一つ大きなあくびをしながら、神薙は駅前の飯屋から出てきた。昼過ぎだというのに、
     この日は彼にとっては何故か、いやに眠気のさす日だった。
      寝起きはこれといっていつもと変わらないものだった。ただ違うといえば、西村がいた事
     で朝食がいつもより騒がしかった事くらいだった。もっとも、騒がしくしていたのは真崎一
     人だけで、男二人はただただ彼女の言う事する事に(うんざりと)同意するだけだったが。
      そしてその、当の真崎本人は今、「する事があるから」と嫌がる(神薙にとってはそう見
     えた)西村をむりやり外に引っぱり出して、昨夜言っていた“でえと”とやらに出かけていっ
     たのである。眠気が強くなったのはこの時からだったか、と神薙は、その眠気で回転の遅
     い頭をフル回転させて思い出した。何しろ、自分が卒業した大学に研究しに行く間、二人
     は遊びに行っているのである。いくら好きで研究するとはいえ、これは不公平ではないの
     か? と彼はブツブツと小声で毒づいた。
      だが、“奴”と一緒に遊びに行くよりかは確かに現状の方がマシかと考え直し、今その
     “奴”と一緒にいるはずの西村に対し、心底哀れみを湛えた表情で、胸中で合掌した。ど
     うせ“奴”は大好きなジェットコースターにでも乗りに行ったのだろう。高所恐怖症である神
     薙と西村は、そんなものはデートとは呼ばず(いや、呼べず)、皮肉をこめて“でえと”と称
     していた。
      小学五年の時、確か三人で一回、どこかの遊園地に遊びに行った記憶があった。その
     時もジェットコースターに乗ったのだが、気分爽快だった真崎に対し、男二人はそれから
     丸一日ずっと酔い続けていたのを覚えている。
      そこまで思い出して、彼はかぶりを振ってようやく当初の目的を思い出した。M・D
     次男坊と駅で待ち合わせの約束をしていたのである。ハッとして神薙は腕時計を見たが、
     約束の時間にはまだ間があった。ホッとして彼は自販機でお茶でも買おうかと、ズボンの
     ポケットに手を突っ込んで――
     「やあ、こんにちは。」
      神薙は、いきなり聞こえた後ろからの声に、危うく財布を落としそうになった。声の主は
     見なくても分かる。
     「や、やあ。え……と、確かまだ約束の時間にはなってないと思うけど……。」
     「ええ、でも、家にいてもつまんないんで、早めに来ちゃいました。」
     「あ、そ、そう……。」
      慌てて財布をポケットにしまい、神薙は適当に相づちを打った。流雲は昨日と同じリュッ
     クを背負い、羽織っているジャンパーだけが昨日と違っていた。まあそれはどうでもいい
     かと、神薙はあさっての方を向いて頭を掻いた。
     (いい奴なんだけど……どうもこいつ、調子狂うんだよな。)
     「あの……何かあったんですか?」
     「え、あ、別に。何で?」
     「いえ、あの、何だか落ち着かない様子なもんで。」
     「そ……そうか?」
      言われてみて、まあそうだろうなと神薙は確かに自認した。だが、
     (そりゃ、てめえのせいだろうが。)
      と、胸中での毒づきも忘れなかった。そんな神薙の態度を見てか、流雲はしばらく目をし
     ろくろさせていた。そしてああ、と今さらの様に気付く。
     「あの、もしまだ何か用があるのでしたらおかまいなく。それまで僕はここで待ってますの
     で。」
     「……ん? あ、ああ、いいよ別に。そんな特にこれといったもんじゃないから。その、なん
     だ。君も別に何も用事がないんなら、ちょっと早いけど行こうか。」
     「あ、はい。」
      元気よく返事をしてきた流雲に対して、神薙は話し方だけでなく歩き方もぎこちなかった。
     ふと、(真崎と一緒に外に出るのより、かえって大変かもしれん)と脳裏に浮かんだ文章が、
     双眸に焼き付いて見えた様な気がした。
      駅から大体三、四分経っただろうか。二人はしばらく一緒に黙って(神薙は意外だ、と思
     ったと同時に嬉しかった)歩いていたが、医学メディアセンターという建物が見えてきた
     ところで、流雲が唐突に口を開いた。
     「ところで神薙さん。一つお訊きしたいんですが?」
     「……何だ?」
     「神薙さんは、現在、世界中においてのキャッド患者がどのくらいかご存じですか?」
     「……世界の約三パーセント……。」
     「……え? 世界の、何ですって?」
     「ん、あ、ああ、何でもない。いや、俺はそこんところはよく知らないな。一体どのくらいなの
     か、君は知っているのか?」
      神薙が慌ててそう言うと、流雲は勝ち誇った様に胸を反らし、
     「いけませんね、神薙さんともあろうお方がこの程度のデータを知らない様では。これはで
     すね、うちの……ああ、M・Dの事ですけど、うちの情報によれば、病状の重度を問わ
     ずにですと、世界人口でいうと約二億五千七百万人、うち日本では百六十万人だそうで
     す。世界人口の約五パーセントに対し、日本では一パーセント未満というのは、何か日本
     ではキャッドにかかりにくい要素でもあるんでしょうかね?」
      などと、全く人事の様に流雲は楽しそうに言った。そんなに俺に勝ち誇れるのが嬉しい
     か、と神薙は半ば呆れてしまった。が、
     (しかし……さすがにそこのところは抜け目ないな。解析が無理なら資料から攻めていく
     ときたか。)
      ふと彼は、法井の言っていた言葉を思い出した――「研究におけるパートナー」。確か
     にその通りだ、と彼は改めて思った。研究に必要なデータは医学王朝という組織を通
     じて流雲から知る事ができる。ただ、それなら地球上の事を全て知る事のできる法井の
     方がいいかもしれないが、彼女はパートナーという柄ではない。そう、全てを知っている
     からこそパートナーという、自分の補佐役に収まりきれない彼女と研究をする気にはなれ
     ないだろう、と神薙は自認した。いや、この事を分かっているからこそ、彼女は流雲という
     人間を自分のパートナーに選んだのだろう。それに――彼女は、依頼人である。パートナ
     ーではない。
      まだ何か横で喋っている流雲をよそに、神薙は独り、脳裏に浮かぶ文字や単語を整理
     し始めた。
     (法井の言っていた事が本当なら……世界の約三パーセントから、人類の五パーセント
     を引いた残りが、建築物の様な非生物だって事か。という事は、症状の進行は生物が
     早いが、冒され易いのは非生物という事か……いや、違うな。恐らく“地球そのものを占
     めている割合”が、生物より非生物の方が大きいせいだろうな。いや、待てよ。そうする
     と、地球上の物質が、一定の割合でキャッドに冒されている……? いや、そんなバカな
     事があるはずはないか。伝染に一定もクソもないんだ。抵抗力の弱い奴が病にかかり易
     いのは、当然なんだからな。それじゃあ、キャッドの伝染を成す病原体は存在しないか、
     あるいはきっちり、病原体が世界中にもれなく広がっているって言ってるみたいじゃねえ
     か。まるで地球上にいるという事が、キャッドに冒される絶対必要条件みたいな――
     『その通りよ。
     「あん? 何か言ったか、法井……って、え……?」
      神薙は我に返り、慌てて周りを見回したが、そこにはきょとん、とした表情の流雲が立
     っているだけだった。
     「……どうしたんですか、神薙さん?」
     「え、あ、ああ、悪い、何でもない。何か、空耳が聞こえた様な気がしただけさ。」
      慌てながらも、神薙は適当に相づちを打ったが、それでも流雲ははて? という表情を
     崩そうとはしなかった。だが、しばらくして違う意味で彼はそれを崩す事となった。大学の
     研究室に着いたのだ。彼はにわかに表情を明るくし、神薙の隣で騒ぎ立てた。
     「着きましたよ、神薙さん! 場所は昨日と同じ所でいいんですか?」
      流雲は、放っておいたら一人でとっとと行ってしまいそうな声を出して神薙の顔を覗き込
     んだ。だが神薙は、言われて俯き、黙り込んでしまった。いくら久池井と親しくても、彼に
     無断であの研究室を使う気にはなれなかった。勿論、もし無断で使用しても久池井は神
     薙を許すだろう。それは彼自身も分かっている。しかし、それでも大学OBとしてのメリハ
     リはつけたかった。昨日は法井の事もあって、勢いで流雲と約束してしまったが、正直神
     薙はここまで来てはじめて迷った。今さら真崎の家に戻るとも言えないし、かといってそう
     してもロクな研究はできはしない。悩んだあげく、仕方なく彼は久池井の研究室に向かお
     うと考えて――
     『いいわよ、来て。
     「うぉぅうわわわっ!?」
      神薙の大声に、流雲は思わずビクッと肩をひきつらせた。それには目もくれずに、神薙
     は必死で自分を落ちつかせようとする。
     (な、なな、な何だったんだ、今のは?)
     『だから、私だって。
     (……………………。)
      彼は深呼吸した。勿論、驚愕したままの流雲は無視して。深呼吸を繰り返し、しばらく
     して適当に落ちついたところで、心の中で思いっきり叫ぶ。
     (こぉの、人間の常識のカケラも知らんウスラくそボケへんてこアマが!!)
     『……ひどい言われよう。
      神薙の心の叫びに、しかし法井はのほほんとした声で返してきた。
     (てめぇ、今度は何の用だっ!? まさか、テレパシーでキャッドの事を教えるとかいうん
     じゃあるまいな?)
     『よくわかったわね、これがテレパシーだって。
     (うるせえっ! とにかく、そんな悪趣味で遊ぶ暇があったら、さっさとキャッド攻略を教え
     ろってんだ。そうしないと、一番困るのはてめぇだろうが!)
     『分かってるわよ、だから、こうして今から何をするべきなのかを教えようとしてるんじゃな
     い。
     (……………………。)
      神薙は黙りこくった。とはいえ、もともと黙っているのだが。しかし、黙ったままいきなり
     形相を変えたりするのは、端から見て当然おかしなものなのであり、実際それを見てい
     る流雲は、開いた口が閉じない状態に陥っていた。だが、神薙はそれに気付かない。
     (……で? 一体、どうすりゃいいんだ?)
     『とりあえず昨日と同じ場所に来て。久池井教授を既に呼んでおいたから。あ、勿論昨日
     の流雲君のと、似た様な方法でだけどね。
     (久池井さんをって……何が目的なんだ?)
     『とりあえず、今は彼と流雲君を会わせたいの。いずれ、私も直に会いたいんだけど……
     まだ、今はその時期じゃないわ。彼等には、もっとじっくり現状を知ってもらう必要がある 
     の。あなたみたいに、いきなり私と会って正気を保てる保障がないから。
     (……うるせ。)
      別に意味はないのだが、本人のいない所で(もっとも、彼女には見えているかもしれな
     いが)神薙は目をそらした。するといきなり、視界におどおどした流雲の姿が映り、彼は
     驚愕した。
     「な、何だ。一体、どうしたんだ?」
     「え、いや、神薙さんこそどうしたんですか?いきなり、怒った顔をしたり、考え込んだり
     ……どうかしちゃったのかと思いましたよ。」
     「え、ああ、すまん。ちょっと、考えててな。昨日使った研究室は、俺が学生の頃にお世
     話になった教授の管轄なんだよ。だから、今日も使わせてもらうって事を、彼に先に伝え
     ようかどうか迷ってたんだが……。」
     「あ、僕はここで待ってますから、かまいませんよ。」
     「いや、その……この時間なら多分、研究室にいるだろ。そこで直接頼む事にしよう。」
      まさか、天の声が聞こえてその教授が研究室にいるという事を知ったとも言えず、それ
     でも何とか神薙はこの場を切り抜けた。同時に、自己中心的に物事を進める法井の顔を
     思い浮かべ、呪う。
     (あのアマ、記憶操作だか何だか知らんが、今日も研究室を使うとかってのもついでに
     知らせてもバチは当たらねえってのに。)
     『……それは昨晩、あなた自身が久池井教授に伝える事なんてのも、いくらでもできた
     んじゃない?
     (……………………っ!!)
      ちょっと愚痴ったつもりが、さらに嫌みで返されてしまい、神薙は肩をいからせた。が、
     それもまた無駄なのだろうと思い、彼は脱力感に襲われ、代わりに深い溜息を一つつい
     た。
 
 
 


 
 
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