神薙は考えていた。といっても、まだ久池井の研究室に行く事を迷っているわけではな
     い。現に彼は、その研究室のドアの前に佇んでいる。考えているのは、果たして本当に
     このドアの向こうに久池井がいるかという事だ。確かに法井はそんな事を言っていたが、
     神薙はまだ、彼女の言う事を全て信用したわけではない。しかし、迷っている暇はないの
     だ。選択は迫られている。どちらにしろ、入るしかないのだ――
     「どうしたんですか、急に立ち止まっちゃって? 早く入りましょうよ。」
     「……………………。」
      彼の後ろでは、当然ではあるが何も知らない流雲が急かしている。彼は一瞬、再び肩
     をいからせたが、すぐにやめた。相手にするだけこっちが疲れると、彼は胸中で即答した。
      神薙は意を決し、目の前のドアノブに手をかけた――と彼は思った。あるいは、そんな
     錯覚を見たのかもしれない。とにかく実際には彼はドアを開けてはいなかった。
     「……あれ?」
      神薙は驚愕の――というより、間の抜けた声を出した。勝手に開いていくドアを目の当
     たりにして、彼は目をしろくろさせた。ドアは相変わらずキィ、という音をたて、中にいる人
     間の姿を神薙達に見せる。
     「く……久池井さん?」
     「おお、神薙か。ちょうどいいとこに来たな。」
      神薙は姿を現した男――久池井の顔を見て、ようやくホッとした。久池井はそんな神薙
     の気持ちを知ってか知らずか、笑って彼の背中を一つポン、と叩いて、
     「何や、今日も研究か? ああ、何も言うな。ここは好きなだけ使ってええ、そのために俺
     は用意しとったんやからな――あれ?」
      久池井は神薙の横に佇んでいる茶髪の少年――少年というには少し、老けて見えるか
     と久池井は思った――を見て、彼は首を傾げ、
     「神薙……その、横におるのは誰や?」
     「ああ、彼ですか? 彼は……」
      一瞬、神薙は躊躇した。流雲の事を言うと、話がややこしくなってしまうのではないだろ
     うか、と。法井がお膳立てをしたというのだから、問題は(多分)ないと思うのだが、それ
     でもはたして久池井が、この大器晩成型の大物の名を信じてくれるかどうかが不安だっ
     た。
      もっとも、その不安は彼のでしゃばりによって打ち壊されたが。
     「あ、初めまして。僕は明智流雲と申します。昨日は神薙さんと一緒にこの研究室を使
     わせて頂きました。お礼が遅れまして申し訳有りません。」
      と、神薙の不安をよそに、一人でいけしゃあしゃあと自己紹介を始める。それを聞いて
     久池井は目を丸くし、
     「明智!? 明智って……あの「医学王朝」の?」
     「あ、はい。そうです。」
      驚愕して久池井は、しばらく開いた口がふさがらないでいた。見ると、視点も合ってい
     ない、神薙は彼を見て不思議そうにそう思った。やがて彼は双眸だけを神薙の方に向け、
     「……お前、こんな大物と知り合いやったんか!?」
      と、呆れるほどの大声で神薙に訊いた。流雲を指さして。医学王朝の人間である事
     を疑わないばかりか、逆にすっかり信じ込んで驚愕している久池井に、神薙も半ば呆れ
     てしまった。
      一方、大物呼ばわりされて頭を掻いて照れている流雲は、そうはしながらも研究したさ
     に、研究室の中を覗いてばかりいる。それに気づいてか、久池井は開ききっていないドア
     を押しのけ
     「ま、まあ、こんな所でボーッとつっ立ってても何も始まらんやろ。ほら、神薙、お前もはよ
     こっちに来いや。こら久々に楽しい研究になりそうやなぁ。」
      言って、一人でいそいそと狭い研究室の中を駆け回り始めた。やけに楽しそうな久池
     井(と流雲)に対して、神薙は一人いささか心配そうな顔をしていた。楽しそうな雰囲気を
     壊しそうで遠慮していたが、思いきって訊いてみる。
     「あの……久池井さん、楽しい研究になりそうって……今日は授業はないんですか?」
     「あん? あるけどそれが何や?」
      彼は、それがあたかも全く関係のない事の様に言う。
     「あ、あるけどって……授業は一体どうするんですか?」
     「休講。」
      即答。
      同時に神薙の意識は暗転した。ただ、「本当に何も変わっちゃねえや」という言葉の羅
     列が、彼の脳裏の中を蠢(うごめ)く。
     「何や、どうした神薙。勿論お前も付き合うんやろうな?」
     「え、あ、はい。勿論ですよ。」
      野性的な笑みを浮かべ、問う久池井に、神薙は少々ぎこちなく答えた。ある意味神薙
     もそうなのだが、よほど楽しい事があると久池井は自己中心的になってしまう。こうなっ
     たら最後、彼には逆らえない。勿論、もともと研究をしにここへ来た神薙に彼の要請を断
     る理由は何もないのだが、どうもこの久池井は、神薙は少々苦手だった。
     「かーっ、何や久々に燃えてくんなー、最高の教え子と国内最高峰の医学家の次男坊と
     研究か。こんな機会は滅多にないやろからなぁ、よっしゃ、俺の知識を出し惜しみなく披
     露してやっから、よ〜く聞いてやがれ野郎ども!」
      しまいには、何を言ってるのかよく分からなかったが、少なくとも久池井がこれからます
     ます酔狂していくだろうという事は検討がついた。神薙は疲労の溜息を一つついてから、
     思い出した様に、
     「そういや……知識で思い出したんですけど久池井さん、何故彼を医学王朝の次男と
     知っているんですか?」
     「あん? 俺ぁな、初代の頃から「医学王朝」に目を付けていたんや……エイズの治療法
     を発見する前からな。今じゃ何でか知らんが次男坊はマスコミには関わってないみたい
     やが、昔はよく、家族の特集とかやっとったからな……それで覚えとったんや。しかし、
     もうこんなに大きくなったんか……時の流れっちゃ、早いもんやな。最初見た時は全然
     気づかんかった。」
      正直、聞いて神薙は驚愕した。七年前のエイズ治療法発見以前から医学王朝
     目を付けていた人間なんて、恐らく世界に、いや国内でさえほんの一握りしかいないだ
     ろう。何せ、その時はまだ「医学王朝」とは名乗ってなかったのだから。当時の初代が
     エイズの研究を始めて明智家の名が世間に広まったのは、数年の時間が要った。
     恐らく久池井は、この辺りから明智家』――『医学王朝の事を知りだしたのだろうが、
     この事は久池井の、医学に対する情熱を神薙に知らしめた。
      そして神薙は、久池井と何か話している流雲の方を見た。法井が自分に当てた、最高
     のパートナー――恐らく、久池井よりも優れているであろう彼と、三人で取りかかれば解
     析できない病なんてないかもしれない。自分にとって、彼等ほど頼もしい仲間はいない
     のだから。神薙は心底、そう思えてきそうだった。しかし――
     「さーって、世界を恐怖に陥れるこの難病・ CAD――“Cell Activity Dying”を、一体ど
     うやって攻めていく、諸君?」
      久池井は、まるで狂科学者がサンプルを弄ぶかの様にキャッド細胞の入った試験管
     を二人に見せつける。それに科学者の助手よろしく、流雲が彼もまた妙に熱くなって手
     を挙げる。
     「はい、久池井先生!!」
     「む、明智君、何か言ってみたまえ!」
     「ハッ、今までの研究のデータから、病原体からのワクチン発見は困難と思われますの
     で、ここはQSAR解析で、創薬の射程範囲を狭めていく事が賢明と思われます!」
     「うむ、分かった! さっそく、LOの準備に取りかかれ!」
     「了解!」
      早くも師弟関係で結びつき、熱気に満ちている二人を横目に、しかし神薙は悲哀に独
     り、思いに耽ていた。
     (それでも俺達はキャッドに勝てるはずがないんだ。医学王朝の連中はもとより、だ。
     誰も勝てるはずがない。物理的研究によってキャッドの攻略法が見つかる事は、実質上
     ありえないのだから――
      それを、俺にどうしろというんだ――
      神薙は、多分どこかで聞いているであろう法井に、声にならない独白を洩らした。
 
      ジリリリリ……
      診察室の隅に置いてある、やたら古い電話がけたたましく鳴った。中川は診察中の手
     を休め、患者に一言断ってからベルと共に震える受話器を手に取った。
     「はい、もしもし、中川医院何だ、西村君か……ああ、別にかまわんよ、大して忙しくない
     から。どうしたんだ? そんな泣きそうな声をして……何、遊園地? うん……うん、それで
     …………」
      六分ほどの会話を終え、中川は受話器を戻した。昼過ぎで日差しもいいのか、見
     ると患者はうたた寝をしている。中川は一瞬目を丸くし、苦笑いをして患者を優しく揺り起
     こした。
     「もしもし、電話は終わりましたよ。」
     「……ん、ああ、すみませんね。」
     「いえ、かまいませんよ。」
     「それで、誰からだったんですか、今の電話は?」
     「ええ、息子の友達からですよ。東京から。昨夜に見つけたらしいんですよ、息子を。」
     「ほう……で? 元気にやってますって?」
     「ええ、息子が例の病気の研究を始めたらしくって。」
      中川は、少し照れながら――そして、少し誇らしげに言って、診察台に置いてある新聞
     に視線を投げた。今し方電話がかかってくる前まで、患者との話題にしていたキャッドの
     記事が、一面に記されてある。
     「そう、あの司ちゃんがねぇ。」
     「ええ、早いもので、もう二十六ですからねえ……さて、これでよし、と。」
     「どうもすいませんね、いつもいつも。」
     「いえいえ、どこかまた悪くなったら、いつでも来て下さい。ではお大事に。」
      診察室を出ていく患者を見送りながら、中川は本当に深い、感慨の溜息をついた。
     (そう……もう、二十六だもんな……。)
      天井を見上げて、彼は目を閉じた。同時に、昔の、息子と過ごした日々が、瞼の裏に蘇
     ってくる。
     (昔のあいつとは、比べものにならない様な執着心があるんだろうな……。)
      そう思いながら、司が始めて自分に対抗意識を燃やした頃の、彼の、息子の顔を思い
     出す。
     (目的に対する強い執着心、若さとガッツ、そして何より、あいつの優しさ――医者に必
     要なのは優しさだ、司。それさえあれば、お前はもしかしたらキャッドを攻略できるかもし
     れん――だが、もし無理なら、その時は――
      俺にだって無理だろう――
      そこで、中川の独白は止まった。驚愕して彼は、目を開ける。
     (……はて?)
      彼は椅子から立ち上がり、今はもうだれもいないはずの待合室へと顔を出す。無論、
     誰もいるはずがない。
      ――
     「おかしいな……?」
      独白を口に出し、中川は頭を掻きながら、怪訝の表情を浮かべて診察室に戻っていく。
     念のため、そこにも人がいないか捜してみるが、結果は同じだった。
     (空耳か……いや、違う。確かに――
      確かに聞こえた。中川はそう胸中で独白した。
      若い女性の、悲憤を感じさせる声で。
      それは、全ての医者が敗れる時、と。
 
 
 


 
 
  次の章へ
 
  小説の目次に戻る
 
 
 
TOPに戻る