その日は、気持ちのいい朝だった。
普段なら、朝に弱いはずなのに、あまりの清々しさに彼は一気に目が覚めた。
(いや……それだけじゃない、か。)
と、そう彼は胸中で独白した。気持ちのいいのは今朝だけではない。こんな、身体が軽
く感じるのは昨日からだ。久々にこの、堅苦しい空気が渦巻いている、『医学王朝』と呼ば
れる屋敷から出た時から。
(何で、もっと前からできなかったんだろう?簡単な事なのに。)
無言の独白を続けながら、流雲は着替え始める。
(なのに、僕はずっとこの屋敷から出る事ができなかった――ずっとそうしたいと思い続け
ながら。)
長年の葛藤を、悲痛に、そしてどこか懐かしげに、着替えながら想う。
(でも、今は違う――『M・D』の人間としてでなくとも、僕は医学の道を歩んでいける!)
まるで、幼い子供の様に――実際、まだ子供かもしれないが、彼は無邪気に飛び跳ね
たい想いを胸中に秘めながら、手早く着替えを済ませると、必要以上の速さでドアを開け、
くぐると、これまた必要以上の勢いで強くドアを閉めた。響きのいい音が、長い廊下にこだ
まする。
流雲はその勢いのまま階段を駆け下り、少し狭めの――とはいえ、それはこの屋敷で
考えての事であって、実際その広さは十分ではあるのだが――食堂へと入っていった。
そこは主に家族のみでの食事、それも軽めに食事をとる朝食時に使っている。屋敷の
中央にある大食堂は、来賓との会食や晩餐時に使用する。
だが、そんな事はどうでもいいと、流雲は朝食を急いだ。昨日、慶応で共同研究をした
神薙という男は、今日も研究に付き合ってくれる事を約束してくれたのだ。そう思うと、別
に朝早くから外出する必要はないのだが、ここから一秒でも早く出たいという気にさらされ
る。朝食を持ってくる使用人の来る間、彼はそわそわと落ち着くにはいられなかった。
そしてやがて、その使用人が朝食を持ってきて、いざ口にしようとした途端、背後からの
一声がそれを制した。
「……も、流雲!」
ハッと我に返った――というわけでもないが、彼はようやくその声に気付いたらしい。ら
しい、というのは、その声の大きさからだと、何度も呼んだが反応がなく、たまりかねて近
づいてきた、というところだろうからである。
勿論の事、声の主は振り向かなくとも分かっていた。同時に、こんな事がついしばらく前
にもあったなと、流雲は記憶の隅に置いてあった過去を思い出す。しかし、今度はあの時
の様にひどく驚愕する必要はない。今は彼には、絶対の存在的自信がある。流雲は、し
ばらく間をおいてから、椅子にかけたまま振り向いた。
「何ですか? 父さん。」
「それはこっちのセリフだ。さっきからお前を呼んでいたのだが、どうしたのだ?
まるで何
かに憑りつかれていたかの様な目をしていたぞ。お前は今、何か一つの事しか考えられ
ない感覚に陥って――」
そこまで喋って、流雲の父・秀治は口を閉ざした。同時に、眉間にしわを寄せる。流雲は
それに特に感心を持たない様な表情でしばらく父の顔を覗き込んでから、
「……何か?」
「お前、まさかまだあの研究を続けているのではないだろうな?」
「あの研究?」
「とぼけるな、CADの事だ。あれはお前の様な二流が努力を重ねたところでノイローゼに
なるのが関の山だ。あれからは手を引けとつい最近言ったはずだが?」
「……さあ? 僕はあれからした事といえば、昨日久しぶりに外の空気を吸いに行ったくら
いですが? 今まで研究漬けでしたから、何だかすっきりしましたよ。でも、そんなに何かに
夢中になっている様に見えました? 久々の外出で、気分がハイになっちゃってんでしょう
かね?」
説教を質問で返され、秀治は絶句した。当然、こんな事で絶句するなんて事は普段はな
い――大抵は、さらに説教して黙らせてやるのだが――が、目上の者に反抗した事のな
い息子が、自分の説教を平然とした顔で質問で返したのだ。秀治は目を丸くし、しばらくそ
の場で言葉を出せないでいたが、
「……そうか。お前は外の様子を見ているのが一番かもしれん。しばらくはCADの事は忘
却の彼方にでも押しやる事だ。思い出した頃には、我々が片づけているだろう……。」
驚愕の度が過ぎたのだろう。秀治は普通に喋ったつもりでも、流雲からは言葉を選び選
び喋っていたのがよく分かった。それに、話の内容が父親らしくない。「我々が片づけてい
るだろう」なんて、まるで兄に言う様なセリフである。動揺している父親を見て、流雲はます
ます楽しくなった。早く朝食を済ませて外に出たい。まだ用がなくとも、その辺りをブラブラ
するだけでもいい。秀治が自分の席に向かうや否や、彼は素早く朝食を平らげ始める。
『医学王朝』からの完全離反――それが流雲の、最高の目標であり、夢であった。ただ単
に、父親から勘当してもらうとかの、家族的離反なら容易い事だ。それは彼の父親なら喜
んでしてくれる事だろう。しかし彼は、『医学王朝』との行動上違背による離反がしたかった。
違背というと聞こえが悪いが、彼にとって「医学王朝」とは、生まれついた規則の様なもの
であるため、彼自身としては、この言葉を独立の意味で用いている。しかし、彼はその独立
をするためにはあまりにも行動力がなさすぎた――今までは。
(……そう、今までは。でも――)
彼は、胸中で独白した。
(でも、現在はもう、僕は孤独なんかじゃない。同じ考えを持った人が、いてくれる。財力も、
名声もなしに、ただひたすらに研究に取り組む仲間が――)
朝食を一気に平らげ、そのまま流雲はさっさと外出の準備をするために部屋に戻り始めた。
どうもこの屋敷の廊下は、不必要に長い様な気がする。寝起きでまだ頭が起ききってな
いせいかもしれないが、その長い廊下を歩きながらふと、樹は思った。今朝はいつもの正
装じみた格好ではなく、彼の気に入っている革のジャンバーを羽織っている――色が青と
いう点が、彼には全く似合っていないのだが、彼にはそれが分からないらしい。彼がこれ
を羽織る日というのは、大抵が彼女とのデートの日と決まっている。そして、それが彼にと
って最も落ち着いていられる一日だった。
そしてまた、この日もその例外ではなく、樹はいつもはいけ好かない弟を起こしに、流雲
の部屋へと向かっていた。冷やかしでも何でもなく、ただ単に朝に弱い弟を起こしてやろう
と思って、である。彼は部屋の前まで来ると、二回ほどノックして、返事を待たずに部屋の
中へと入っていった。
が――
「……あん?」
部屋に入って樹が見たものは、全くの予想外のものばかりだった――ベッドの上には折
り畳まれた掛け布団があり、その上には弟のパジャマが、これも綺麗に畳んで置いてある。
普段はめったに外に出る事のない弟の椅子の上には、リュックが一つ放置してあった。確
か昨日、どこか出かけたと言っていたから、その時のがそのままここに置いてあるのだろう
が。
しかし、流雲が一体何かを持って出る様な所なんてあるのだろうかと樹は怪訝に思った。
が、すぐに興味は失せた。所詮は二流の弟のする事、我々東大出の人間との挙動がそも
そも根本から違うのだと、彼は少しでも弟に興味を示した自分を、胸中で小さく嘲笑した。
それからややあって、樹はようやく本来の、ここでの目的を思い出した。自分より弟が早
く起きるなんて、年に何度ある事だろうかと、しばらくその事に気を取られていたらしい。弟
がもう起きているのなら、ここにはもう用はないと、樹は部屋を出ようときびすを返そうとした。
その時、部屋の隅にある机の上に、何枚かの紙切れの様なものがふと目に止まった。
(……何だ?)
一瞬、その紙切れに対する興味と弟に対する軽視感とがぶつかりあい、樹は躊躇してそ
の場に足を止めた。数秒もの間――彼にしてみれば、もっと長く思えたろうが――考えたあ
げく、とりあえず目だけは通しておく事にした。どうも内容が気になってしょうがない。一流と
いうプライドよりも、後々気を引く様な事は早い内に片づけておかなければ気が済まないと
いう、彼の性格がここでは強かった。
何かのプリントだろうか――最初はそう思いながら、樹はその紙切れを覗き込んだ。だが、
それは印刷物ではなく、弟の字で、ボールペンで書かれているものだった。全部で三枚あ
るその紙切れの全てに、右上に昨日の日付が振ってある。
「研究内容……そして結果?」
思わず声に出してしまったのを、樹自身は気付いてない様だった。その紙切れの内容に
ざっと目を通した後、彼のこめかみに薄く血管が浮き出たが、それはすぐに消えた。同時に
打算が彼の頭にひらめく。
この後、樹が朝食を食べに下に降りたのは、食堂に誰もいなくなった後だった。
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