだ?」
     「あのね、さっくんが研究資料が欲しいからって、案内してくれって。かんちゃんと一緒で、
     さっくんも研究熱心だよね。このために東京に来たんだから。かんちゃんは今日も学校に
     行くの?」
     「……いや。今日は行かない。」
     「あ……そう。」
      恐らく、返事が予想と反していたのだろう、彼女は面食らった様な声を出した。それから
     しばらく、トントン……という、彼女が動かす包丁の音だけが部屋の中を飛び交う。
      年中しゃべりっぱなし、というよりとにかくいつも何かしゃべっていなくては気が済まない
     真崎にとって、こんな空間にいるのは正直辛かった。黙っていては料理にも集中できず、
     思わず指を切ってしまう。
     「痛て。」
      どうにかしてこの重い雰囲気から脱したい。そう思いながら切った指をくわえる彼女に、
     二階から救世主が降りてきた。その彼にちょっと挨拶するつもりが、つい叫んでしまう。
     「あ、さっくん! おはよ〜。」
     「おはよう。しかし、朝っぱらからすごい元気だな、お前。」
      そう言って西村は冷蔵庫に付いている物掛けに掛かっている新聞を手に、席に着いた。
     普段、真崎が新聞を取りに行ってそこに掛けておくのだが、どうもいつもと掛け方が汚い。
     だがまあ、大した問題ではないと、考えるのをやめて隣の神薙に声をかける。
     「おはよう、司。朝っぱらから熱心だな。」
     「……そうだよな、普通はそう接するよな。何も驚いたりしないよな。」
      しかし、神薙の返事は彼にはよく解らないものだった。反射的に真崎の方を見やると、
     彼女は顔を背けて包丁さばきを再開する。
     「……一体、何があったんだ、お前ら?」
     「あん? 俺がちょっとあいつより早く起きただけで、この世の末が来た様なツラしやがっ
     たんだ、あのアマは。」
      返事はなかった。まあ、そんなものだろうと彼は再び目の前の紙と格闘を始めた。昨日、
     法井が話してくれたキャッドにおける情報の全て。それを彼がまとめたものである。
      しばらくして、真崎の朝飯の用意ができたという声が、彼を一時休止させた。その時に
     ふと西村の方を見て、驚愕する。彼は、真崎の時のそれと変わらぬ顔でこちらを見ていた。
     「司……今日新聞取りに行ったの、お前なんだな。」
      もう、どうでもいいか、と胸中で独白し、神薙は特にどうという反応を示さず、すぐに朝飯
     に手をつけ始めた。それに対して、西村は真崎と顔を見合わせ、首を傾げる他はなかった。
     ただ、神薙が手元に置いてある、一枚の紙切れだけが、素知らぬ顔でテーブルに佇んで
     いる。
      この日、この時までは、まあ日常の生活ではあった。
 
      三年前、西暦二〇〇七年に慶應義塾は、栄養学部を新設した。当時、慶応にはもうこ
     れ以上の新設は不必要ではないかという声もあがったが、七年前に医学王朝の初代
     がエイズを攻略した時、栄養学からの視野が攻略に大変役立ったという彼の一言が、日
     本各地の大学に栄養学部新設を促す結果となった。それから四年、慶応は医学部のあ
     る信濃町に、新校舎と共に栄養学部を開設したのである。
      それとは全く関係はないのだが、広島大学理学部、生物科学科を卒業した西村冴樹
     は、以前から著名な大学にある、新設された栄養学部に興味があった。親友とは違う、
     食物という観点から生物の、人間の医学を追求していく事が彼の人生の目標であった。
      西村は真崎の案内で栄養学部の校舎――医学部のそれとは、微妙に離れている。
     徒歩で一分とかからないだろう――の図書館に入れてもらった。本当は学生証なしでは
     立入禁止なのだが、真崎がここの係員と顔馴染みなため、パスしてもらったのである。
      早速西村は、手頃な本を三、四冊引っぱり出して学生の多い中、席を確保した。真崎
     はその姿を、神薙のそれと重ねて見る。親友とはここまで似るものなのかと、半ば羨ま
     しげに彼をしばらく眺めていたが、自分もたまには本でも読むかと、背を預けていた本棚
     に目を通し始める――
      と、その本棚の向こう側から小さな声が聞こえてくる。話し声の類ではない、独り言だ、
     と彼女はすぐに分かった。何となく気になって本棚を回って声のする方を覗いてみる。
      声の主はすぐに分かった。というか、そこには彼一人しかいなかった。恐らく、彼を嫌が
     って周りの学生が避けているのだろう。赤のジャンパーにジーンズ姿、茶髪で後ろからだ
     と顔は見えないが、恐らく自分より二つ三つは年下だろう、隣の椅子には青のリュックを
     掛けている。途切れ途切れではあるが、少々離れていても彼の独り言は耳に入ってきた。
     「……薙さん……来ない……久池井教授……ここ使わせてくれた……つまらない……研
     究……。」
      ブツブツと続けるその男の独り言をそこまで聞いて、さすがの真崎も顔を青くしてその場
     を退散し、早く忘れようと適当な本を一冊取り出し、西村の隣に座った。対して西村は、そ
     れを横目で、よく分からないという目で見る。が、すぐにまた本に視線を戻す。
      それからしばらく、真崎は赤ジャンの男の独り言の中に、何か聞き覚えのある様な言葉
     があった様な気がしたみたいと、胸中に謎をつっかえさせながらも、カビの図鑑という本
     を嫌そうに、しかし男の事を早く忘れようと、必死に読んでいった。
 
      彼は紙にこう書いていた。
     『エイズ……人体活動の全てを理解してはじめて攻略できる難病。故にこれを治療できる
     術を利用すると、全ての病の治療が可能。
      超過出現の魂……地上から不治病が消えた事で、現世の生物に嫉妬して“憑依”を目
     的として地上に上がってきた、過去に不治病で肉体を失った魂。また、不治病により没し
     た魂の転生は困難。
 
      彼等は、息を飲んでいた。息子の、あるいは弟の書いた、「実験結果」と題された数枚
     の紙を彼等は小一時間、凝視し続けている。
      それには、ありとあらゆる方法研究――二日目、と書かれているのだから、最高でも二
     日という短時間でこんなに医学研究がこなせるものかと彼等は訝ったが、すぐに考えを改
     めた。それは全て、誰かしらが行ったCAD研究のうちのいくつかである。それがすぐに失
     敗だと分かる代物だという事は、マスコミで既に知っていた――で、CADの攻略を試みた
     結果がぎっしりと、しかし丁寧に書き込まれている。それらの、全ての結果は一致してい
     ――CADは、細胞の核以外を何らかの現象で削除、あるいは消去させている――
     少の言葉表現が違えど、結果欄にはそう記されていた。が、彼等が関心を持った――
     まり、今、凝視している事柄のみはその結果を覆すものだろう――ものに彼等は思えたの
     だ。数枚のうちの、最後の一枚。彼等の視界の、上半分には赤い文字が映っている――
     研究三日目・予定
      そこに記されている研究実験内容はかなり特殊なものであった。恐らく、世界中の、ど
     の著名な医学者も、こんな実験は試みた事はないだろう。いや、考えた事すらないかもし
     れない。流雲を下等扱いしていたこの二人も、実際こんな事を考え出す人間が出現する
     なんて予想だにしなかった。しかも、こんな身近に。
      研究二日目の日付からして、その三日目というのは今日の事なのだろうが、何故か彼
     は研究レポートを机の上に出したまま、どこかへ研究に出かけている。まあ、そのうち忘
     れ物を取りに帰ってくるかもしれないが。しかし、彼等はその前にこのレポートを手中に収
     めておく必要があった。彼等の目的のために。
     「……この研究は、我々の様な人間がやるべきなのだ。」
      唐突だ、と樹は思った。そのくらい急に、秀治の独白は沈黙の空間をひどく引き裂いた。
     「我々医学王朝の威厳確立のため、これは我々の手で完成させなければならん……。」
      レポートを手にとって、秀治はその場に立ち上がった。後ろに控えていた樹の方に振り
     向きもせず、言ってくる。
     「これを実行するのに、我々にはどれほどの時間が要る?」
     「あのあいつが考え出したんだ。俺達ならものの数日で済むさ。」
      思わぬ返事が返ってきた――秀治ははじめて樹の方へと振り向き、
     「医学研究だぞ? 何日と言わず、何ヶ月、いや何年とかかろう?」
     「かかんねえよ。すぐに済む。」
     「しかし、仮に成功してもそれの後遺症についてだとか、時間を必要とする要素がある以
     上は……」
     「かかんねぇんだよっ!」
      樹の叫び声に一瞬、秀治は身じろぎした。それに追い打ちをかける様に樹が続ける。
     「あのチンケな弟が未だ世間に知られてない様な攻略法を見出したんだ! だったら、そ
     れを俺達が短期間で完成させられないわけがない!」
      追いつめられた様な、そして、何かに怒りを感じている様な声だった。そんな声で、樹は
     父親の両肩を掴んで叫んだ。
      秀治は、勿論息子の気持ちは分かっていた。自分もそれと同じ気持ちだからだ――
     さか、東大出でもない次男に、こんな発想ができようとは。手に持っているレポートを引き
     裂きたい気持ちを何とか抑えて、彼はドアノブに手をかけた。
     「……分かった。すぐに実行に移そう。付属病院に急ぐぞ。あいつが帰ってくる前にな。」
 
 
 


 
 
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