第6章・平和という名の世界

      暗闇があった。
      どこまでも続く、漆黒の空間。久遠の夜に敷かれた、ただ一本の道。
      そこには、彼女の両親がいた。優しい笑顔を持つ父親。愛情という温もりを持つ母親。
      彼女は後ろを振り向いた。幼すぎる、妹の姿。赤子にもなっていない、胎児の姿。
      ふいに、その胎児が姿を消した。暗闇に溶けるように、音もなく消えた。
      彼女は驚愕して、後ろの両親へと振り返った。そして、戦慄する。
      彼女の双眸に映ったのは、焼けただれた両親の姿だった。聞き分けることのできないよ
     うな、小さく、暗い声で何かを呟いている。
      その呟きは、絶叫だった。あるいは、懇願だったかもしれない。眉間にできたしわは裂傷
     となって彼等の顔面から鮮血をほとばしらせ、身体を深紅に染め上げる。
      彼女は走った。どこまでもどこまでも走り続けた。
     (何のために?)
      逃げるために。彼女は本能的にそう叫んだ。
      足が折れるほどに走り続け、力尽きて彼女はその場に倒れ込んだ。
      もう起きれない。乱れる呼吸と鼓動を交互に押しのけながら、彼女は安息の地を求めた。
     永遠に、安らぎに満たされる地を。
      そんな中、一本の手が彼女に差し伸べられた。優しそうな、温もりを持つ男の手。両親
     を懐旧させるようなその手を、最後の力を振り絞ってつかみ──
      見上げると、その手の主は、血塗れになっていた。銀髪を振り乱した、中年の男。
      彼女は悲鳴をあげた。これ以上ない、悲痛の叫びを。
      再び彼女は走り出した。もう逃げ出したい。安息がないというのなら、この『世界』から逃
     げ出したい──
 
      彼は困っていた。
      助け出したのはいいが、その女の子は腕の中で意識を失ってしまった。そうかと思うと、
     今度は苦しそうな顔をして、うなされ続けている。
      崩れ果てた地割れから、彼女を抱えて彼は、外に出てとりあえず横にさせようと考えた。
      そこまではいい。そこまではいいが──
     (……やっぱ、地べたにそのままってのはまずかったかな? 寝心地悪そうだし。)
      ゴツゴツした石がいくつも転がっている足下を一瞥し、頭を掻いて彼は、辺りを見回した。
     すると、発電所の地盤がアスファルトできれいに舗装されているのが見える。
     (お、あそこいい感じ。あっちに移すか。)
      指を鳴らし、彼は女の子を担ぎ上げようとして頭の下に手を伸ばし──
     「──もうやめてぇ────っ!」
     「ぅおわあぁっ!?」
      叫び声と共に、飛び起きた彼女の様子に驚き、彼は後ろ五メートルほど飛び退いた。が、
     あまりの唐突さにバランスを崩してしまい、後頭部から地面へ滑り落ちる。
     「いでででででででっ!」
      その悲鳴に、今度は目覚めた少女──リオが驚いた。見ると、一人の男が頭からスライ
     ディングをしている。それも背面に。
     (…………?)
      怪訝に思い、リオはその場に立ち上がった。そして、気付く。いつの間にか、地下から外
     に出ているではないか。
      ますます訳が分からなくなり、リオは痛みにもがいている男の方へと歩み寄った。
      体型からして、どう見てもあの老人ではない。白い布地に紫の霧がかったような服を纏っ
     たその男には、ちゃんと髪も生えているし、目も黒い。年の頃は二十一、二といった感じで、
     背は兄よりも少し高いだろうか。肩幅の広い、筋肉質の四肢をしている。
     「痛い……痛いぃ……。」
      半泣きのような声を上げて、その男は未だに後頭部を押さえていた。それを見てか彼女
     は、自分の頬も涙で濡れていることに気付く。さっきまで、うなされていたらしい。
      そういった状況を考えると、どうやら彼が助けてくれたようだが──
     「……あの、すいません?」
      恐る恐る、声をかけてみる。
      その声に、ピタッと動きを止めた男の様子に、リオは思わず身を震わせた。後ずさりしそ
     うになるが、何とか踏みとどまる。
      やがて、その男はこちらを振り向いた。兄よりも長い黒の短髪が、似合うようで似合って
     ない。特にこれといった特徴のない顔をしたその男は、しばらくこちらを凝視していたが、
     やがてその場に飛び起きた。
     「……ああ、気が付いたんだ?」
      言って、笑いかけてくる。背中をはたきながら彼は、後を続けた。
     「びっくりしたよ、まさか本当に崩れてくるなんてさ。俺が来てなきゃ、今頃どうなってたか。」
     「……あ、ありがとう、ございます……。」
      話の内容はまだよく分からないが、とにかく彼女は、恩人であるらしい彼に礼を言う。
     「あ、いやゴメン。そんなつもりじゃないんだ。ただ、ここって元々は炭坑だった所でさ、地
     下が空洞になってるんだ。で、空洞に近い部分を何ヶ月か前に破棄したらしいんだけど、
     そこの電気もまだ生きていたらしくって、あの変な爺さんはそれを利用して『ビューア』を使
     っていたようだな。どうやってここを知ったのかは分からないけど。」
     「……あの、あなたは……?」
     「で、これまた原因が分からないけど、ともかくその空洞が崩れたんだ。従って、その上に
     あるものも落ちる。それがつまり、あの爺さんの乗っていた山だったんだ。炭坑は結構深く
     掘っていたらしくてね。そうでなくともあんな爺さんじゃ、もう助からないだろうな。まあ、世
     界征服がどうとかっていう危ないヤツじゃ、死んでもしょうがないけどさ。」
     「……えっと……」
     「それで俺なんだけど、まあどうやらあの爺さんが俺の名を騙っていたようなんだけどさ、
     君の『世界』の掲示板を見て、文字通り飛んできたってわけさ。俺は書いた覚えないのに、
     発信地がうちになってるから、アレ、って思ってね。ここの地下っていうから、ひょっとして
     ……なんて胸騒ぎがしたんだ。来てみて正解だったよ、無事でよかった。」
      そこまで言い切って、彼はようやく息をついたようだった。
     「……そういえば君、何か言いかけてたね? 何か言いたいことでも?」
     「いえ……さすがに、分かってきたので……。」
     苦笑し、うつむきながら応えるリオに、男は首を傾げた。
     「? ……まあいいや。そういえば、自己紹介がまだだったな。」
      あっけらかんとした口調で、今更のように男は言った。
     「俺の名は、アルテ。『世界』じゃスリーユなんて名乗ってる。君は?」
     「……リオ。」
      尻すぼむような、小さな声でリオは自分の名を呟いた。
     「リオか、いい名だな。よろしく。」
      そう言ってアルテは、握手を求めてきた。多少戸惑いながらも、リオは手をその握り返す。
     その様子に彼は、小さく笑みを洩らした。
     「……何か、面白い子だね? 面白いといえばリーゼさんも……って、君は知るわけない
     か。俺の同僚なんだけどさ、普段はつーん、と黙ってるくせに、彼女は一度しゃべりだした
     らもう、ペラペラペラペラとまあ、しゃべるしゃべる……」
     「──って、そういうアンタはデリカシーってのがなさすぎんのよっ!」
      ズカッ!
     「ぐおおぉっ!?」
      突如現れた女の声と、地面に頭を急降下させる男にリオは、もう何度目かの瞠若をした。
      声のした方──つまり、男の背後を見やると、そこにはやはり女がいた。細身の長身で
     エミストよりも長い、風に流れるような黒の髪をした美女。だが、美人というには幼すぎるよ
     うな、碧眼をした童顔の女。
      再び頭を抱える男と似たような格好をしているその女は、呆れるようにため息をついた。
     「全くこの男は……女と話す時くらい、ちょっとは相手のことを考えなさいよね?」
     「ふぁい……。」
      相当痛いのか、つらそうに頭を抑えながら、情けない声で彼は応えた。
     「ほら、何いつまでも小さな女の子の前で醜態さらしてんの? しっかりしなさいよ。」
     (誰のせいなんだろう……?)
     そんな言葉が脳裏をよぎったが、リオにはとても言い出せなかった。
 
 
 


 
 
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