第1章・平和は終焉を迎えつつあった

     「ヘーックショイッ!」
      大きなくしゃみと同時に、その男は目を覚ました。
      中肉中背で、歳は二十代半ば、最近では珍しい、短めの黒髪が様になる青年である。男は
     のそのそとベッドから降りて、あくびをしながら、パジャマからTシャツに着替え始めた。
      それから、次にズボンを履き替える――と同時に、下からトントン……と階段を上がってくる
     音がする。
     「げ。」
      男は急いでズボンを履こうとするが、あわてるとかえってズボンが曲がってしまい、なかな
     か脚が通ってくれない。
     「クソッ、早くしねえと――
      そうしているうちに、下から聞こえてきた音は男の部屋の前で止まり、それは問答無用で部
     屋の中に入ってきた。
     「かんちゃーん、起きた?」
     「この野郎! 入る時はノックするか声かけるかしろっていつも言ってんだろ!?
     「野郎じゃないもーん、ボク、女の子だもん。」
     「……この、くそアマ…………!!」
      かんちゃんと呼ばれたその男――昨年で二十六になった神薙司は、拳をわななかせた。と
     はいえ、まだズボンを半分しか履いてないので、その姿もどこか間抜けて見えてしまう。
      神薙はハァ、と一つ溜息をつき、
     「大体な……お前、俺の注意を聞いた途端に忘れてんだよ。この前だって、トイレに入る時も
     ノックしろっつったのに、俺が入ってる時、誰かトイレに入ってる〜?って言いながら、ドア
     開けてたじゃねーかよ。ったくよ…………お前、ひょっとして、わざとやってねーか?」
     「そうだよ。」
      ズルッ
      笑いながら言う女の言葉に、神薙はズボンを危うく落としそうになった。
      神薙はしばらく頭をかかえていたが、
     「あーっ! もういいから、とっとと部屋から出てってくれーっ!!」
     「よく言えるなぁ、人ンちに居候しててさ。」
     「お前が勧めたたんだろうが、お前が!?」
     「そうだっけ?」
     「いいから出てけ、早く! でないとテメ、蹴るぞ!」
     「キャー、女の子に暴力ふるう気?」
     「誰が女の子だ、誰が!? 二十六にもなって、“子”なんぞ付けるな!」
     「失礼ね、ボクはまだ二十五ですぅ〜。」
     「何でもいいから出てけ、クソガキ!」
     「ひどーい、一年も歳が違わないのに、クソガキだなんて。」
     「考え方がクソガキ以下だ! ったく……ハァ。わかった。すぐに着替えて下に行くから、お前
     はもう下に降りてろ。な、頼む。」
     「…………わかったよ。」
      少し、面白くないという様な表情を見せて、その女――真崎奈瀬は、階段を降りていった。
 
      真崎は、神薙にとって大学の同期であり、また、小学時代のクラスメートだった――という
     のが、彼等が小学五年の時、島根から越してきた真崎が神薙のいる小学校に転入してきて、
     その上クラスが一緒だったのである。また、神薙の親友・西村冴樹も同じクラスだった。
      しかし、真崎は小学五年が終わると同時に再び島根に越してしまった。
      妙に人懐っこい彼女は、どちらかといえば口数の少ない――というより、人見知りな神薙に
     とって、強烈なまでの存在であった。彼が父・中川並に口をきくのは、当時では親友の西村
     の他には、彼女をおいて誰一人いなかった。
      しかし、口をきくとはいえ、西村に対するそれとはまた違った真崎とは、正直もう会いたくな
     いとまで思っていた。大学で、同期として再び顔を会わせるまでは。
      それほど、神薙は真崎を苦手としていたのである。何といっても彼女が、女なのに自分の
     事を“ボク”なんぞと言った時は自分の耳を疑ったものだ。
      大学で同期になるまでの九年間、二人は全く会った事はなかった。しかし、神薙は真崎の
     強烈な印象を忘れ切る事はできなかった。慶応の入学式で、偶然神薙が真崎を見つけた時
     は、彼の脳裏に九年前の悪夢が瞬時にして蘇り、神薙は思わず見て見ぬふりをして黙って
     帰ろうかと思ったほどだ。
      しかし、その時、真崎の第六感がいつもより鋭かった――かどうかは知らないが、彼女は、
     神薙が彼女の姿から目をそらそうとした直前に、彼の方を振り向いたのだ。
      かくて、運命のいたずらというものは、二人を再び引き合わせたのである…………と、こん
     な言い方をすれば、何か聞こえのいい感じになってしまうのだが、神薙にとっては最悪の事
     態であった。
      あの、恐怖の女が再び目の前に現れた。
      しかも、あの性格は、九年前に別れた当時に比べ――もっと言えば、現在もそうなのだが
     ――、全く変わっていなかった。
      ボーイッシュな、ショートカットの魔女と、六年も顔を付き合わさなければならない……そう
     思うと、神薙は初日っから、退学届を出そうかと、真剣に思い悩んだ。
      思えば、あの時親父の言う事を素直に聞いて、山口大にしておけば良かった……退学届
     を断念した神薙が、次に煩悶したのは、その事についてだった。それでなくとも、現役の時、
     寝坊しないで試験を受けていれば、あいつの一つ上という事で、現状よりマシだったかもし
     れないし、あのアマがもっとバカでもう少し易しい大学を受けていれば……いや、それより、
     何であいつも一浪なんだ……現役で受かった所に行けば、こんな事になってなかったのに
     ――考えれば、現状を妨げる要素はいくらでもあった。しかし、これ以上考えても仕方ない。
     神薙は、この時ほど運命というものを恨んだ事はなかった。
     「しっかし、何であいつが医学部なんだよ。ただの薬局屋の娘なのに。」
      ズボンを履き終わった神薙は、階段を降りながら独白した。
 
 
 


 
 
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