机に頬杖をついて、彼は思う。
      時間の流れというのは早いもので、もう時計は五時半を回ろうとしている。ついさっき
     まで、ここにいて自分と一緒に研究していた「医学王朝」の次男坊というのも、もうここ
     を出て三十分が経とうとしているのである。そしてもう、大体の予想ではあるが、もうじ
     き久池井もここへ帰ってくる――それまでのこの数時間の間に、自分は一体何をして
     いたのかと、頭の中で反芻してみる。
      この数時間で、自分は確かにキャッドという病に対しての知識を深める事はできた。
     しかし、それは決して自分が以前まで期待していたものという意味で、とは言えない。
     それが一体どんな理由でそうなのかは、彼自身にとって分かりかねない。分かりかね
     ない事ではあるが……
     「やっほ〜、元気してる?」
     「……………………。」
      ――が、大体この女(?)が原因であるという事は、おおまかの予想がついていた。
     「……一つ、訊いていいか?」
      神薙は頬杖をついたまま、後ろを振り向かずに今日一日の中で最も深く、そして疲
     労感の濃い溜息をついて言った。
     「どうぞ、なんなりと。」
     「お前は、一体どういう目的で俺に奴を会わせたんだ?」
     「奴?」
     「とぼけるなよ、あいつだ、明智流雲。」
     「別にとぼけてなんかいないけど……でも、何かその様子じゃあまり納得してないみ
     たいね。」
     「当たり前だっ!」
      そう叫んで、神薙ははじめて後ろに振り返り――
     「いいか!」
      目の前に立っている女――法井を指さしながら、さらに叫び続ける。
     「俺は怖かったんだぞ、心底ビビってた! 一体、どんな大物が来るのかと思ってな…
     …お前がここを出ていった後、ドアをノックする音が聞こえて……俺の緊張は頂点に
     達した!だが!!
     「彼も大物だと思うけど?」
      ドアを閉めて、それに背中を預けて法井は、さも気楽そうに言う。
     「あんな、真崎の男バージョン野郎を大物呼ばわりするなあぁぁっ!!
      そこで神薙は立ち上がり、彼の叫びは頂点を極めた。さすがに声の大きさに耐えき
     れず、法井は思わず耳を塞いでしまう。
     「あの野郎、研究の時以外ははしゃぎすぎなんだよ! 女みたいに! あいつ、M・D
     の人間なんかじゃなくて、真崎んちの隠し子なんかじゃねーだろーな!」
     「……違うわよ、彼はれっきとした明智家の次男よ。もっとも、父親達からはあまりよ
     く思われていないみたいだけど。」
     「……だろうよ、どうせデキのいいお坊っちゃんに嫉妬でもしてんだろ。あの二代目っ
     てのは。」
     「…………へぇ?」
      法井は、澄んだブルーの双眸を見張り、心底から感心した様な声を出した。
     「分かってたのね。医学王朝の実体を。」
     「実体が分かるとか、そういう問題じゃないけどな……あれだけテレビで報道されりゃ、
     いやでも分かるさ。あの二、三代目ってのは、そりゃ頭はいいんだろうが、肝心の医
     学に対する情熱ってのか、それをいわせりゃからっきしだ。奴等、金と名声にしか興
     味を持てない人間だよ、ありゃ。」
      最後のあたりはトーンを少し落として、神薙は言い終えると同時に俯いた。どこか悲
     しげな、暗い色を帯びた双眸を、薄汚れた床に向ける。
     「俺は、もともと口数の少ない、物静かな人間だった。ま、真崎の奴と会ってからは少
     し、いや……かなりか。変わってきたけどな。それでも未だに俺の“能力”は残ってる。
     こっちが黙って相手のする事――話し方、歩き方、食べ方、笑い方――それをじっと
     見ていると、何となく分かってくるんだ。ああ、こいつはこういう人間なんだなって。そし
     て、自分で認めた人間としか、俺は話をしない。自分にとって、本当にいい人間と思え
     る人としか。」
      そこまで話して、ふと彼は何か思い出した様に、顔を上げる。
     「……まぁ、あんたがもし本当に地球の分身ってのなら、こんな事話す必要はないか。
     地球上の事はみんな分かってんだよな、確か。」
      そして、法井に自嘲じみた笑みを浮かべてみせる。その後、すぐに神薙はまた机の
     方に視線を落とし、
     「分かってるよ。本当は、こんな付き合う人間の選び方をしてはいけない事くらい。だが
     な、それでも本当に“悪い”人間とはせめて接したくないんだ。」
     「……………………。」
      法井は、ドアに預けていた背中を戻して、二三歩前に出た。神薙の方に。彼女から
     は神薙の表情は見えないが、それでも彼女にはそれがよく分かった。“地球”としての
     能力からか、あるいは“彼女”自身の持つ感情からかは知らないが。
     「明智流雲……か。いい奴だよ、あいつは。確かにちょっと変なところもあるけど、医学
     に対する情熱に関しては、あいつが本当の三代目、いや二代目に相応しい男さ。研究
     の話となると、目の色が変わるからな。確かに、あんたの人選はまんざら間違ってはい
     なかったよ。」
      そして――彼は再び振り向いた。
     「いや……最高だった、かもな。」
     「……………………。」
     「教えてくれ。キャッドは本当に普通に研究するだけでは治療法は解決しないのか?」
     「……どうやら、」
      ようやく、法井は閉ざしていた口を開いた。そこから、さっきまでの陽気な口調とは違
     う、深刻なそれが紡ぎ出される。
     「私の、本当の最高の人選はあなただった様ね。」
     「……………………?」
      真面目に法井は言うのだが、神薙はそれを聞いて眉をひそめるだけだった。流雲でな
     くて、自分が最高の人選だという事、何より、何故自分に“選ぶ”という言葉がつくのか
     が分からない。
     「私はただ、単にあなたを選んでここに来たってわけじゃないの。あなたの所に来たのは
     それなりの理由があるのよ。」
     「……理由?」
     「あなたより医学に長けている人は、世界中、いや、日本中にだって大勢いるわ。それは
     勿論、自分でも分かっているでしょ?」
     「当然だ。」
     「それでも、あなたしかいないの。キャッドを治せる医者は……あなたしか。」
     「……何故だ?」
      訝る神薙に、法井は少し悪戯っぽく――そしてどこか、優しげに笑って、
     「それもあなた自身、分かってるんじゃない?医者にとって大切なのは、知識よりも情熱、
     人間としての優しさ――それを、あなたが世界中のどの医者よりも強く感じている。私が
     治療の依頼をあなたに求めたのは、そういうわけよ。」
     「治療の依頼って、キャッドの事か?」
     「……ま、そうとも言うけど。」
      そう言って、神薙のそばにある椅子を手元に引いて腰を下ろす。神薙と向かい合う様に。
     とても近くに――
     「正確に言えば、私を蝕むキャッドを治療してほしいんだけど、ね。」
     「……何だって?」
      平然と、ごく自然に言った、法井の発言に神薙は目を丸くした。
     「何も、キャッドは生物だけを冒す病気じゃないのよ。ありとあらゆる物質……その分子レ
     ベルの構成を、徐々に分解していく――それがキャッドという病の内容。その現象が進
     行する速度は、人間をはじめ、犬や猫といった動物、それに植物といったもの――つまり、
     生物の細胞が特に早いの。今はその症状の現れが最も早い人間だけにスポットが当て
     られているだけであって、実際は建築物や鉱物もキャッドに冒されているのよ。ただ、他
     の物質における現象には、まだ誰も気付いていないの。そしてそれは、いまや世界の、
     いいえ、地球の約三パーセントを蝕みつつある――
      ブルーの双眸に悲しい色を湛え、神薙の顔を見上げて彼女は言った。患者が、医者に
     自分の症状を訴える時のそれと同じ様に。
      神薙は驚いていた。いや、あっけにとられていたのかもしれない。丸くなっていたその
     双眸は、今や光を失いそうになっていた。
     「……つまり、キャッドという病気は……」
      唾を飲み込む音が、はっきりと聞こえた。
      法井が、静かな眼差しで頷いて応える。それに合わせるかの様に、神薙の口が力な
     く動く。
     「キャッド……星を冒す病…………?」
 
 
  
   
  次の章へ
 
  小説の目次に戻る
 
 
 
TOPに戻る