第3章・星を冒す病

      慶應義塾大学医学部。
      慶応といえば、一般的には「誇りさえ感じさせる貫禄のある正門に、校舎を囲む塀につた
     う長い蔓」という、時代を感じさせるイメージがあるのだが、発端から既に百年近くも経つ医
     学部の校舎は、確かに古いとはいえど、再建しているせいか決して時代を感じさせるほど
     のものではない。また、校舎と共に建っている、真新しい付属病院も慶応の長い歴史に反
     して見える。ただ、校舎と僅かに離れている“研究室”だけが、やたらと古く見えた。
      しかし、どんなに新しく見えても、二本のペンが交差している章――即ち、慶応の塾章だ
     けは、確かに“慶応”の歴史を物語っていた。病院も、校舎も、古い研究室も――全てが冠
     している塾章――百五十年もの前から、ずっと受け継がれてきた御名(みな)――永きに渡
     ってその名を誇ってきた旧き塾、慶應義塾――
      そして、そこに神薙はいた。
      学生時代には毎日目の当たりにした景色を見ながら、彼はゆっくりと研究室の方へと歩
     いていく。眉をひそめて、頭を掻きながら。
     (……やっぱ、OBが研究室に何も言わずに入ってっちゃ、まずいかな……)
      そう思いながらも、しかし歩調は落とさない。
     (学生相手ならどうにかなるけど……見知った教授なんかに会ったらアウトだな……)
      俯きながら、学生時代、やたら厳しかった老教授の面々を思い出し、彼は顔をしかめた。
     (あのジジィ共に会う前に、何とかあの人に会わねえと……)
      半ば、天にすがる様な思いで、少しキョロキョロしながら、だがそれでも歩調はそのまま
     で彼は進む。
     (面会願いって事で、教職室にでも行った方が良かったか……いや、それじゃ、みすみす
     あのジジィ共に見つかりに行く様なモンだ。)
      神薙は、俯いたまま道端の石を蹴飛ばしながら煩悶する。しかし、そうしているうちにも
     彼と研究室との距離は刻一刻と狭まってきている。
     (ここまで来て今更引けねえもんな……第一、わざわざここに来たのも、何かってったらあ
     の女から解放されたいがため……)
      そこまで考えて、神薙はふと、頭を上げた。見ると、ちょうど四つ角の所である。付属病
     院の脇道から、彼は研究室の方へと右へ曲がろうとして……
      ドンッ
     「あたっ。」
     「痛てっ。」
      途端、誰かにぶつかってしまった。彼は、目の前でぶつかったと思われる右腕をさする
     人に一言謝ろうとして……
     (ゲッ!)
      その人を見て、驚愕の声を危うく洩らしそうになった。その人――若い男性は、ネクタイ
     をしめた、スーツ姿だったのである。
     (スーツ姿……って事は、教授か!?
      神薙はひどく焦った。少しでも冷静――というより、普通ならば単にスーツ姿の男を見て
     も、サラリーマンか何かではと思うだろうが、大学の教授達に会いたくない一心だった彼
     にとって、その程度の識別でさえ、いまや不可能であった。
     (まだ若ぇ……この歳でスーツ着てる奴となると、よほどの堅物か何かか……ん?)
      その時神薙は、自分がどんな目で相手を見ていたのか、それははっきりと分かるはずも
     なかったのだが、とにかくそんな双眸――そのスーツ姿の男が、自分と似た様な格好で、
     こちらを見つめ返していた。しばらく(といっても、せいぜい一秒か二秒だが)双方、微動だ
     にしなかった――が、いきなり金縛りから解放されたかの様に、二人同時に叫ぶ様に言
     った。
     「久池井さん!?
     「神薙!?
      お互いに、指で指し合って目を丸くした。
      相手――久池井と呼ばれた男の方はともかく、神薙はまさか今から会いに行こうと思っ
     ていた人間にこんな形で出くわすとは思ってもいなかったのだ。
     「く……いや、本当に久池井さんなんですか?他の教授達みたいにスーツなんて着てて。
     全然分からなかった。」
     「……やっぱ神薙か、いや、ひっさしぶりやな〜。何ヶ月ぶりかいなあ?」
      その、スーツ姿の男――見た目は二十代半ば(しかし、教授と呼ばれるからには最低
     でも三十路近いであろう)、神薙と同じく黒髪の短髪で、やや日焼けがかっている好青年
     は、なまりのある言葉でそう言った。二人並んで歩いていると、従兄弟くらいで通るほど
     の若さだが、何を隠そう神薙の学生時代の恩師が彼・久池井輝夏であった。神薙は、そ
     の歳の差があまりない事から彼を、「久池井さん」と呼んでいた。
     「いやぁ、ホントにお久しぶりです。しばらく見ないうちに何か変わられてしまって。」
      神薙がそう言うと、久池井は襟元をつまむ様にして、
     「ああ、このスーツか? 実はこのカッコ、ほんの二日か三日ばかし前からでな、なんや他
     の教授……ほれ、お前なら分かるやろ、あの頑固ジジィ共や、教授のくせにだらしない格
     好しおってなんぞ言いおってな、それで俺も気がむいた時くらい着てみよう思って。しかし
     ……ったく、人が何着ようが勝手やっちゅーのに。」
      答えがそのまま愚痴になってしまった。しかし神薙はその姿を見て、「相変わらずだなあ」
     と内心ホッとした。格好が変わって、性格まで変わってしまったと思ったのだ。
     「……んで、神薙。ここに一体何の用や?」
     「あ、ええ。その前に久池井さん、今何か用事でもあります?」
     「いや、俺はただの散歩やけど……ひょっとしてお前も散歩か?」
     「へ? い、いや、そういうわけじゃ……」
     「んじゃ、ここらを通るカッコイイね〜ちゃんを拐かすために待ち伏せを……」
     「違いますって!」
      神薙は、苦笑いしながらも両手をわななかせた。
     「冗談や、冗談……んで、ホントのところは何や?」
     「ええ、実は……久池井さん、うちの……じゃねえや、慶応の研究室に、キャッド患者の
     細胞ってあります?」
     「細胞って……ははあ、お前、今キャッドの研究してんやな。」
      久池井は、神薙がこれから何を言おうとしているのかを全て悟った様な顔つきであごをさ
     すった。
     「ええ、そこで、ですね……」
     「分かった、みなまで言わんでええ。元といえどかわいい教え子のためや、一肌脱いでや
     ろうやないか。」
     「やったー、ありがとう久池井さん!」
      神薙は、まるでおもちゃを買ってもらう子供の様に喜んだ。その姿を、久池井も子供にお
     もちゃを買ってやる父親の様に見つめる。
     「さって、そんじゃあ行くとするかね、研究室に。」
      久池井は、背伸びをしながらしかし、父親の様ではなく、学生時代の同期の様な声色で
     言った。
 
      二人は、「電子顕微鏡研究室」と旧文字で書かれてある、やたらと古そうな建物の中へ
     と入っていった。医学部創立は確か大正六年だったっけか、と神薙はこれを見るといつも
     そう考えてしまう。それだけ歴史を感じさせる建物である。一見、もうこれは廃屋なのかと
     思うほど古いのだが、入り口から中を覗くと電気がついているのでかろうじてこの研究室
     の現役さが分かる。その古い建物の中を、神薙は懐かしそうに視線を辺りに散らした。
     「……変わってないなー、ここも。」
     「ああ、ここが変わる時は、医学部全体が変わる時やろな。何たってこいつは、医学部創
     立前から慶応を見守ってきたんや。いわゆる、慶応の守り神ってとこやな。」
     「守り神、か……。」
      神薙は呟いて、視線を下に落とした。ややあって、唇の端を緩めて――しかし、苦笑い
     を含めて、彼は視線を前に戻した。
     「その守り神に対して、やたら嫌な思い出が多いのは、僕の気のせいでしょうかね?」
     「さあな。それはあのくそジジィ共に訊いてくれ。」
      久池井は、顔を多少しかめて答えた。どうやら、彼もそのジジィ共(老教授達)を苦手と
     しているらしい。それを聞いて神薙は、老教授達に対して呪う様なうめき声をあげた。
      そうしている間にも、二人はどんどん進んでいく。湿っぽい(実際はそうでもないだろうが、
     廊下の薄暗さが神薙にそう思わせた)廊下を着々と進み、目的地に近づくにつれて、神
     薙は期待に胸を躍らせ、鼓動を早くする。それに気付いたのか、久池井が今気付いた様
     に言葉を洩らした。
     「そういや神薙……お前、最近になってキャッドの研究をしようと思ったのか? そうなら、
     今までは一体何してた?」
     「…………え?」
      神薙は、完全に不意をつかれたという様な顔で、久池井に聞き返した。
     「ま、まあ……ごく基本的な薬学研究を。それが、何か?」
     「基本的、か。お前らしくないな。いつも自分のしたい事はまっ先にやっていたお前が。俺
     はてっきり卒業した後、速攻でキャッドの研究にどっぷりハマッたんやろと思っとったんや
     が。」
      久池井にそう言われ、神薙はギクッとした。そう言われてみれば、学生時代は確かに、
     久池井が言った様に、やりたい事をやるには手段を選ばない様な、一種の自己中心的性
     格だった。それが、今では当時では考えられないくらいに遠慮している。いや、というより
     は、遠慮させられているのだ。この事については今気付いたが、しかし彼は、その理由の
     根源が何であるのかは熟知していた。
     (真崎の奴か……俺が何か新しい事をすると、ついてまわって邪魔しやがるから……まさ
     か、それを避け続けた結果がこう出るとは……)
      少し俯き加減で神薙は、そんな事を考えていた。久池井は、それを反省の色とみてとっ
     たのか、気まずい表情で咳払いを一つして、
     「ま、まあ神薙、人間誰しも進歩ばかりやない。たまにはとどまる事なんかもあるしな。そ
     れに、今お前がこうして現状に気付いただけでも充分の進歩や。まあ、昔の事は忘れて
     今から頑張ればええ。」
      その言葉を聞いて、神薙は「さすが久池井さん、俺の考えている事なんかお見通しって
     わけか」と、久池井に尊敬の眼差しを向けた。ただし、彼の言った言葉の内容を、違う意
     味で解釈して、だが。
      それを見て久池井は、これまた違う意味で満足げに頷いて、そして神薙をひしと見つめ
     た。これまでに神薙が見た事のないくらいの、真剣な表情で。
     「ところで神薙、一つ聞きたい事があるんやが……」
     「? 何でしょう?」
     「……いま真崎とはうまくやってんのか?」
     !!!?
      驚いた……いや、呆れた、のか。とにかく、あまりにも唐突に、あまりにも思ってもみな
     かった事を訊かれ、神薙はその場に足を止め、しばらく何も言えなかった。
     「……………………な、あ、は……はあ?」
      と、気力を振り絞って神薙は言葉をつむぎだしたが、それを見て久池井は双眸を半眼に
     して、薄く笑みを浮かべながら、
     「だ・か・ら〜、真崎だよ、真崎奈瀬! 学生ん時、お前と仲がえかった女や! まさか今に
     なって、彼女のコトすっとぼけるってわけやないやろ?」
      肘で神薙をつついたりする。神薙は、再び何も言えなくなった。というより、頭の中がまっ
     白になっていた。脳細胞が、一バイト残らずフォーマットされた気分でもあった。
      しばらく、いやだいぶ後になって、ようやく神薙の脳細胞が復活した(どうやって再セット
     アップしたのかは知らないが)。とにかく彼は、またぎこちない口調ではあるが、抗議する
     感じで両手を開いて胸の前に出し、何とか喋りだした。
     「い……いや……す、すっとぼけるもなにも……別にあいつとは仲よかったわけでもない
     し……。」
     「うっそつけ〜! お前ら研究ン時以外は、ずっと一緒やったやんか〜!?」
     「そ、それはあのアマが勝手に近寄ってきてただけで…………。」
     「おぉぉぉーっ!! するってえと何か!?彼女の方からモーションかかったっちゅうわけか?」
     「あっ、もう、違いますってば!」
      会話の、あまりの内容に神薙はとうとう絶叫してしまった。その上、肩で息をしている。
     それを見て久池井はしばらく黙っていたが、肩をすくめて一つ溜息をついた。
     「神薙……照れるなんて、それこそお前らしくないやないか。一体、今までお前に何があ
     ったんや?」
     「う〜……照れる以前の問題なんですけど……。」
      神薙が涙声で抗議したが、しかし久池井はかぶりを振るだけだった。もはや彼には、神
     薙の話は聞こえないらしい。
     「まあ……ええわ。そのうち、照れる事なんてなくなるから。そうなってくると、二人の仲は
     より本格的になってくる。二人はひとときも離れてなんかいられなくなる……即ち、同棲!!
      ここらあたりで、久池井は一人で熱狂気味になってきた。神薙は、もう諦めた、という表
     情で、ボソッと久池井に言った。
     「……久池井さ〜ん、早く研究室に行きましょ〜よ〜。」
     「……わかったわかった。そこまで言うならしゃあないな。しかし……」
      薄く笑みを浮かべて神薙の方を見る久池井に、彼は疲れ切った声を出した。
     「…………何ですか?」
     「照れてるのは演技で、実は既に同棲しちゃってる……なんて事はないか、さすがに。」
      薄い笑みを苦笑いに変え、久池井は頭を掻いた。それを見て神薙は、ようやく分かって
     くれたかと、きびすを返した久池井の後について行き……
     !!!
      彼は、身の毛もよだつ恐怖感に襲われた!
      それを気配で感じ取ったか、久池井が足を止め、その場で振り向いた。
     「神薙……どうした? 一体……」
      久池井の言葉に、神薙は危うく声に出してしまいそうになったが、それでもかろうじて、
     絶叫は心の中にとどめた。
      それも、今更の様に。
     (同棲、してんじゃん!?)
 
 
 


 
 
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