真崎の家は、ちょっとした薬局屋だった。それは、大きくもなく、小さくもなしといった感
     じで、ただ一般よりも若干来客が多く感じられた。経営しているのは父親の方で、真崎が
     小学五年の時からも既に薬局屋をやっていた。その頃一度、神薙は西村と一緒に彼女
     の家に遊びに行った事があったのだが、店内薬だらけだった記憶がある。神薙が真崎に
     訊くと、島根にいた時も薬局屋をやっていたらしい。 高校卒業後、東京に越した真崎の
     家が、未だ薬局屋をやっていたのを六年前、神薙が大学一年の時に初めて知った時、
     何かホッとした気分になったのを神薙は覚えている。
      だが、薬局一筋である父親に対し、母親はつい最近まで、薬に対する知識は皆無だと
     いう人間だった。そこで父親がつきっきりで教える事にしたのだが、私立で経営している
     父親は、ちょうど店舗を大きくしたい、それにはより多くの薬を仕入れる必要がある、と考
     えていたのを理由に、母親と全国薬探し歩きの旅に出てしまったのである。
      一年前――真崎が、大学を卒業後、もう少し東京に居たそうな顔をしていた神薙に居
     候を勧める一ヶ月前――が、その発端だった。
     「一ヶ月経っても帰ってこないって事は、どうせ母さんの実家にでも居座ってんでしょ。」
      娘の予想は的中していた。
      薬探し歩きの旅は、確かに薬探しはしていたが、一日探しては遊び、探しては遊びと
     いう、何とも情けない旅と化していたのである。さらにひどい事に、遊ぶ生活にはまった
     両親は一年経った今になっても帰ってこず、娘によこす電話も月に一度あるかないか、
     という状態になってしまっていた。
     「まあ、この十数年間働き続けた父さんはまだいいけど、問題なのは母さんよ。」
      真崎の母親は、一週間に一日はさぼる家事以外は、全くといっていいほど働かなかっ
     た。そんな母親に似ず、娘の奈瀬は見事、しっかり者に育ったのである。
     「これで今頃、かんちゃんがいなかったらどうなってた事か……おっと、こんな事、かんち
     ゃんに聞かれたら、ただじゃ済まないな。」
      真崎にとって神薙の存在は、実はストレス解消以外の何者でもなかった。一方、神薙
     は相手が相手なだけに、現状を“女との同棲”などとはちっとも思っていない(まあ、真崎
     の方も“男との同棲”とは思ってないのだが)。早い話が、神薙は真崎の思惑通りに使わ
     れているのである。ただ、神薙にとっての唯一の利点は、真崎の店にある薬を少々使わ
     せてもらって薬剤研究を行える事だった。
     「こんな生活、一人じゃやってけないもんね。いや〜、かんちゃん様様だなぁ。」
     「かんちゃんが何だって?」
      後ろから声が聞こえたと同時、瞬時にして、真崎の顔が蒼白した。
      後ろを振り向くと、そこには着替え終わって一階に降りてきた神薙の姿があった。 
     「あ、や、やあ、かんちゃん、おはよ♪」
     「何がおはよ♪だ、さっきも言ったじゃねーかよ。」
     「や、やだなあ、挨拶なんて、何回言ってもいいもんじゃない。それもかわいい娘にならな・
     お・さ・ら♪」
     「かわいい娘? どこにいるんだ、そりゃ?」
      神薙は、あたりをキョロキョロ見回す仕草をする。
     「う〜ん……もう、かんちゃんったら、照れちゃって。クスッ♪」
     「あん? さっき、一緒に生活している女にこんな生活やってらんないなんぞとぬかされ
     て照れる男なんているのか?」
      その言葉に、真崎の顔からサァッ、と血の気が引く。
     「い、いい、いや、かんちゃん、あのね、それは…………」
     「それは、何だ?」
     「それは……………………」
     「……言いたい事は、はっきり言えよ。」
     「……かんちゃん。」
     「何だ?」
     「愛してるぜっ!」
      がしっ
      言って真崎は、ベアハッグ(両腕で相手の胴を締め付ける様な技)をきめる感じで神薙
     に抱きついた。
     「うがっ……て……てめ……苦し……!!
     「も〜う、かんちゃんったら……そんなに顔を真っ赤にして照れるなんて……いくらボクが
     かわいいからって……照れ屋さん♪」
      実は、神薙は、真崎のベアハッグが見事にきまりすぎて、顔を赤くするほどもがき苦しん
     でいるだけだったりするのだが。
      だが、無情にも神薙の苦しみを理解していない真崎は、さらに腕に力を込めて、
     「……そんなに照れちゃ、ボク達の愛が分かち合えないじゃない。」
     「……あっ、アホか、おのれはあぁっ!!」
      そう叫びながら、神薙は何とか真崎の呪縛を自力で解いた。
      神薙は、ゼーハーと肩で息をしながら、
     「いきなりおのれは何すんじゃい! 遂に血迷ったか!?」
      そう、神薙に言われて、そういえばある意味そうとも言えるかなー、と一瞬言葉をつまら
     せて、
     「や、やだなぁ……冗談に決まってんじゃん、冗談。アハハハハ。」
     「……たかが冗談で、お前はあんな迫真の演技をするのか?」
      しかし、神薙の言葉に真崎は「んー?」と返しながら、神薙の顔を覗き込んだ。
     「迫真の演技って……て事はかんちゃん、さてはボクの演技に心を奪われたな?」
      ゴスッ
      かなり強く――というより、本気で神薙は真崎の頭を殴りつけた。
     「朝ボケはいいから、とっととメシ食おーぜ、メシ。」
     「うえーん、いったいよぉ。」
     「ボケるのも大概にせんからだ、ボケ。」
     「ボケって分かってんのなら、本気にならなくていいじゃない。」
      真崎の、もっともな意見をあえて神薙は聞こえないふりをして、
     「それはいいから早くメシ。俺を起こしに来たんだから、メシの用意はしてるよな?」
     「んー……。」
      まだ痛む頭をさすりながら、口を尖らせて真崎は、朝食の盛りつけを始めた。
     「あん? 今から盛りつけ?」
     「そうだよぉ、かんちゃん起きるの遅いから、盛りつけした後で起こすと、あったかいご飯
     が食べられないじゃない。」
      そう言いながら真崎は、碗にご飯を盛りつけ、味噌汁の入った鍋の蓋に手を掛ける。
     「……一応、考えてんだな。」
     「何よ、その“一応”ってのは?」
     「いや、別に…………。」
      真崎が運んでくる、盛りつけの済んだ朝食に目をやりながら、神薙はボソッと言った。
     「さって、メシだメシ。」
     「ったく、かんちゃんは幸せだよぉ。こんなかわいい娘に毎日ご飯作ってもらってさ。」
     「何言ってんだよ、お前から居候を勧めてきたんだから、当然の接待だろ。」
     「でも! 食べ終わった後に「ごちそうさま」とか挨拶したりするのは、それ以前の礼儀だ
     よ。いっつも食べ終わったら黙って部屋に戻るんだから、かんちゃんは。」
      そう言って、真崎はムスッとして黙り込んでしまった。そう言われてみると、確かに神薙
     はいつも真崎がしてくれている事――食事の支度だとか、洗濯とか――に対して、慣れ
     すぎてしまって、礼を言うとか何もそんな類の事をした事がないのに気付いた。確かに居
     候を勧められた身であれ、それはして然るべき礼儀である。しばらくの間、二人は黙って
     朝食を食べていたが、神薙は口の中のものを飲み込み、照れくさそうに、
     「……ゴメン、悪かった。俺ンち、母さんがいないから、どうも生活態度がちゃらんぽらん
     になっちまってて……そこまで深く考えた事ってなかったんだ。それに、物心つく前に母
     さんが死んじまったから、あー、母さんがいたら、こんな事やってくれんだなーって、し
     てもらって当然の様に思っちまってたんだ……本当に、悪いな。本来なら、いつもしてい
     てくれる事に対して礼を言うべきなのに。」
      そう言い終えて神薙は、手で頬を掻いた。普段こんな事を考えた事がなかったので、少
     し赤面している。
     「……あ、いや、そんな事急に言われちゃっても……な、何か調子狂っちゃうなぁ。もっと、
     かんちゃんっぽく、いつもの口調で言ってくれればいいのに。」
      言って真崎も、顔を掻いた。そして「あんな事言うなんて、ちょっと言い方が過ぎちゃった
     かな?」と、少し俯いてしまう。何より、先に礼を言うのは、私事で勝手に居候を勧めた真
     崎の方なのである。さっき自分の言った事が自分に返ってきた感じで、真崎は恥ずかしく
     思った。
     「それに……さ。今まで何か言えなかったんだけど……親父も相当、メシ作るのうまいん
     だけど、お前の方がそれよりうまいよ。」
     「や、やめてよ。お世辞なんて、かんちゃんらしくないよ。」
     「いやいや、本当だって。いい母さんになれるよ、お前。」
     「やめてってばぁ。」
      真崎は、さっきの反省に追い打ちをかけられて、顔が真っ赤になってしまった。何せ、こ
     んな事を世の中で一番言いそうにない男に言われたのだ。真崎はとうとう、うつ伏せてし
     まった。
     「もぉ、それ以上言うと、明日からご飯作ってやんないよぉ!」
     「……は? ひょっとしてお前、照れてんのか?お世辞なんかで。」
     「…………………………………………。」
      しばらく、いや多少。もとい、かなりの沈黙。
      真崎は黙って顔を上げた。顔色は既に赤くなく、また、表情もそこから消えている。
     「……どうした?」
      神薙は、雰囲気が一変した真崎に声をかけた。一筋の、冷や汗を頬に滑らせて。
      真崎はゆっくりと、しかし落ち着きとは違う口調で言葉を紡ぐ。
     「……こンの、どアホオォォッ!!」
      ズドゴォッ
      言い終わるが早いか、真崎は神薙をどつき倒していた。
     「かんちゃぁぁんっ!! 世の中には、やっていい事と悪い事があるんだよおぉっ!!
      言いながら、真崎はなおも、倒れて目を回している神薙の襟元を掴んでブンブンと振り
     回す。
     「ま……ま……待てっ、落ち着けっ! 話を聞いてくれ!」
     「聞く話なんてないよっ! 人の気持ちを弄んどいて……!」
     「だ・か・ら! あれは嘘なんだよ、嘘!!」
      脳ミソをとことんシェイクされて、頭上に星が回っている状態になりながらも、何とか発し
     た神薙の言葉に、真崎はようやくその手を止めた。
     「…………嘘?」
     「そうだよ、さっきお前、どうせ言うなら俺っぽく言えって言ったじゃねえか。あのままに
     しておいたらお前、いつまで経っても元に戻らないんじゃないかって思ったし。それにお
     前もさっき、俺に似た様な事やってくれたしな。」
     「……………………。」
      真崎はそれ以上、何も言えなかった。何故、その事が頭の中から消えてしまうほどに
     気が動転してしまったのか。これが神薙以外の男――例えば、昔の友達の西村とか
     ―なら、こな事はなかったのではないか、と胸中で思い始める。
     「さって、分かってくれたところで、メシの続きだ。それから、また少し薬剤研究をさせても
     らって……。」
      再びテーブルにつく神薙の姿を見ながら、真崎はまだ考えていた――と、待てよ?
     崎はふと、そう思った。
     「かんちゃん、そう言えば、さっくんって今、どうしてんだっけ? 広島に残ってんだよね。」
     「さっくんて……冴樹の事か? あいつなら、三年前に大学を出て……いや、院に行って、
     何かの研究にのめり込んだって聞いたな。それから先は……よく分かんねえけど。」
     「ったく、親友でしょ、かんちゃんの? 連絡くらい取ってないの?」
     「んな事言ったって、そんな、いつまでもガキじゃないんだし……あ、そういえばこの一年、
     親父にも一切連絡してなかったっけ。」
     「あっちゃー、この親不孝モンが。」
      涼しげな顔で、しれっと言う神薙の言葉に、真崎は顔に手を当てながら、信じられないと
     いう視線で彼を見つめた。
     「アホ、それこそいつまでもガキじゃないだろが――って、そういえば、お前の両親からの
     連絡って、最近ないよな。前は大抵、一カ月おきにはあったのに。」
     「あれはいいの! もう、ほっとく事にしたから。」
     「……お前も十分親不孝者だなー、自分の親を“あれ”呼ばわりか。」
     「親じゃないよ、あんなの! 薬探しとか言って、結局は遊び呆けてんだもん。」
     「“あれ”の次は“あんなの”…………。」
      神薙は、また一つ真崎の恐ろしい部分を発見したという表情で、真崎を見つめる。まあ
     確かに、この三ヶ月で連絡の一つも来ないと怒りたくもなるのは、神薙も十分思っている
     のだが。
     「いいよ、もう。自宅で一人暮らししていると思えば気が楽になるから。」
     「俺は、抜きかい…………?」
      真崎を恐がって声が小さくなっている神薙をあえて無視して、真崎は手にしているハシ
     を再び動かし始めた。
     「しかし……確かお前の親父って人は、真面目な人な人なんだよな。この前、お前が言
     ってた事だから、間違いないよな?」
      両親の事で怒っている真崎を何とかフォローしようと、多少小声ではあるが、神薙は真
     崎に訊いてみた。
     「……そうだけど?」
     「なら、案外遊んでても手際よく薬を探してるかもしれないぞ。キャリア長いんだろ? だっ
     たら実は、キャッドの治療薬なんて探してたりして……?」
     「うちの父さんなんかが、そんな大それた事するわけないでしょ!」
      ダン! とテーブルを叩きながら、真崎は声を荒らげた。フォローのつもりが、逆に火に
     油をかけてしまったのである。
     「“なんかが”って……。」
     「父さんってば、普段は真面目なくせに、母さんの事となるとすぐ甘くなっちゃうんだから!」
      真崎は、いよいよ本気で怒りだした。ひょっとして言ってはいけない事を言ってしまった
     のかと神薙は頭を掻いていたが、ここは彼女をしばらくそっとしておいた方が一番いいだ
     ろうと、他にも言おうとした事はあったのだが、あえてここはもう言わない事にした。
     「キャッド、か……。俺の親父は、あれに対してどう考えてるんだろうな。」
      まだ、ぶつぶつと愚痴っている真崎には聞こえないよう、神薙は静かに独白した。
 
 
 


 
 
  次のページへ
 
  小説の目次に戻る
 
 
 
TOPに戻る