法井とか名乗った女の話は、ざっとこんな感じだった――
キャッドは、物理的病原体を持たない病である事。また、それは今や、世界の三パーセン
トを蝕み、このままではあと二年もすれば、世界は滅んでしまうという事。そして彼女、法井
は、実は人間でない――地球という星の、いわば分身の様な存在であること――
こんな話を、神薙は法井に聞かされた。
が――
「信じて……くれないの?」
うん、と神薙は、問答無用で頷いた。
それもそうだろう。いきなりこんな話を聞かされて、すんなり信じる方がかえっておかしい。
なのに法井――彼女の話を信じるならば、我等が星、地球とその存在を分かち合った者―
―は、その神薙の態度を見て、えらく不思議がった。
「何で、私の話を信じてくれないのよ?」
「じゃあ、お前は何で俺がそんな話を信じると考える事ができるんだ?」
「だって、あなただもの。」
「?」
神薙は、目を丸くした。何で俺だから信じるんだ?
と自問してみるが、どうも解答が浮か
んでこない。
「……なあ、何で俺なら、信じてくれるって思ったんだよ?」
「だって、あなたこのテの話、結構分かってくれるみたいだからさ。」
「いや、だから、何でそう思うんだよ?」
「だって……あなた、あの真崎さんと住んでるじゃない?」
ブッ
思わず、神薙は吹き出してしまった。どうやら、まだ久池井と話していた時の『同棲』で
受けた精神的ダメージが残っているらしい。
が、
(確かに……)
と、そう思われても文句は言えない、と少なからず、自覚はした様である。それを見て、
法井は満足げに頷いて、
「だから信じて。最初は無理としても、すぐに信じてくれる様になるから。心底にね。」
「だ、だからって……そんなんでンな事、急に信用してたまるか!
それにお、お前……
本当に一体、何者なんだ? 本当はどっかの精神病院から逃げてきた患者とか、そんな
奴じゃないのか?」
まだ少し、狼狽えているらしく、神薙が言葉を途切れさせながら法井に訊く。
「言ったでしょ。この地球の分身だってね。」
言って法井は、もしさっきの話を聞いてなかったら一目惚れしてしまいそうなウインクを
一つ、してみせた。
神薙は、どうしたらいいか困っていた。あの法井の話はいまいち信用できなかったが、
しかし何故かこのまま研究を続けても、成果は上がらないだろうと思っていたからである。
それが、もしそうでなかったら世界中の医者のうちの誰かが、今頃何らかの治療法の手
がかりを掴んでるだろうとか、そういった打算的な考えからきているのかどうかは、神薙
自身には分からない。
今、法井はこの研究室にはいない。何でも彼女曰く、「やがてここに、研究におけるパ
ートナーとなる人が来る」のだという。何でそんな事が分かるんだ、と神薙が訊くと、
「私には、地球上の事は何でも分かるのよ。勿論、上空にあるものだって、大気を通じて
知る事ができるわ。過去の事だって覚えてる。四十六億年前の事も、はっきりとまでは
いかないけど、ね。だから、あなたがカレーが好きだとか、愉快な真崎さんと同棲してる
って事も知ってるわけ。」
これもいまいち、信じられる話ではなかったが、“愉快な真崎”と聞いて、妙に信憑性
が出てきたかな、と彼は思い始めた。
ちなみに、彼女は別に六年前からここにいるわけではなく、周りの人間の記憶を操作
して、自分の存在を過去からあるものだと「仮定」させているらしい。そして彼女は同様
に大学の人間を少し操作し、その“客”を本来、関係者以外入ってこれないこの研究室
に、招くというらしいのである。
(客……か。一体、誰だ? どこかの医者のお偉いさんか、それとも……親父?)
困る、というよりもむしろ、彼は緊張していた。どんな人物がここへやってくるのか。そ
れが彼の思考力を奪っていた。
――そして、それは唐突にやってきた。
コン、コンッ
ピクッ、と肩がひきつったのが、自分でもはっきりと分かった。ドアがノックされるのを
聞いて、神薙は思いのほか驚いた。
(き、来たか……とうとう…………!)
彼はゴクッと唾を飲み込み、ノックされたドアの方を見た。この向こうに、“地球”が世
界中から選んだ、自分への客が佇んでいる
――まだ、法井の話を信じたというわけではないが。
しかし、現にこうしてその客とやらはやって来たのだ。神薙は呼吸を落ち着かせて、で
きるだけ平然とした声で迎えた。
「……どうぞ。」
キィ、と久池井と入ってきた時と同じ音をたてて、ドアは開いた。神薙の鼓動も次第に
早くなっていく。彼は、そのドアノブを回してきた人物に、恐れる様に目を向けた。
だが、その恐怖心は一瞬にして氷解した。その人物とは、髪は薄茶で、ジーパンに赤
のジャンパーを羽織った、歳が自分と同じくらいの青年だったからである。いや、顔に幼
さが残っているせいか、もう少し若くも見える。もっというと、後ろに背負っている青のリュ
ックが、彼の外的年齢をもっと下げていた。何にしろ、てっきりどこかのお偉いおっさんか
誰かが来るものだと思っていた神薙は、安堵というよりは呆れたという溜息をついた。
「何だ……ガキか……。」
「……は?」
その人物――想像よりはるかに若かった男は、神薙の呟きに目を丸くした。それを見
て神薙は、さすがにヤバいと思ったか――だが、それにしてはやたら冷静に、
「あ、いや。こっちの事。それより……一体、ここへどんな用事で?」
右手を振って、疑問の視線を相手に向ける。
男は、さっきの神薙の呟きがあまり聞こえていなかったのか、ああ、と少し顔を上げ、
「はい。ここでしばらくの間、医学研究をさせてもらいたいと思い、参じました。」
と、きちっとした姿勢で答えてくる。神薙は、(まさか、こいつはどっかのお偉いとこの
ぼっちゃんか?)と、男の反応を見て、また少しビビりだした。
「ここでの研究の許可を依頼しましたところ、こちらの研究室に、この大学の出身者を代
表する方が既に研究を行っているとお聞きしまして。」
(だ、代表……?)
神薙は一瞬、それが自分の事を指しているという事に気付かなかった。そして、
(あんの、法井のくそアマ……!)
と、気付いてからさらに胸中で毒づく。
(何で、俺の周りには変な女しか寄ってこないんだ!?)
しかし、それを寄せ付けている自分が変なんだから仕方ない。それに気付かない神薙
をさておき、目の前の男は話を続ける。
「それで、しばらく……ほんの、二、三時間ほど、私も一緒に研究をさせて頂けたらと……。」
「…………なるほど。」
神薙は、思いっきり(この場をどこかで見ているに違いない法井に)怒鳴り散らしたい気
分を押さえ、声を押し殺す様に、言う。
「それで……君は一体、どなたなので?」
と、そこはかとなく、さっきより丁寧な言葉で尋ねる。
「あ、申し遅れました。私、明智流雲と申します。」
そう言って、その男――明智流雲は、ペコッと一つ頭を下げた。その、彼の仕草を見なが
ら今聞いた名を神薙は、胸中で反芻する。どこかで聞いた覚えがある――
(……と、待てよ、確か!)
「明智って……ひょっとして、あの、『医学王朝』の?」
「え、ええ、そうです。一応、その一人という事になっているんですが。」
神薙がびっくりして聞くと、彼は何故か照れくさそうに頭を掻いて言った。神薙が知って
いたのは、自分より三つ年上――つまり二十九歳なのだが、樹という名の男とその父親
にして二代目・明智秀治の二人だけだったのだが、まさかもう一人――樹の弟なのだろ
う、流雲がいるとは知らなかった。何より、今までテレビや雑誌で『M・D』の特集なんかを
見た事があるが、出てくるのは決まって先の二人で、弟に触れた事は全くなかった。仮に
あったとしても、それを見た事は少なくとも神薙にはなかった。
「それで……“一応”ってのは?」
「ええ。それは……えっと……」
「ああ、俺は神薙、神薙司。」
「神薙さん、今まで『M・D』について何か聞いた事はありますか?」
「……ん? あ、ああ、有名だしな。」
自分は知らないとはいえ、相手は有名人という事で、どんな言葉遣いで接すればいい
のか神薙は迷ったのだが、相手の方が敬語で話しているので――どうやら、自分の事を
かなりの大物と見ているらしい――成り行きにまかせて、このまま普通に話す事にした。
もし何かあったら、法井のせいにすると心の中で決めておく。
「……で? それが何か?」
「ええ。それについて、あなたはどう思われます?
率直な感想でいいですから。」
「どう……って言われても、なあ……。」
気まずそうに神薙は、あさっての方を向いて頭を掻いた。『M・D』の事を普段、格好つけ
だの何だのと言っている神薙だが、さすがにそれを当の『M・D』の人間の前では言う事は
できない。かといって、ありきたりのお世辞も言うつもりはない。お世辞を言うという事は、
彼にとってどうも虫の好かない事であった。
「……まあ、医学一筋の一団体というか……。」
「あ、僕の事はかまわなくて結構ですよ。僕も『医学王朝』についてよくは思っていません
から。」
頭を掻きながら言う神薙を見て、流雲はそう、手を振りながらさらっと言った。どうやら、
神薙が苦しまぎれに言葉を選んで言ったのを見抜いている様である。何にしろ、それを聞
いて神薙の態度は一変した。
(それ、もっと早く言えよな!)
胸中で毒づき、一つ咳払いをしてから改めて、神薙は話し始めた。
「まあ、そう言うなら……えっと、先人の威光をかざす事しかできないバカの一つ覚えの集
団及び三度のメシより金好きハデ好きで言ってる事とやってる事とが矛盾しまくっている
超激烈究極暴発口先野郎……」
「ちょ、ちょっとストップしてくれません?」
唇をひきつらせ、あまつさえ冷や汗をかいて流雲は、まるで早口言葉を言っている様な
神薙に割って入った。
「……今さら、『こんな事言ってる人がいました』とかって親父にチクるってんじゃ……ない
よな?」
「違います、違いますけど……今言ってた事って、神薙さんの素直な意見です……よね?」
「そうだよ。」
「テレビとかで見た限りの『M・D』について?」
「もちろん。」
「実は『M・D』の内部状況は知っている……とか?」
「どうやって知るんだよ、そんなモン。」
「……つまり、一般人が知っている様な『M・D』についての知識だけで……」
「あー、だから、つまり君は、俺が実は『M・D』の実体を知っているとでも言いたいのか?
思った事をそのまんま言ったつもりだけどな、俺は。」
しつこく言い寄ってくる流雲を横目に、神薙は頭を掻きながらそう言い捨てた(ほんの数
分前まではビビりまくっていた神薙だが、相手が下手にでると分かりきった途端にこれで
ある)。神薙の言葉を訊いて、流雲は何故か、どこか嬉しそうな表情でもう一度、神薙に
訊いてきた。
「本当に……そうなんですね?」
「だからそうだって……それが何か?」
いい加減しつこそうに神薙が言うと、にわかに流雲の顔がパアッと明るくなり、
「ああ、よかった! 一般人でもそう思っている人がいたんですね!
僕はまたてっきり、
『M・D』って、世間では東大出の超エリート集団で医学者の鏡とか、そう思われているの
かと思ってました。」
そう、にこにこ顔で一気に言い終えた流雲の顔を、神薙は半眼でしか見る事ができなか
った。神薙の、その反応に気付いたのか、
「あ、いえ、別に僕はヨイショをしているわけではありませんよ。ただ、父さん達の偽善者
ぶりに、世間にどれだけ騙されていない人がいるかを知りたかっただけで……。」
と、両手を振って言い訳(らしき行動)をするのだが、無論それを神薙は素直に受け入れ
るつもりはなかった。
神薙は、深い溜息を一つつき、半眼のままである双眸を流雲に向け、
「そうじゃなくてなぁ……その、なんだ。あんたもその、“一応”であれ、『M・D』の一員なん
だろ? だから、あんたの言ってる事は、あんた自身の惚気にしか聞こえないんだけどな、
俺は。」
「あ、そんな事ないですよ。現に僕は、東大出なんかじゃありませんから。」
「東大出じゃ……ない?」
神薙は目を丸くした。惚気にしか聞こえていなかったとはいえ、彼は確かに“東大出の
エリート集団”というイメージを少なからず持っていた。その集団の一員が、東大出ではな
いという事実は、彼を驚愕させた。
「東大出じゃないって事は……でも、いや、それに近いレベルのとこなんだろ、どうせ。」
「いやぁ、僕は山口大の出でして。」
「へぇ、やまぐ……山口!?」
「? 何か驚く事でも?」
「い、いや、別に。何でもない。いや……ところで、君は歳、いくつ?」
「え、はあ、二十六ですけど……。」
「あ、そ、そう……いや、ほんと、どうでもいい事なんだけどね。」
言いつつ、あわてて両手を振ってみせる。それを見て、しかし流雲はおかしげに首を傾
げてみるのだが。
「あ、ああ、そうだ。そんな所で立ってるのもなんだから、こっちに来て座ったら。君の医学
研究とやらの事についても色々と訊きたいこともあるし。」
「え、あ、はい。そうですね。」
少し、返事にぎこちないところもあるが、流雲はそれでも神薙の隣に着いた。それを横目
で見ながら、神薙は疲れた溜息を一つつき、思った。
あの時山大にいってても、こいつがいたんだな、と。
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