中川は、一通り診察室の掃除を終えて一息ついていた。椅子に凭れ、机に肘をついて。
     初診にはまだ時間がある。勿論、既にパジャマから着替え終わっている――しかし、一
     息ついているといっても、ただのんびりとしているわけではないらしく、その双眸は、彼に
     とっては珍しく鋭かった。何かこう、難しい考え事でもしているかの様に。
     「…………キャッド、か。」
      かなり長く続いた沈黙を、中川自身のその一言が破った。
     「……多分、司の奴も考えた事はあるだろうな。この、医者と名乗る者全てにとっての、
     最大の壁について。」
      中川の独白には、確信さが感じてとれた。自分の背を見て育った息子は、自分――
     親に憧れて医者の道を選んだのだ。ならば、いくら親子が離ればなれになっているとはい
     え、父親の目指すものについて息子が考えていてもおかしくはない――いや、考えてい
     るはずだと中川は思っていた。
     「俺が謎に思った事全てに関心を持ったからな、あいつは。」
      昔、司は、どんな難問も冷静になって(息子の入試の時の様な例外はあるが)取り組む
     父親に感動して、自分もそれに習って冷静になる様に、自分なりに訓練した時期があった。
     司が他人に比べ口数が少なくなった原因はこれである(ただし、西村はともかく真崎が相
     手だと話はかなり違ってくるが)。彼は、普段から口数を減らして常に何か考えるという生
     活をこの時から始めたのだ。
      それからしばらく、いつも冷静な父親が、患者のかかっている難病の治療法について、
     落ち着かない様子で何日も考え込んだ時があった。それを見て司は、「あの親父に分か
     らない事を、自分が先に解明してやる」と、ライバル意識を燃やして――勿論、当時の司
     に医学のいの字も分かるはずがなかったのだが――冷静な父親を超えてやろうと、幼い
     時から息子はやっきになっていた。
      そして現在、キャッド(CAD)という、日本、いや世界中の医者にとっての大難関を、世
     界中の誰より――すなわち、父親よりも早くクリアしようと思っているに違いない、中川は
     そう思って疑わなかった。
      キャッドというのは、日本語に訳すと“細胞活殺症”――それを英訳してできる単語の頭
     文字が“キャッド”である。これは別名“二十一世紀のエイズ”と呼ばれており、その名の
     通り、症状がエイズに似ているのだ。
      体内の、病原菌に対する一切の免疫がなくなってしまう――七年前にエイズの治療法が
     発見されてから、わずか四年後に似た症状の別病が世間に広まったという事件は、人類
     全てにとっての悪夢再来であった。
      というのが、これはエイズよりも厄介な病気なのである。エイズは“体内の免疫が消失す
     る”ものなのだが、このキャッドはそれに加え、“脳細胞以外の細胞が死に、腐り果てる”
     病なのである。正確に言えば、“細胞が死ぬから免疫がなくなる”のだが、エイズよりも厄
     介な点は“脳細胞は生きているので、体中の細胞が死んでいくときの悲痛・苦しみを感じ
     終えたあげくに絶命する”ところにある。もし、脳細胞も死んでいくのなら、あわよくば――
     という表現は決して適切ではないが――安楽死で済むのだが。
      だが、最も恐ろしいのは、この病は“無差別”に感染する、というところにあった。感染す
     る理由が不明なだけに、完全に無差別的に感染してしまうのである。症状としては、まず
     (大抵)肢体から、そして胴体、頭と、皮膚の色が異様に白くなっていくのである。まるで、
     皮膚が透き通っていく様に――
      それが、いつ、どこで起こるか一切分からない。唐突にやってくる死刑宣告を、現代医
     学を以てすら、防ぐ事はできない。ただ、どちらかといえば、病弱な人間に対して、発病
     の可能性が高い。
      何故、脳細胞以外の細胞が死んでいくのか。
      一体、キャッドの病原体は何なのか。
      そもそも、キャッドは何が原因で起こるのか。
      世界中のあらゆる医者が、初めてキャッドの患者が現れた三年前以来ずっと解明を試
     みているのだが、答えはその一片すらも分からないままなのである。そんな病に倒れ、
     死んでいく人間は、今日になっても後を絶たない。
      三年前、日本で発生して一年足らずで世界に広まった殺人病、キャッド――医者の卵
     である息子がこれについてどう思っているか、父親としては実に興味のあるところだった。
      知識皆無の子供が見よう見まねで父親に対抗していた時から数年が経ち、今度は親
     子が同じ位置から競うのである。その初めての競争において息子がどう思っているか、
     父親が興味を持つのは当然である。
     「今度はハンデはなしだぜ、司……医者としてのキャリアなんぞ、殆ど何の役にも立たな
     いからな……。」
      中川は、静かな診察室の中で、唇を緩ませて一人静かに独白した。
      と、その時だった。病院の入り口の方から、ベルの鳴るのが聞こえた。
     (はて、初診にゃ時間はまだあるし……ひょっとして、急患か?)
      中川は首を傾げつつ、ベルの鳴った方へと向かい――ドアを開けた。
     「君は――?」
      それは、中川が知っている顔だった。
      身長は息子とほぼ同じ、黒の短い前髪を立てて眼鏡をかけたジーンズ姿の青年――
     の親友、西村冴樹である。
     「久しぶりです、おじさん。」
     「ああ、久しぶりだな、西村君。えっと……三年ぶり、だったかな? この前来たのは確か、
     在学中に司がこっちに帰ってきた最後の年だったと思うが……。」
     「はい、そうです……で、その司君ですが、ひょっとしてまだ帰ってきてないんですか?」
      最後の方は声が小さくなってしまった西村の質問に、中川は肩をすくめて答えた。
     「ああ。それどころか、大学卒業以来、一切連絡が入ってきてないんだ。」
     「一切? て事は、その一年間電話もなしなんですか?」
     「ああ、そうだ……ところで、君の方には連絡は入ってないのか?」
      中川の質問に、今度は西村がかぶりを振って答えた。
     「いいえ……ただ、彼が学生時代に住んでいたアパートにはいない、という事くらいしか知
     らなくて……。」
      西村の言葉に、中川は少し驚いた。
     「つまり……引っ越したって事か? 何故君はその事を知っているんだ?」
     「電話したんですよ、司君の所に。一ヶ月ほど前だったかな……。卒業前にも一回したん
     ですけど、その時は卒業しても、しばらく東京に残るって言ってて。どのくらいだ?って
     訊いたら、半年か一年か、まだ分からない様な事言ってました。そして一ヶ月前、電話し
     たら彼の電話番号が現在使われてないって……。だから、ああ、もうこっちに帰ってき
     たのかなって思って来てみたんですが……そうですか、まだ……。」
      そう言い終えて、西村は頭を掻いた。そういえば中川は、息子からの連絡を待つばかり
     で、こっちからは一回も電話をかけた事がなかった。「そういや……」そう思って、中川も一
     緒に頭を掻き始めた。
      二人はしばらく黙っていたが、中川はふと思い出したかの様に、西村に話しかけた。
     「ああ、そうだ。こんな所で話すのもなんだから、中に入ってくれないか。初診にはまだ時
     間があるし、何より君の大学時代の研究の話も聞きたいしな。」
      そう、中川に言われて西村はしばらく考えていたが、
     「そうですか、分かりました。では、しばらくの間お邪魔します。」
      そう言って西村は、中川医院の中へと入っていった。その後を院長がついていき、ゆっ
     くりとドアを閉めた。
      この時から、ゆっくりと。しかし刻々と。平和は終焉を迎えつつあった……。
 
 
 

 
 
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