午前十時前。西村冴樹は、東京の地を踏んでいた。
    『神薙の捜索を中川に依頼され、その翌日の一便で東京に来たのである。十分余裕を持
    って出発してもよかったのだが、根が真面目である彼は、まっ先に出発してないと、いても
    たってもいられない状態になってしまうのであった。
     そして、そんな真面目であるがゆえに、まっ先に来たのもここであった。
     信濃町。
     慶應義塾大学の、医学部がある所である。西村は今、その信濃町駅にいる。しかし、ここ
    に来たからって神薙が見つかる保証があるというわけではないのだが、彼は、今日自分が
    泊まる宿を探すよりも早く、ここへ来てしまったのである。
     無論の事、重い荷物は持ったままである。しかも、東京に着いてはや一時間が経っていた
    ので、いい加減、腕や肩がだるくなってきていた。その上、そのせいかまだ十一時過ぎとい
    うのに腹もすいてきている。
    「……腹減ったのぅ…………。」
     あまりの空腹に、思わず方言まじりの独白が洩れてしまった。西村自身も、その独白を聞
    いてハッとした。
    (いかん……こりゃ早いとこ、どっかで昼飯食ったほうがいいな。)
     彼は駅を出ると、すぐ右に行った所に軽食店があるのに気付いた。その場に置いていた重
    い荷物を背負い、あるいは手に持ち、重い足取りで何とかそこまでたどり着いた。
    (これで何とか体力は回復するだろ。)
     西村は、そこで手軽なものを二、三注文し、あっという間にたいらげてしまった。
    (さて……問題は今からどうするか、だ。)
     勘定を済ませ、再び重い荷物を持って西村は店を出た。が、そこで足は止まってしまった。
    今からどうしたらいいのか分からない。どうしようか迷っているうちに、そこは通行の邪魔で
    ある事に気付いた。店の出入り口の前に立っていたのだ。
    「あ、すいません。」
     西村は、自分の目の前でこちらを覗き込んでいる男を見て、あわててその場を離れた。
    (とりあえず…………歩くか。)
     そんな、西村は自分らしくない事を考えつつ、とりあえず住宅街へ向けて歩き出した。何
    故、住宅街なのかと別に意味はなかったが、軽食店の後ろが住宅街だったというだけの事
    だった。
    (……やっぱ東京の町だけあって、家との間隔が狭いなあ。)
     住宅街というのは、東京に限らずそういうものなのだが、西村はとにかく、暇にならないよ
    う、独白をわざわざ標準語で、頭の中で連発していた。真面目な西村は、何か目的を持っ
    て行動しないと気が済まない人間だった。だから、ただこう歩いているだけでは、暇で暇で
    仕方がない。と――
     ちょっと早い昼食をとってから、ものの十分も経ってないだろうか。何か、妙に既視感のあ
    る建物が、ちらっと西村の視界に入った。
    (…………何だ?)
     西村は、その建物の前で足を止めた。周りの住宅と比べると、一回り大きい、二階建ての
    建物。その二階の、小さなベランダにはベッドシーツと思しき物が二枚、干してある。そこか
    ら視線を落としてみると、一階には庭が殆どなく、かわりにシャッターの降りた、車庫があっ
    た。ふと気が付くと、自分の立っているその家の前の道は、そのまま車道につながっている。
    一まわり大きい建物、車道につながる道、東京にある――ここらではちょっと名の知れた、
    金持ちの家?
     ここまで連想して、顔を手で覆って西村は呆れた様に一つ、溜息をついた。
    (こんな家に既視感があるわけないじゃないか。第一、ここは東京なんだぞ。今日の俺は、
    どうにかしてるんじゃないのか……?)
     顔を覆っていたその手でそのまま頭を掻き、西村はその場を通り過ぎようとした。その時、
    また何か既視感の様なものが、彼の脳裏に瞬いた。何かこう、まだ幼い頃の思い出の様な、
    ノスタルジックを感じさせる――
    (……一体何なんだ、この感じは?)
     そう思って、今度は足を止めずにその建物の方を見やる――すると、さっきは見えなかった
    一階の内部が、ガラス越しにはっきりと見えた。
    ――薬?)
     訝って西村は、再度足をとめた。その一階には大量の薬が積んであり、あるいは並べられ
    てあった。そして、その一つ一つに値札のシールがはってある。
    (薬局屋? そんなものに何で既視感があるんだ?)
     すぐそばにある自動ドアから、中に入って見てみようとしたが、それはすぐにやめた。首を
    傾げて考えているうちに、ガラスの向こうで何かが動いた。二階から店員らしき人が降りてき
    たのである。
    (やべ、客と思われちまう――
     西村はあわてて、その場から去ろうとした。しかしその時、その店員の女と西村との目が
    一瞬合って――
    「え?」
     思わず、西村は声を出して足を止めてしまった。目が合った女も、一瞬その場に佇んでい
    たが、やがてこちらに手を振ってきた。どうやら、自分を呼んでいるらしい。
     それを見て、西村は上を見た。この薬局屋の看板を見たのだ。そこには、青い字で真崎
    薬局と大きく書かれてあった。
    「この薬局屋……真崎んちか!?」
     既視感の謎が氷解し、西村は思わず声に出して叫んでいた。この看板が、さっきから視界
    の隅に映っていたのである。ただそれを、目では見ていたが彼はそれに気付かなかったの
    であった。
    (司から聞いていたけど……こんな所にあったなんて!?)
     そう思っているうちに、真崎の方が店から出てきた。小学時代のクラスメートだった二人は、
    東京で十五年ぶりの再会を果たした。
 
     電車の揺れが懐かしい。考えてみれば、一人で電車に乗るなんてのも、何ヶ月ぶりの事だ
    ろう?
     電車に揺られ、流雲はそんな事を考えていた。電車に乗るという事以前に、外での単独活
    動自体が既に久しく思える。外に出るといえば、大抵父や兄についていくという、何かの医
    療福祉活動もどきか、稀にある、家族での外食……まあ、これも似たものではあるが。何に
    しろ、この最近ろくな外出がなかった。
    「外の空気はうまいな、やっぱり。うん。」
     そんな独白を、電車から人混みの多い駅に降りた流雲は、さわやかな表情で言った。そ
    んな彼の姿を見て、怪しげな視線を向ける者、あるいは「この都会ん中でそんな事言ってら
    れるなんて、頭がどっかイカれてんじゃねえのか」といった目つきで睨む者など色々な反応
    を示す人間が多々いたが、今や地球は自分中心に回っているものだと思い込んでいる流
    雲にとって、そんなものは眼中に映らなかった。
     エスカレーターに乗り、自動改札機を通って外に出る。こんなもの、一般人には日常の事
    だが、今の流雲にとってはその一つ一つが楽しくて仕方がない。これならもっと早くに家から
    出るべきだったと、彼は悔やんだ。
    「父さん達がいない一日が、こんなに楽しいなんて思わなかった。」
     すっかりご機嫌になっている流雲は、何かおもしろそうなものはないか、辺りをキョロキョロ
    見回した。と、
     グゥ〜
    「…………あ。」
     流雲は、間の抜けた音でふと、我に返った。自分の腹が鳴ったのだ。腕時計を見ると、十
    一時半を回るところである。しかし、久々に体を動かしたせいか、彼の腹時計はもう昼過ぎ
    を指していた。
    「そっか……研究に来たんだっけ。そうでなけりゃ、別にここに来なくてもよかったんだもん
    な。」
     そう独白して、流雲は後ろを向いた――そこには、この駅名が記されていると、彼は思っ
    たからだ。
     信濃町駅。
     大学の医学部で、国内一・二を争う、慶應義塾大学。この駅前すぐにあるのがそれであり、
    また流雲の目的地でもあった。
     M・D の者だ、と言えば、しばらくの間くらいは研究室の中には入れさせてくれるだろ。)
     いつも心の棘になっているM・Dも、今日ばかりは役に立つな、と付け加えて流雲は、
    苦い表情で思った。が、
     グウゥ〜……
    「……………………。」
     腹の音は、どうしても鳴き止まない。仕方なく、少々早いが昼食をとる事にした。
    「さて、どこにしたものか……な?」
     独白しながら辺りを見回すと、すぐ右に軽食店があるのに気付いた。
    「よし……あそこにしようか。」
     なるべく安くて量の多いものがいいと、金持ちの次男坊のくせに割とケチな事を考えつつ、
    流雲はその店へと足を運んだ。
     だが、店の目の前まで来たという所で、彼は足を止めた。いや、止めざるを得なかったの
    だ。店から出てきた一人の男が、その場から動こうとせず、何やら考え事をし始めたのだ。
     しかもその男は、格好からしておかしかった――歳は自分と同じくらいか、今では珍しい、
    前髪を立てた黒の短髪に、上下の色をセロリアン・ブルーで合わせたジーンズ姿、これは
    まあ普通の格好であるが、見るからに重そうなバッグを肩と足元にそれぞれ一つずつ持っ
    ており、それらがちょうど店の入り口を塞いでいた。旅行者か何かであろうが、この格好で、
    店前で俯きながら考え事をしている、という図は、いくらさっきまで頭の中が幼児期に戻っ
    ていた流雲から見ても、決して一般的なものには見えなかった。
    (一体、どうしたんだろう…………?)
     そう思い、彼は目の前の男の顔を覗き込んだ。それでも男はしばらく、考え込むという表
    情は崩さなかったが、やがてこちらに気づいて、こちらを店の客と思ったのか、
    「あ、すいません。」
     と言って、あわてて荷物を持ってその場から去っていった。足取りがあまりしっかりしてい
    ないところを見ると、よほどの長旅だったのか、あるいは腹がすき過ぎてフラついているの
    ――金がなくて、店の前で食うか食わまいか迷っていたんじゃないのか? と流雲は思
    った。
    (もし、そうなら……悪い事したかな、昼飯くらいならオゴってあげたのに。)
     それも一番安い奴だけど、とあくまでケチさを貫いて(?)流雲はその店へと入っていった。
 
 
 


 
 
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