キィ、とかん高い音をたてて、そのドアは開いた。神薙はその中を見て、ホッと安堵の溜
息を洩らした。一年前から全く変わってない。懐かしい研究室は、彼を一年前と同じ姿で迎
えてくれた。
この研究室は、久池井担当の一室であり、学生時代、彼と早くから親しくなった神薙は、
カリキュラムにまだ研究授業が含まれてない頃から、昼休みとか暇な時によくここに連れ
てきてもらってたし、一人で静かに研究したい時には、しばしばここを使わせてもらった事
もあった。神薙にとっては、思い出深い研究室である。
「建物自体もそうだけど、やっぱりここが一番懐かしく感じるなぁ。」
「そうやろ。何たって、最初にここに来たのは、お前が入学してまだ一週間経ったかくらい
やもんな〜。」
久池井は、やたら古い研究室の中にある割には、真新しく見える棚から小さな試験管を
一つ取り出し、神薙に振って見せた。管の中には、かろうじて肉眼で見える小さい何かが
揺れている。
「ほれ、これがキャッド患者の細胞や。」
言って、久池井はそれを、神薙に向かって無造作に放り投げた。神薙は唖然とした顔で
それを何とか両手でキャッチした。ついでに訪ねる。
「え、あ、あの、久池井さん、これって……個人の所有する試料ですか?
だったら、これが
ないと久池井さん自身の研究ができないんじゃ……?」
「なあ、神薙。」
神薙の言葉を遮って、久池井が静かな口調で言ってくる。真崎の事を話した時とはまた
違う、真剣な表情で。それを聞いて神薙も、口をつぐんで彼の言葉に耳を傾けた。
「さっきも言ったが……俺はな。お前は大学を卒業したら、まっ先にキャッドの研究を始める
もんやと思っとったんや。ここで。研究にいるモン揃えて――お前が今持ってる試験管は、
お前用の――つまり、お前の試料や。今日までお前がここに来るのを、俺はずっと待っとっ
た。」
静かな口調で。しかし、一言一言に熱意のこもった久池井の言葉を、神薙はその場でじ
っと聞いている。
「やりたい事をまっ先にやってたお前に、今までどんな事があったのかは聞かん。今日、こ
うしてここへ来てくれたわけやしな。一年前のお前と、さっぱり変わってしまったって事はな
かった。やけど、」
試料の入った試験管を持つ両手さえ、微動だにさせずに、神薙は久池井の双眸を見つ
め、ただ、ひたすらに彼の話を静かに聞き続ける。
「やけど、今までに大きな空白ができたって事実は変わらん。キャッドに対する知識は、俺
には多少なりともあるが、お前にはない。仮にあったとしても、それは俺の比にはならんや
ろな。」
そこまで言って、久池井は急に口を閉じた。神薙もそこで緊張が解け、目を丸くしている。
そして、やがて久池井は意地悪げな笑みを浮かべて、言った。
「だから、今日は俺よりキャッドについて理解しないうちは帰さんで。いくら真崎がいないと
寂しいってもな……けど、まずその前に腹減ったから、昼飯食いに行くか。オゴってやるか
ら。」
「…………はいっ!」
神薙は、嬉しそうに答えた。
一年前まで、教師に見せた学生の笑顔で。
研究なんて、久しぶりだ。真崎の家で毎日やっているはずなのに、神薙はそう思った。
懐かしい研究室で、自分のやりたい研究をする、恐らく、これが久しぶりと思わせる要素
なのだろう。
久池井は今、ここにはいない。何でも、今まで自分が研究して得たデータを、車の中に
忘れてきたらしい。そこがいかにも久池井らしいと、神薙はそれを聞いた時、「やっぱりこ
の人は変わってない」と、改めて思った。今日は電車で来たので、彼の住むアパートの近
くの、駐車場まで取りに行ったのである。往復二時間足らずだが、ちょうど帰ってくる頃に、
彼の受け持つ授業が入っているので、正味三時間半は、ここに帰ってこない。
しかし、神薙にとって、それはかえって好都合だった。しばらく一人で集中して研究した
かったし、それに研究している間は時間感覚がなくなってしまうので、三時間半なんてあ
っという間に過ぎてしまう。この間に、久池井にどれだけ近づけるかと、神薙は正直苦悩
した。研究するのに三時間半という時間なんて、はした時間なのである。ひょっとすると、
久池井は嘘を言って外に出てくれたのかもしれない、と神薙は思ったが、すぐに考えるの
をやめた。彼が帰ってきて、真偽のほどはどうか聞こうとしたというのも、同じ事だ。
試料を扱う手の動きを早め、神薙は思考を研究一色にした。細胞をプレパラートの上に
乗せ、カバーガラスを被せ――顕微鏡でどんな風に見えるのかは、以前テレビ番組で特
集していたのを見たので、大体は知っている。しかし、実際に顕微鏡を使って見るのとそ
うでないのは、やはりどこかが違う。見えなかった部分が見えるとか、感想が違ってくる
のだ。彼はカバーガラスを乗せるが早いか、顕微鏡を覗き込んだ。
「……………………!」
顕微鏡を通して彼が見た物は、“核”だけの細胞――いや、“核”以外のもの全てが消
失している細胞だった。その“核”ですら、心なしか朽ちかけて見える。いや、実際そうな
のかもしれない――ミトコンドリアやゴルジ体、リボソームといった、細胞活動に不可欠
なものが一切、細胞の中からなくなっている。ざっと見て、以前テレビで見た細胞の様子
と一致している事を彼は確認した。
(細胞内が崩れて、外に出た?……いや、違うな。細胞膜が無傷なところを見ると、内面
のみの変化って可能性が高い事になるが……)
試料の細胞の解析を進めるごとに、一つ、また一つと倍率の段階を上げていく。
(最初は、斑血球減少症の様な類の病状かと思ったんだが……こうも、細胞だけに変化
が見られるなんてな……だが、外に排出せずに、細胞内のものがなくなるだろうか?
細
胞内に入り込んだウイルスゲノムがそのまま変化した?
それとも、そこから……消滅し
た?……まさかな。そんな、非科学的な事が、あるわけがない……。)
額に数滴の汗を浮かべ、神薙は目に映るもの全てを凝視した。プレパラートをずらしな
がら、細胞の全体を。
(しかし、実際になくなっているんだから、こうやって調べていけば、いつか謎を解く糸口
は見つかるはずだ……。)
「無駄よ。」
声は、唐突に神薙の後ろから聞こえた。
だが、しかし研究の真っ最中である彼には全く聞こえてないらしく、驚くどころか何の反
応も示さない。だが、それを声の主は、肯定の姿勢と見てとったか、話を続ける。
「顕微鏡で見るだけでは、永遠に謎は解けないわ……何故なら、実際に細胞内から消失
しているんですもの。」
どうやら女の声――真崎ではないらしいが、神薙は未だ、それが聞こえたという素振り
を見せない。それを今度は無視されたと思って、声の主――女は、神薙の座る椅子に近
寄ってきた。
「……ねえ、聞いてるの?」
耳元で訊いてみるが、やはり反応はなかった。女はしばらく考え込み、そして思いつい
た様に、また耳元で言ってみる。
「かんちゃーん、今日の晩ご飯は、かんちゃんの好きなカレーだよぉ。」
「何ぃーっ!? 今日は久池井さんと晩飯食うって約束してんのに、よりによってお前は、そ
んな日にカレー作りおってー!」
と、神薙が振り向き叫んで――
そこで彼は、我に返った。
見ると、さっきまで自分一人だった研究室に、見慣れない女が一人、立っている。端整
な顔立ちに、どこか大人びた双眸からして、彼女が教授でないと考えると、歳は大体二
十三、四あたりだろう。髪は顔によく似合う澄んだブルーで、やや長めのショートカット、よ
く見ると双眸までもがブルーである。まだ春とはいえ、今日は少し気温が高いせいかTシ
ャツに半袖一枚という薄着である。背はまあまあ高く、百六十センチの中程といったとこ
ろか。学生か、と神薙は一瞬思ったが、授業では使わないこの部屋に、普通の学生が立
ち入ってくる事はまずないので、その考えは却下した。それに何より、この女は真崎の声
を真似たのだ。しかも、自分の好物まで知っていたとなれば、怪しい事この上ない。神薙
は目の前の女を凝視し……しばらくして頭を掻きながら、溜息を一つついて言った。
「何だ……真崎の変装か。」
「違ううぅぅっ!」
まさか、そう言われるとは思ってなかったのだろう。女は整った顔を乱す様に叫んだが、
神薙はただ、きょとんとしただけで、これといって驚いたという様な表情は表さなかった。
「……そっか……そうだよな、真崎の奴はこんなに美人じゃね〜し……かといって、まさ
かここまで綺麗になれるほど変装がうまいってわけないし……。」
「そうそう、違うの。」
「んじゃ、ただの変わったシュミをもったね〜ちゃんか。」
「だから、何でそーなるのぉ!?」
とうとう女は、ブルーの髪を振り乱してそう叫んだ。しかしそれを、神薙は至極冷静に
見つめている。ただ、ちょっと唇を緩ませて。
しばらくして(いや、ようやくといった方がいいか)、女は自分がからかわれているんだと
いう事に気付いた。
「……ちょっとは、私の話も聞いてほしいんだけど?」
「あいにくと、そんな暇はないんでね。」
言って神薙は、幼い子供を扱う様な口調で、
「ほらほら、ガキは帰った、帰った。ここはお兄ちゃんしか入れない、立入禁止の部屋なん
だから。」
「……私、六年なんだけど?」
女はブルーの双眸で、ね? と言う様に神薙を見る。しかし、神薙はこちらを向いている
彼女の顔を両手でむりやり出口の方へ向け、
「同じ事だよ。ここは久池井教授か、または彼に許可を得た人間しか入れないんだ。ここ
の学生なら――それも、六年だってんならなおさらだ。知ってるはずだろ?」
そう言って、彼女を研究室から追い出そうとする。彼女は、「ちょ、ちょっと待って」と言い
ながらそれを制するが、神薙はそれを聞き入れない。
「ま、待ってよ。私、あなたに話があってきたのよ?」
「ああ、それなら研究にめどが付いてからにしてくれ。ったく、真崎じゃあるまいし。」
――と、そこまで言って、ふと神薙は言葉を途切った。
「そういや……お前、何で俺や真崎の事、知ってんだ?」
それを聞いて女は、しめた、という顔で神薙と対峙する。それを見て、今度こそ神薙は驚
愕の表情を見せた。
彼女は少し首を傾けて、神薙を、ブルーの双眸で優しく見つめる様にして、言った。
「私は、法井瑠奈――あなたに、キャッドの治療法の完成を依頼したいの。」
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