建物の中から、数人の人間が現れた。
それは、都内の隅にある一介のホテルだった。彼等がそこから現れた時は、既に東京の
空は、薄く紅に染まりつつあった。一人の男が駐車してあった車の中から現れ、ドアを開け
てホテルから来る人間を待っている。
「お疲れ様です、秀治様、樹様。」
そう言ったのは、その車から現れた男――つまり、秀治達の、『メディカル・ディナスティ』
の執事と思われる男である。
「……今日の講演会は疲れたな。」
洩らす様にそう言った男は、見たところ歳の方は五十代後半、短髪で容姿がよく、衣服も
整っている割には何か柄の悪そうなものを感じさせる中年――『メディカル・ディナスティ』の
二代目、明智秀治その人だった。彼は車に乗り込むと、絞めていたネクタイを緩め、疲労の
溜息を一つついて目をつむった。
「今日の講演会は、予定ではもう二時間早く終わるはずじゃなかったのか、親父?」
そう秀治に言ってきたのは、秀治の後に車に乗ってきた男――歳は三十ほど、中肉中背
の短髪――前髪がやや長めだが、顔は秀治に似てるのだが彼より目つきが鋭く、それが
彼を秀治よりも感じの悪い人間に見せていた――秀治の長男、樹である。スーツ姿という
正装なのだが、彼の鋭い双眸がその“正装さ”を打ち消している。
「あ〜あ、今夜はゆっくりできるだろうと思ってたのに……予定が狂うなんて初めてじゃねー
か、どうしたんだよ、一体?」
樹の愚痴に、運転手――彼等の執事だが――が、申し訳なさそうに答えた。
「申し訳ございません。来賓の方々の中に、是非とも秀治様、樹様の講演をさらに拝聴させ
て戴きたいと申す方がいらっしゃったもので……。」
「チッ、そんなもん、次の講演会も来てくれと言えば済む事じゃねーかよ。ったく、疲れるった
らありゃしねえ。」
頭の後ろに両手を組んで、樹はさらに愚痴を続けた。その彼に、隣に座っている秀治が苦
笑しながら話しかける。
「そう言うな、樹よ。相手がそう言ってくるという事は、それだけ我々の事を買っているという
わけなのだ。つまり、我々は彼等から名声を得ているという事だ。それに、講演が長引いた
分、講演料に色もついたしな。今日はただのくたびれ儲けではないのだぞ。」
「そう言うけどよー……やっぱ何か嫌なんだよなー。何かこう、下っ端の人間に俺達の予定
を狂わされたみたいでよぉ。」
父親の話にも、なお愚痴を続ける樹。
「かったるいんだよなー。あのキャッドの事をちょっとでも考えるだけで体が重くなっちまう。」
「確かに、あの難病を解明させるのは至難の技だ。しかし、だ。その難病を我々が解析でき
れば、今まで以上の富と名声を得る事ができるのだ。」
「……………………。」
「だが、キャッドは病原体さえも発見されていない超難病だ。さらに、従来の様に病体から探
そうとしてもそのかけらさえ見つからないときている。病原体が分からないではいくら我々で
も解明は不可能に近い。だから、世界中の医者の誰かが病原体を発見するまで我々は、講
演等をしてキャッドに対して博識になっておくのだ。」
「……つまり、機が熟すまで待つというわけか。」
樹の言葉に、秀治は一つ頷いた。それを見て樹は後ろに両手を組んだまま、斜め上に目を
そらして一つ溜息をついた。
「ワルだねぇ、俺達は。ジジィは一から研究してエイズを攻略したというのに。」
「別に悪くはない。能率的と言うべきだ。」
「まあ、どっちでもいいが……それよか、研究熱心な我が弟は今頃何をしているのかねぇ。や
っぱり今日も研究にのめり込んでいるのだろうか?」
格下相手に話す様に樹が独白する。その目が「ご苦労さん」と語っている。
「……あいつが病原体を発見してくれれば一番やり易いのだが……しかし、無理な相談だ、
所詮東大レベルでない者に、我々を超える事はできんのだからな……。」
一方、父親の秀治は、苦い表情で息子の力不足を悔やんでいる。『メディカル・ディナスティ』
の者が病原体を発見するのに越したことはないからだ。ただ、東大出でない者を『メディカル・
ディナスティ』の一員として自分としては内心認めたくない事もあり、すぐに彼は息子・流雲の
事を諦めた。
「医者の質は学歴で決まる。東大出の医者以外は、真の医者ではないのだからな……。」
小さな声で、しかし強い口調で秀治はそう独白した。彼は双眸を細め、前方に見えてきた
邸の二階に視線を向けた。
それからしばらくして、執事が邸の前で車を止め、邸の前に立っていた一人の男が車のド
アを開けた。
「お帰りなさいませ。秀治様、樹様。」
樹は無言で、秀治は「ああ」と一言言って車から降り、二人は邸の中へと入っていく。
邸の中は、十九世紀の西洋を思わせる造りになっており、玄関から廊下のところどころに
至って高価そうな置物が並べられている。が、この家特有の物という様な、これといった何
かがなく、そこは豪邸一般の眺めと何等変わる事はなかった。
やがて二人は長く続いた廊下からやたら広い居間に出た。そこで樹はチラッと上を見て何
かを考える様子で頭を掻いた。しばらくして彼は、何か一言唸ってから、
「親父、俺、今日は疲れたからこれで部屋にあがるわ。じゃあな。」
そう言って、父親の返事を待たずにスタスタと上への階段を上っていった。
「……………………。」
秀治は、しばらく無言で樹の背を見ていたが、一つ溜息をつき、やがて自分も同じ階段を、
息子を追う様にして上っていった。
流雲は汗をかいていた。右手には電子顕微鏡のツマミと大量の汗が握られている。彼は
もう、一時間以上も微動だにせず、ただじっとレンズの中を見つめているのだ。
「……………………。」
流雲は小さく息をした。そのとき動いた彼の唇は、大して動いてないはずなのだが、必要
以上に大きく動いた様に見える。
それから――さらに十数分が経った。彼の額から一滴の汗が落ちると同時に、今までま
るで石化していた様に動かなかった彼の右手が僅かに動いた。顕微鏡の倍率を上げるた
めに。
「……………………。」
流雲は目を凝らした。目に映る物全てを時間をかけてゆっくりと眺めた。しかし、それでも
見つからなかった。今、世界中の医者が探している物が。
「……………………。」
彼の目は、相当に疲れているはずだった。しかし、彼はそれをものともせず、ただひたす
らにミクロの世界の探索にかかる。
「……………………。」
時が流れる。しかし、彼は動じない。だが、研究の能率も上がらない。ただ、時間だけが、
研究室という空間の斥侯の様に流れゆくだけだ。これが、本当に、永遠に続くかの様に思
えた。
それが、研究室に入ってくるまでは。
「…………流雲。」
それまで、一時間以上も殆ど動かなかった流雲の体がいきなりビクッ、とはね上がった。
後ろの声の主が、流雲の肩に手を置いたのだ。
「……大丈夫か、そんなに驚いて? それにどうした、その汗は?
さっきから呼び続けてい
たのだが、聞こえなかったのか?」
「…………父さん?」
流雲は驚いた。講演会に行っていたはずの父親が、知らないうちに自分の真後ろに立っ
ていたからだ。それも、父親の話しようだと、研究室に入ってきてしばらく時間が経っている
らしい。その間、流雲は父親の気配に一切気付かなかったのだ。
「……いつ帰ってきたんですか、父さん?」
「ついさっきだ。樹は疲れたと言って自分の部屋に戻ったよ。まあ、無理もない。予定より二
時間も講演会が長引いたのだからな。」
「二時間……そんなに!?」
流雲は再び驚いて時計を見た。自分が思っているよりもずっと時間が進んでいる。どうや
ら、顕微鏡を覗いていた時の時間感覚があまりなかったらしい。
「もう、こんな時間だったなんて……。」
「何だお前、時間も忘れて研究し続けていたのか。相変わらず熱心だな……それで、一体
どんな研究をしていたのだ?」
「CADの……病原体の調査です。」
「ほう。」
聞いてピクッ、と秀治の眉が僅かにつり上がった。
「それで? キャッドの病原体は発見できたのか?」
返ってくる答は分かっている……それを承知で、秀治は流雲に研究の結果を尋ねた。
そしてまた、流雲も父親がそう思っているのは分かっていた。そうでなくとも、父親の顔に
ありありと書かれている。父親のそういう性格は、流雲は熟知していた。
「いいえ……病原体はおろか、CADの“痕跡”すら見つかりませんでした。昼過ぎから始め
た今日の研究の、全時間を費やしたというのに…………。」
「“痕跡”?」
流雲の言葉に、秀治は首を傾げた。
「病原体があるわけですから、細胞が死んでいくのに対して、それによる何らかの痕跡があ
るはずなんです。しかし、CADに冒されたどの細胞を見ても、ただ細胞が死んでいるだけな
んです。」
「そりゃ、病原体に殺されたんだから、死んでいるだけだろう。」
おかしな事を言うものだと、秀治は薄く笑いながら言った。
「違うんです。殺された“痕跡”が全くないんです。」
「……どういう事だ?」
「つまり、自然に“死んで”いるんです。病原体に“殺された”はずなのに。例えて言うならば
……そう、まるで細胞自体が“老衰”で死んだ様に。普通に死んでいるんです。」
「……………………?」
秀治は、流雲が一体何を言っているのか分からなかった。細胞が殺されたのなら、死ぬ
のは当たり前の事だ。それが自然に死んでいる……?
(……………………?)
流雲の言葉を頭の中で反芻すればするほど、当たり前の事であるこの事に悩む流雲の
気持ちが分からなくなる。
彼は、これは流雲が言葉の表現の仕方の問題だと考えた。どうも東大出以外の人間の
考え方は解らない。何故、物事を自然に考える事ができないのか。自然に“死ぬ”のと、殺
されて“死ぬ”のと、一体どう違うのか。こんな単純な事に不思議がる流雲を、秀治は我が
息子ながら情けなく思った。
「流雲…………。」
「……はい?」
困った様な顔をしている秀治に、「どうしたんですか?」と言わんばかりに流雲は返事を洩
らした。
「キャッドは、我々東大レベルの人間が解明を試みても無理難題に近い難病だ。お前がい
くら努力したところでどうなるものではない。この問題はわれわれ上の者に任せるんだ。」
「しかし……。」
「しかし、何だ?」
流雲の言葉に、秀治はさっきよりも眉をつり上げた。その仕草に、流雲は小さからず肩を
震わせた。
「父さん達に力が及ばなくても……僕も僕なりにCADを攻略してみたいと思うんです。その
事で父さん達に迷惑をかけるという様な事はしませんから……」
「流雲。」
秀治は、流雲の言葉を途中で切った。さっきよりかは幾ほどか強い口調で。
「お前がいくら努力したところでキャッドの謎は解明できん。我々にすら不可能に近い難問
なのだからな。それより、お前にはお前なりにできる事はまだいくらでもあるだろう?やって
も無駄な努力は時間の無駄だ。お前のためにも、キャッドの研究はやめるんだ、いいな?」
「父さん――」
「分かったな、流雲。」
「…………はい。」
秀治に強く押され、流雲は頭を垂れてそう答えた。
自分が父や兄に力が及ばないと思い込んでいる事から、彼等の意見に逆らえないという
コンプレックスを持っているために、自分で考えている事が正しいと分かっていても、それを
父や兄に押し切られると何も言えなくなり、彼等に従ってしまう。それが、流雲の最大の欠
点である。
「よし。私達は明後日にも講演会の予定が入っている。その時までに別の研究材料を見つ
け、講演会から帰ってきた時に私に報告するのだ、いいな?」
言われて流雲は、しばらく黙っていた。唇を噛んで。頭を垂らしたままで。何か自分で言お
うとするが、かすかに唇が動くだけで口から言葉が出てこない。彼は必死で何か言おうとす
るが、自分で言葉を発するよりも早く口が勝手に言葉を紡ぎ出した。
「…………分かりました。」
言いながら流雲は、自分の力のなさを心の底から恨んだ。
流雲の言葉を聞いた秀治は一つ頷き、
「では、私も疲れているからこれで部屋に戻る事にするよ。お前も研究に没頭するのもいい
が、早めに部屋に戻るんだ。今日はもう遅いからな。」
そう言って、秀治は流雲の背中を軽く一つ叩き、研究室から出ていった。
流雲は、開けられたドアの奥から秀治の足音が聞こえなくなるまで頭を垂れたままだった
が、やがて思い出したかの様に頭を上げると、顕微鏡の置いてある研究台をおもいっきり拳
で殴った。
「……くそっ……くそぉっ!」
そう強く独白しながらまた何回か両手で台を叩いたが、しばらくして彼はその手で頭を抱え、
額を台につけて両肩を震わせながら、声にならない声を出し続けた。
静かになった研究室の中を、今ごろ閉まったドアの音が、小さく、鋭く鳴り響いた。
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