翌朝。春にしては少し暑いくらいの快晴を迎えた。例年だと肌寒く感じるはずの寝覚め
     が、この日は朝から何だかまたうとうとと眠くなってしまいそうである。そのため、流雲は
     ただでさえ低血圧で朝に弱いのに、今日はさらに起床が困難だった。
     「う……う〜ん…………。」
      彼はベッドの中で何度も背伸びをしてみせるが、なかなかしっかりと目が覚めてくれな
     い。起きなくては、という気持ちがあるのだが、ポカポカとした空気が睡魔となって、絶え
     ず流雲を襲ってくる。
     「ん……お、起きなきゃ…………。」
      そう言って、今度はベッドから両手を出してみるが、結果はさっきと同じだった。彼は、
     さらにそれをバタバタさせてみる――それでも現状に変わりはないと知りつつも――
      と、自分の手が何かに当たった感触があった。家具の類ではない。硬くはあったが、
     当たった時に響く様な音がしなかった。
     (……何だろ? テーブルの脚なんて事はないし……椅子にタオルでも掛けてたっけ?)
      そう思って流雲は、未だ重いまぶたを薄く開けて感触のあった方を見やった。と同時に、
     椅子の上に何か大きなものが乗っているのがぼんやりと見える。
      流雲は「何だろう?」と思いその“何か”に触れてみた。硬くもあるが、何か生温かくって、
     ところどころ柔らかい部分がある……ますます分からなくなり、流雲が被っている布団の
     下で眉をひそめていると、彼の手が触れている“何か”が唐突に言葉を発しだした。
     「よう、相変わらずお遅い寝覚めだな。低血圧の弟よ。」
      一瞬、流雲はその言葉の内容が理解できなかった。ひそめていた眉をさらにひそめ、未
     だ機能のはっきりしない脳を奮い起こし……
     ガバッ!
      流雲は瞬時にして脳を解凍し、布団の外に出していた両手をひっこめ、双眸をムキ出し
     にして飛び起きた。彼の顔に表情と呼べるものはなく、代わりに幾筋もの冷や汗が顔の
     上を滑り始める。
      しばらく――実際にはほんの数秒だろうが、流雲には何分間にも感じたの――間、流
     雲は微動たりとてしなかった。いや、できなかったのだ。未だかつてない緊張と恐怖が、
     流雲の五感を襲っていたからだ。
      それから、流雲は決心した様に、ゆっくりと、椅子の置いてある方に顔を向けた。
     「おいおい、何だそのツラは? まるで亡霊でも見るかの様じゃねえか。」
     「…………に、兄さん!?
      流雲は、改めて飛び起きて――というのも、ただベッドから降りただけだが――兄を、
     信じられないという目で見つめる。
     「に、兄さん……何故、ここに?」
     「何故って……俺が自分の弟の部屋に来て、何かおかしい事でもあるのか?」
     「い、いいえ、そういうわけじゃ……」
     「だったら、何もそんなに妙に不思議がるこたぁねえじゃねえか。」
     「え、ええ…………。」
      流雲は、そうは言っても疑問せざるを得ない様だった。兄・樹はそうそう自分――
     まり、弟の部屋に来るなんて事はない。それも、こんな朝早くだと、なおさらの事だ。流
     雲が朝に弱いといえど、今はまだ八時を回ったばかりである。こんな時に兄が何もなし
     にこんな所へ来るはずがない――そのため流雲は、頭の中から疑問という文字を消す
     事はできなかった。何故なら、自分には兄がここへ来る様な思い当たりがないからだ。
     (一体、どうしたんだろう……?)
      流雲は冷や汗をかきながら、しばらくこちらを見つめる樹の顔を眺めた。
     「何だ、どうしたんだ、お前。そんなアホみてーにボーッとつっ立ってて……まあ、いいか
     ら座れや、そこのベッドにでもいいから。長くなる話じゃねーんだ。」
     「は、はい」と、パジャマ姿の流雲は樹の言葉を聞いて狼狽えたが、反面、少しホッとした。
     (何だ、僕が何かやったわけじゃないんだ。)
      自分に何か用事があるのか、なら何か怒られるという事ではないと、流雲は一番心配
     だった事を免れて少し気が楽になった。
     (兄さんはすぐ怒る上に説教が長いもんな……でも、すると一体どんな話があるんだろ?)
      気は楽になったが、疑問の文字は頭から消えない。流雲は、思いきって自分から聞い
     てみる事にした。
     「……兄さん。一体、僕にどんな話があるんですか?」
     「ああ。すぐに終わる話だ……昨日、親父に聞いたんだが、お前、キャッドの研究をしてい
     たそうじゃねえか。」
     「え、ええ。病原体の発見を試みたんですが……。」
     「……それはできなかった。だろ?」
      流雲の言葉に、樹が確信を持って答えてくる。
     「……はい。」
      流雲は、樹の言葉にうなだれた。樹がここへ来た理由が、何となく分かってきたのだ。
      つまり、昨日の父親と同じ――研究の中止という、警告。
     「あの病気の解明ってやつがどんなにやっかいか……それは、いくら何でもお前にも分
     かっているよな?」
      流雲は、体中の全ての力が抜けた様に、静かに頷いた。兄は、父親よりも東大出以外
     の人間に対する価値観というものを持っていない。となれば、兄が自分に言ってくる言葉
     も、父親と比べどんなものか考えるのに、さほど時間が要るものでもないだろう。
     「俺や親父なんかでさえ、あの病気に対しちゃ、殆どお手上げなんだよ。それを東大も出
     ていないお前がどうにかしようなんぞ……ヘッ、十年どころか十万年早えんだよ。」
      流雲は俯いていた。「一体、どのくらい兄さんの文句が続くのだろう」彼の頭の中にあっ
     たのは、かろうじてその事くらいだった。その他は――何も考えられない。何も感じる事が
     できない。なのに、何かが悲しく思える――静かな流雲の目に、涙が浮いた。
     「…………というわけだ。もう、お前なんぞがいっちょまえにキャッドの研究なんてするん
     じゃねぇぞ、分かったな。」
      樹が話し始めてどれくらい経ったか、彼は自分の言いたい事を言ってしまって、さっさと
     弟の部屋を出ていった。後は、出ていった兄の背に涙を浮かべた双眸を向ける流雲一人
     が、彼の部屋に残されている。
     「……………………。」
      流雲は再び俯き、両の拳をグッと握りしめた。そして、ゆっくりと目を閉じる――兄が言
     った事は気にするな、自分の信じる道を行けばいい、と自分自身に言い聞かせながら
     ―と、彼はふいにパッと目を開けた。そして、座っていたベッドから勢いよく脇に飛び立つ。
     「……よし、今日は外で研究してみよう!」
      そう言って、流雲はいそいそと着替えだした。何も研究の場は、自分の研究室だけで
     はない。口やかましい父親や兄の目の届かない所にだって、探せばそんなものいくらで
     もある。
     「今日はどうせ、疲れているとか言って家から出ないだろう。だから僕がどこへ行こうがと
     やかく言う事はないはずだ。」
      そう独白しながら、流雲はジーパンを履き終えた。最近、研究室にこもりっぱなしだった
     ため、流雲は外に出るのは久しぶりだった。そのせいか、独白の口調もどこか、楽しげに
     聞こえる。
     「今はまだ早いから……ここで昼飯食べて、それから……いや、それじゃ遅いな……ど
     こか、外で食べていこうか。それがいいな、よし、そうしよう。」
      そう決めるが早いか、流雲は机の上に置いてあった財布をジーパンのポケットに押し込
     み、赤いジャンパーを羽織りながら樹が開けっ放しにしておいたドアから飛び出ると、そ
     のままひとっ走りに下への階段を駆け降りた。
     (父さんには、頭を冷やすからとか言っておけばいいだろう。兄さんは――いいや。どうせ
     父さんから聞くだろうし。)
      そう思いながら、広く長い廊下を駆け抜ける――学歴云々で、研究の一つもさせてくれ
     ないこの豪邸は、苛々するほど廊下が長い。だから、流雲が廊下を“走って”さえ、すぐに
     は玄関に着く事はできない。
     (何が医学王朝だ。医学者を名乗る者が医学研究の自由を蔑ろにしておいて。)
      薄く笑みを浮かべながら、流雲はそう思った。いつもなら、父親達に逆らうと考える事す
     らできないのに、何故か今はそう考えるだけで楽しい。まるで、今まで解けなかった難問
     が氷解したかの様に。
     (……何か、今日はいい事ありそうだ!)
      しばらく感じた事のなかった、楽天的な想いを胸に、流雲はようやく玄関に到着した。
 
 
 


 
 
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