第5章・ジェノサイド

      いつになく重い足取りで、神薙はようやく信濃町駅から帰路に着いた。
      午後八時。
      研究にのめりこみっぱなしだった久池井と流雲に引き替え、神薙は結局、研究の目的を
     掴みきれず、最後まで苦悩と現実の往復で時を過ごしてしまった。ついさっき駅で見送った
     流雲はさっぱりとした表情だったが、神薙はこの一日で一気に老けてしまった様な顔をして
     いる。「これというのも全て、あのくそ女のせいだ。俺が苦労しているのを少しでも知ってい
     るのなら、とっととキャッドについて教えろってんだ」と、彼は怨恨じみた呻きを洩らした。同
     時に――ある考えが脳裏をよぎる。
     「はい、お疲れさま。」
     「……やっぱし。」
      神薙は、声だけで後ろの人物を知る事ができた――が、あえて振り向く。そこにはジュー
     スを片手にムカつくほど爽やかな笑顔で佇む法井の姿があった。が、それを彼は相手にせ
     ず、再び帰路に着く事にした。
     「何がやっぱりなのよ……って、ちょっと、どこ行くのよ、キャッドの事について訊きたかっ
     たんじゃないの?」
     「ああ、もうそんな事はどうでもいい。俺はもう疲れた。」
      神薙は振り向きもせず、足も止めないまま呟く様に応えた
     「ダメよ、そんな事! あなたのお父さんも応援してるってのに。」
     「親父が? そんな事、どうして分かるんだよ。」
     「それは勿論。私はこの地球上の事なら何だって分かるからよ。」
      言って、法井は自慢げに胸を張ってみせた。腰に手をもっていって。しかし、それにも神薙
     は、わずかに視線を後ろに向けただけだった。ただ、ひたすらに足を運ぶだけだ。真崎の家
     へと。
      それから法井はしばらく、ただ黙ってついて来るだけだった――が、いきなり神薙の前に
     出ると、神薙の顔を覗き込んだ。
     「どうしちゃったのよ、一体!? キャッドはあなたでないと治せないのよ? それは前にも――
     「聞いたさ、何回もな。」
      そう言って、はじめて彼は足を止めた。法井を見る彼の双眸が、疲労から険悪なものへと
     変わる。
     「その割には、その肝心のキャッドの話がなかったじゃねえか、ええ?」
     「……そうよ、でもそれは、まだ教えるわけにはいかなかった……」
     「だったら、その間にやる研究なんて、無駄そのものじゃねえかよっ!」
     「待って!!
      今までの疲労からか、それとも不安からか――キレて思わず拳を振り上げる神薙を、法井
     はかろうじて制した。
     「待って……落ち着いて。いい? 物事には順序ってものがあるのよ、分かるでしょ? あな
     たと、久池井教授と明智流雲を対面させる時までは、キャッドの詳細をあなたに教えるわ
     けにはいかなかったの。」
     「…………? 話が見えてこない。」
      多少落ち着いたか、それでも目はつり上がったままで、神薙は首を傾げた。法井はその様
     子を見て、顎に手をやってしばらく考えていたが、
     「う〜ん、そうね。何て言ったらいいか……そう。例えばね、いくら便利だからといって、小学
     生に方程式なんて教えちゃいけないのよ、分かる?」
     「…………いまいち。」
     「つまりね……ほら、中学で初めて“数学”で方程式ってものを習って、問題文がすごく簡単
     に思えた事ってあるでしょ? それは勿論、方程式を理解しきっているから……でも、まだ“算
     数”というものを理解していない小学生に教えると、使わなくていい問題でも使ってしまって、
     解けるはずの問題もとけなくなってしまう……」
     「あ〜、何となく分かった。」
      神薙は目を閉じて、小刻みに頭を振ってみせた。同時にふんふんと何回か呟いて、
     「つまり……簡単に言うと、キャッドについての詳細な知識を知っていると、流雲や久池井さ
     んとやりにくいわけだな? 研究を。」
     「そういう事よ。分かってくれたところで話しましょうか、私の知りうる限りのキャッドの情報を。」
     「知りうる限りの……って、地球上の事なら何でも分かるんじゃなかったっけ、お前?」
     「キャッドの治療法が分からないから、こうしてあなたに依頼してるんでしょ。さって、歩きなが
     ら話しましょ、そう長くはならないと思うから。」
     「あ、ああ……。」
      キャッドの情報が不完全だと言われて、神薙は不思議と拍子抜けした。考えてみれば当然
     な事なのだが、果たして地球上の事を全て知る者の分からない病を解析できるのだろうかと、
     再度、強い不安感が彼を襲った。
      神薙は法井からジュースを受け取ると、栓を開けながらかつてからの疑問を口にした。
     「まず、そうだな……キャッド細胞を調べていた時、核以外がなくなっているのをお前は“消滅”
     と言っていたな。それは具体的にはどういう事なんだ?」
     「そうね、確かにまずそれが最初の疑問になるわね……じゃ、唐突だけど、あなたは“あの世”
     ってやつを信じるほう?」
     「…………?」
      確かに唐突だが、あまりにも唐突すぎだ。神薙はまずそう思った。それに、自分の質問
     れがどの様に関連していくのかいまいち――どころか、全く分からない。
     「……すまんが、質問の意味が見えてこないんだが?」
     「いいわよ、別に。そのうち分かるから。で、どうなの?」
     「どうなのったって……んと、そうだな……ま、存在自体を嘘だ、とは言い切れないし、かとい
     って信じてます、とも言えない……」
     「つまりが、半信半疑ってトコね。ま、妥当なセンだわ。いい感じよ。」
     「…………?」
      一体何がいい感じなのか、と一人でうんうんと頷いている法井を神薙は訝った。それに、相
     変わらずこの女は自己中心に物事を進めている。一度、本気でしめてやろうかと彼は拳を再
     度握りしめた。同時にその女が話を続ける。
     「あるのよ、実は。“あの世”ってヤツはね。それも地球内部に。」
     「地球……内部?」
      神薙は聞いて――意外、というか、よく分からない言葉に思わず、その場に足を止めそうに
     なった。同時に、握っていた拳から、力が失われていく。
     「内部って……つまり、俺の足下の、ずっと下にある……って事だよな?」
     「そうよ。物理的にはマグマだとか、それに溶けてるアルミニウム等の金属類がある様な所
     ……ま、一言で言えば地球の中心かな。万有引力が物体の中心から生じているのは知
     ってるでしょ? その辺りよ。」
     「その辺りって、何か抽象的だな、お前。」
     「いいじゃないの、その通りなんだから。で、過去にある学者が、魂に数グラムの質量がある
     って事のを発見したってのは知ってる? まあ、それ自体はそんなに重要じゃないからいいけ
     ど。」
     「……何が言いたいんだ?」
      ジュースを一口飲んで、神薙は眉をひそめた。
     「つまりね、死後の魂は万有引力の――地球の中心に引きずり込まれるわけよ。」
     「な……!?」
      今度こそ神薙は、あまりの驚愕にその場に足を止めた。顔が青ざめていくのが自分でもは
     っきりと分かる。対して法井は世間話をしているかの様に、平然とした表情でこちらを見つめ
     ている。
     「それって……おい、ひょっとしてあの世というより、地獄ってやつじゃないのか?」
     「まあ、そんなものよ。ただ、魂の次元レベルにおいては、現世の温度なんて影響はないか
     ら、暑くとも寒くともないでしょうけど。ただ、転生するまでそこから出られないという意味では、
     地獄という呼び名が正しいかもね。あ、違った。そこから出ないと転生できないんだった。」
      そう言って、わざとらしく舌を出す。その彼女の魂胆を、神薙は何とかして見抜いてやろうと、
     やっきになって言葉の羅列を胸中で反芻してみるが、どうにも答が出てこない。
      ふと法井の方を見やると、彼女もそれを待っているらしく、不敵な笑みを浮かべてただこち
     らを見つめ返しているだけである。彼は苛立って――というか、答を教えてくれないという彼
     女の意地悪に腹が立って、とうとう怒鳴りあげた。降参したともいうが。
     「何なんだよ、一体! 俺には……っていうか、普通の人間にゃさっぱり分かんねぇ話ばっか
     しやがって!」
     「そこはかとなくムカつくセリフね、それ。」
      彼女――法井は苦笑して続ける。
     「これもまた例え話になるけど……エネルギー保存則ってのは知ってるわよね? 物理的仕
     事やエネルギー変換において、エネルギーの総和は変わらないってやつ。それが、地球上
     の魂にもいえることなのよ。いくら生物が生まれたり死んだりしたところで、現世とあの世の
     魂の総和は変わらないの。転生をしに、地の底からやってくる魂と、肉体を失って土に還る
     魂の数はこの四十数億年間、ずっと同じだった……」
      そこまで言って、急に法井は悲しそうな瞳で遠くを見つめ始めた。それを、また何かやらか
     すつもりだろうと神薙は、非情にも無視して訊ねる。
     「同じだった、って……という事は、今は違うのか?」
     「ええ…………」
      神薙は、その法井の返事を聞いて、また何となく腹が立ってきた。
     (またこのくそアマは、一人の世界に入り込んでやがる。)
      残りのジュースを鼻に突っ込んでつまらせてやりたかったが、その手段となるべき道具が
     見あたらないので、とりあえず別の方法で彼女を別世界から引きずり出す事にした。
     「ところで……これ、何の話だったっけ?」
     「キャッドの話よ。今から言う事が、キャッドの中枢核と言っても過言じゃないわ。」
      嫌がらせでボソッと言ったつもりが、かえってまともな返事で返され、三度彼は腹を立てた。
     というか頭にきた。
      もっとも、それは彼女の言う“今から言う事”によって消失を余儀なくされたが。
     「“転生”を求めにくる魂の数が、近年急増してきたの。原因は、現代医学に対する嫉妬……
     死亡数が急激に減少してきたため、転生できなかった余りの魂が、既成体に複数宿るように
     なったの。その結果、成長速度が狂い始めて肉体の基――つまり、細胞がパンクしてしまう。
     あまりの成長にかえって肉体がそれについていけず、自滅してしまう――これが細胞活殺症、
     CADの正体よ。」
 
 
 


 
 
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