「…………何だ、朝か。」
神薙は、その日は寝覚めが悪かった。
それもそのはずである。彼は昨日、朝の研究の時に一眠りし、昼過ぎに起きた後、夜の九
時過ぎに床に着いたのである。つまり、彼はこの日、約十五時間睡眠をとった事になる。
「うう〜……頭痛ぇ〜。くっそ、あのアマ、いつか絶対この手で葬ってやる。」
神薙は両手をわななかせて、そう独白した。昨朝の睡眠(?)がよほど効いたか、目が本
気の二文字を語っている。彼は、八時半を指している目覚まし時計を、無意味に力強く握り
しめた。
「おのれ……この時計の様に、あいつも握り潰す事ができればどんなにいいか……。」
「でも、物にあたるのはやめた方がいいと思うな、ボクは。」
「うるせえ、そんな事俺の勝手だ……」
…………と。
ガバッ!
神薙は、唐突にした声の方を振り向いた。そこには、いつからいたのか、彼が寝ているベ
ッドの脚の出っ張りに肘をついている真崎の姿が見える。
「よう、お早いお寝覚めだねぇ、かんちゃん。」
「て、てて、てめ! いつからそこに……?」
「いつからって……う〜ん、そうだなぁ、大体三十分くらい前かな?」
「前かなって、てめぇ、入る時はノックしろと言っただろーが!」
「だからしたよ、ノック。静か〜に二回ほど。」「……何で静かになんだよ?」
「起こしちゃ悪いかな、と思って。」
「あ、そ…………。」
神薙はこの時、この女には何を言っても無駄だという事を、遅ればせながらも悟った。
「んで、エプロン姿って事は……朝飯できてんだな?」
「そうだよぉ、かんちゃん起きないから冷めちゃったじゃない。」
「……だったら、起こせばいいじゃねえか。」
「いやだから、起こしちゃ悪いなと……」
「分かった、分かったからもういい。」
過眠で頭が痛い神薙は、これ以上頭が痛くなる事を恐れ、両手を振って真崎を制した。
「よし、なら早く食うぞ、早く。」
「……食べるの早くしても、意味ないじゃない。」
「あるんだよ、俺は。起きるのが遅かった分、早く食わねえと時間がもったいない。」
言いながら神薙はさっさとパジャマを脱ぎ捨て、Tシャツに着替え始めている。そのシャツ
に通した手を、シッシッと真崎に振っておっぱらう。
「また研究? 熱心だなぁ、かんちゃんは。」
「ああ、でも今日はここじゃやんねえから。」
ズボンに足を通し、神薙は部屋を出かけた真崎に言った。
「……出かけるの?」
「おう。」
神薙が全部着替え終わったのを確かめ、真崎は彼と向かい合った。
「いつ、出るの?」
「昼前に。」
「どこへ?」
「キャッド患者の細胞をもらいに、大学へ。」
「……お昼、どうするの?」
「学食で食うよ。」
「……でも、昼前に出るんだったら、何も朝ご飯急いで食べる事ないじゃない。」
「……大学行く前に、色々やる事があんだよ。」
へぇ、と真崎は目を丸くした。自分が知る限り、神薙は、研究と飯と睡眠以外に何か他
の事をしたのを見た事が殆どない。せいぜい、テレビを見ているとか、本を読んでいるとか
――そんなところである。
というわけで、この神薙の言葉は、真崎の悪戯な好奇心をかきたてるところとなった。
「……ねぇ、かんちゃん。」
「何だよ、ニヤニヤ笑いながら。」
「かんちゃんのする事って……何?」
「俺のする事? 研究だよ。」
「ちが〜う〜。その前の、朝ご飯食べた後にする事っ。」
「朝飯の後? ああ、それね。それは……。」
「それは?」
「…………秘密。」
「あ〜、ずる〜いっ!」
「え〜い、やかましいっ! とっとと朝飯食うぞ、ほら、邪魔だ!」
神薙は、うなり声をあげながら真崎の顔を軽くはたいてやった。しかし、それがかえって
真崎の好奇心をさらにかきたてるだけとなって、彼女もさらに騒ぎ立てる。
「教えろ〜!!」
――この後神薙は、適当に言った言葉の撤回に、かなりの時間と苦労を要する事となる
のであった。
そこは、診察室と呼ぶには少し狭い空間だった。ベッドが一つ横たわっており、医者と
患者、二人が座る椅子が一つずつに、カルテ等を書くのに使う机、そしてかろうじて通路
と呼べそうな、僅かな足場。それが、中川医院の診察室だった。ただ一ついい点といえば、
一般と比較してこざっぱりとして部屋が綺麗であるという事だ。そしてそれが、中川と西
村の対談の場となる理由となったのである。
「…………なるほど。食物バイオの研究ねぇ。」
「ええ。時間の経過により食物に生じる微生物が、そのまま人間にとって栄養素にならな
いか、と考えています。」
中川は感心していた。どうも医学一筋気味な自分にとって、それと違う分野で活躍する
人間は偉人に見えてしまうのである。しかもそれが、小さな頃から見てきた若者となると、
ますます感心せずにはいられないのだ。
(この子は昔っから、考えどころが他人と違っていたからなあ。)
西村青年の未来を想像し、中川はこれが息子にいい影響を与えてくれれば、と思いな
がら唇を少し緩ませた。
「しかし悪いな。うちで一番綺麗な場所がここなもんでね。」
「いえ、こちらこそ急に朝早くにお邪魔してしまって。」
西村はあわてて、手を振って言った。
「いやいや、いいんだ。久しぶりに君の顔も見れたしな……と、そうそう。何故かバイオで
思い出したんだが、君はキャッドという病気について考えた事はあるかな?」
そう言われて、西村は虚をつかれた様な顔をした。そんな質問をされるとは思ってなか
ったのだろう。彼は眉をひそめ、俯いてしばらく考え込んでいたが、
「……いいえ、そうじっくり考えた事は。」
顔を上げ、それを横に振って答えた。
「そうか……あれを、バイオという分野からどう見えるか、聞いてみたかったんだが……と、
そうだ。」
中川は、たった今思い出したという様な顔をして、手をポン、と一つ叩いた。
「さっきから聞こうと思っていたのだが、ひょっとして君は司に何か用事があってここへ来
たのかね? 例えば、そのバッグの中の事で話があったとか。」
そう言って、中川は西村の座っている椅子の横に置いてあるバッグを指さした。
西村は、中川に指摘されて自分のバッグを一瞥して、
「え、ええ、そうです。まあ、そう大した事じゃないんですけど……。」
照れくさそうに、彼はポリポリと頭を掻きながら答えた。
「大した事じゃない、とは?」
「ええ、実は僕の研究の事なんですけど。今度、ここの大学とは違う所で資料を集めたい
と思ってまして。そこで、知り合いのいる有名校、というのを考えると慶応が頭に浮かんだ
んです。確か三年前、あそこは栄養学部を新設しましたから。だからもし司君がいたら、
慶応の事を色々教えてもらおうかと……。」
西村は言いながら、またバッグを一瞥した。どうやらその中には、彼の研究資料か何か
が入っているらしい。
「ふむ……しかし、今聞いたところでは大した事ではない、とは思えんが……?」
「あ、いえ、別に慶応でなくともいいんですよ。有名校、というか、資料を調べる価値があ
りそうな所ならどこでもいいんです。ただ、どうせどこかへ行くのなら、東京に行って色々
何か見ていきたいなと……。」
言って西村は再び照れくさそうに頭を掻き始めた。なるほど、それで照れてるのかと、
中川は西村の行動に納得した。
「……で、他にどこへ行くのか決めているのかね?」
少し唇を緩めながら中川は西村に訊いた。
「いいえ、まだ特に決めては。」
「なら、どうしても慶応に行きたい、という理由はあるかね?」
「……いいえ、別に。」
西村が答えると同時に、中川はよしきた、という様な顔つきをした。
「じゃあ、俺が理由を作ってやろう。ちょっと待っててくれよ…………あったあった。」
そう言って中川が机の引き出しから出したのは、一枚の封筒だった。
「こいつの中に……もうちょっと待っててくれ。」
今度は居間の方に走り出した。一体何だ?という顔で西村は中川の走る姿を目で追っ
ていたが、しばらくして、
「いやぁ、すまんすまん……さ、受け取ってくれ。」
言って中川は、持っていた封筒を西村に差し出した。西村は言われるがままにそれを受
け取り――そして、首を傾げた。
「……何ですか、これ?」
「旅費だ、十万入ってる。」
聞いて、最初彼は「へぇ」という様な顔をしていた――が、しばらくして、
「何ですって!!」
という顔になった。
「ちょ……十万なんて、こんな……受け取れませんよ、こんな大金。」
あまつさえ、封筒を持つ手が震えている西村に、しかし中川は平然とした様子だった。
「まあ、聞いてくれ……君は確か、今はバイトをしてるんだよな。」
「……え、ええ。この二年ほどは。」
「だが、今までの話からして、君は今、休みをとっている。」
「はい、今日から二週間ほど。」
西村がそう言って頷くのを見て、中川の表情はにわかに明るくなった。
「そこでだ。君はその金で東京に行く。休み中ずっとでもよし、早めに帰って残った金を懐
に入れてもよし。」
「……………………。」
「ただし。一つ俺からの依頼を聞いてもらいたいんだ。それは『神薙司の捜索』。」
「は?」
思ってもない事を言われ、西村は無意識に間抜けな声を洩らしてしまった。
「……捜索、ですか?」
「ああ、心配しなくていい。あいつは絶対大学の近くにいる。あいつもなにかと大学に縁
がある奴だからな。その、住所だけを教えてくれればいい。」
中川の話がそこまできて、西村は今さら思い出したという様な顔をして中川に訊いた。
「……しかし、それなら大学に連絡すれば、住所は分かりませんか?」
「いや、無理だろう。あいつは大学に住所を連絡する様な、気の利いた神経はしてないか
らな。俺に似て。」
「…………そうですか。」
根拠はないが、しかし妙に説得力のある言葉に、西村は少し疲れた顔をした。
「……でも、もし、いなければ?」
「それはそれでいいさ。依頼が果たされなくても、依頼料というのは払うものだ。」
「しかし……」
「なーに、気にしないで行ってきてくれ。もしあいつに会えたら、一年おきくらいには電話く
れ、と伝えておいてくれよ。」
中川は、今までに増した明るい表情でそう言った。まるで、本当に息子と話しているか
の様に。
「……分かりました。必ず捜し出してきます。では、そろそろ時間ですので、この辺で失礼
します。」
「おお、そうか、もうこんな時間か。」
見ると、初診の五分前である。中川は、すっかり時間感覚がなくなっていたのをその時
初めて知った。
「いや、ありがとう。時間の事には気づかなかった。」
「いえ、こちらこそ。こんなに頂いてしまって……できれば明日にでも東京に行こうと考え
てますので、ひょっとしたら、明日にも見つかるかもしれませんよ。」
西村はもらった封筒を手に、笑いながら言った。
「ああ、じゃ、頼んだぞ。」
「はい。では、さようなら。」
「ああ、さよなら。」
玄関を出て一礼する西村に、中川も笑って応えた。
「さって、じゃ、今日も仕事を始めるかね。」
玄関から西村が見えなくなるまで見送ると、中川は一つ背伸びをして、ドアを閉めて診
察室の方へと戻っていった。
この翌日、つまり医学王朝の次男坊が久々に外出する日の早朝、西村は東京へと発
つのである。
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