結局リーゼが現れたのは、エレベーターの前だった。
      だったら別に、一気に目的地まで移動してもよかったのだが、あの時はとにかく、あのろ
     くでなしの顔を見たくないということしか考えていなかったのだ。
      未だ最上階で止まっているエレベーターのスイッチを押し、リーゼは中でぐったりとしてし
     まった。もう、このまま眠ってしまいたいくらいに。壁に背を預け、抱きしめるように槍を抱え
     て。
     (次に目が覚める時には……顔の傷も消えてるかしら?)
      ふと、そんなことを考える。そんなことはないはずなのに。自分から動かないと、好転する
     ことはないはずなのに。
     (逃げてんのかな、私。それとも……)
      意識が暗転しかけているところで、ブザー音がそれを妨げる。もう着いてしまったのかと、
     普段はめいっぱい世話になっている科学文明の発達力を、この時だけは恨んだ。目をこす
     り、少しおぼつかない足取りで、何とかエレベーターから歩き出す。
      別館への接続通路を通り過ぎ、そのわきにある階段を下りていく。だが、まだ眠気は覚め
     ず、夢うつつになっているような気がする。
     (……そう、自覚できるってことは、実は目が覚めているってことなのよね。)
      胸中で──いや、実際に苦笑してリーゼは、階段を下りきったところで足早になった。
      とりあえず、ベッドに横になりたい。一時間でも三十分でもいいから、眠りたい。槍を杖の
     ように使いながら、自分の部屋へと曲がり角を曲がろうとして──
     (……………………!)
      とっさに気配を感じ、一気に眠気が覚めてしまった。誰かが駆け足で、こちらに近づいて
     くる。どうしようもなく焦っていそうな、慌てた足音を立てる将軍職といえば、彼女の知って
     いる限り一人しかいない──
     (アルテ!? まさか、部屋に戻っていたなんて?)
      別に、見つかったところで何をされるというわけでもないが、本能的に彼女は、彼と今会
     ったら厄介なことになるだろうと感じた。とはいえ、隠れられそうな場所はどこにもない。空
     間移動をしようにも、意識を集中させられる時間がない。
     (ど、どうしよう……)
      焦っても時間だけが過ぎていき──
      結果、彼女は側にある壁に、大の字になって張り付いた。隣に槍を立てかけて。
      自分でも、バカなことだと思った。この姿を、他の人間に見られたら、目を白くされるだろう。
     いつもは冷静沈着、戦闘時においては感情がなくなっているのではないかとさえ言われて
     いる冷血な常勝将軍が、こんなマヌケな格好をしているなんて知られたら、もうどうすりゃい
     いのよ、絶対あのバカのせいなんだから……
     (…………あれ?)
      怪訝に思い、リーゼは恐る恐る、固く閉じていたまぶたを開けた。そして気付く。
      さっき聞こえてきた足音が、だんだんと遠くなっている。見ると、彼女が今来た道を、相棒
     は既に駆け足で逆戻りしていた。階段を過ぎ、その姿がもう見えなくなってしまったというと
     ころで、思わずその場にへたりこむ。
     (よかった……のかしら、これで?)
      何か現状に釈然としないものを覚えたが、とりあえずはこれで部屋に戻れると、リーゼは
     これでよかったと割り切ることにした。眠気は覚めたのだが、代わりにどっと疲れが出てし
     まった。とにかく横になろうと思い、自分の部屋へと入っていく。
      部屋の中は、相変わらず中途半端に片づけられていた。つまり、リーゼの領域だけが。ア
     ルテも片づけはしているのだが、いつも必ず何かが出しっぱなしにされている。
      持っていた槍を適当な所に置き、仮眠用の(プライベートルームではないので)ベッドに腰
     を掛け、手を上げて、リーゼは一つ背伸びをした。そして、小さく息をつく。指をからめたまま
     の手を凝視しながら、彼女は横になろうとした。
      が、その際にふと、視界に映ったものが気になってしまい、身を起こしてしまった。同時に、
     舌打ちする。眠気が覚めても寝ることはできるが、数少ない「寝る機会」を逃してしまうと、
     なかなか眠りにつくことができないことを思い出したからだ。
      リーゼは、アルテの机へと歩いていき、そこに置かれている妙な機械を目の当たりにした。
     同じものを彼女も持っているが、彼女の場合それはプライベートルームに置いてある。
     (そう、妙よ……飽きっぽいあいつが、一年以上も熱中していられるなんて。)
      実際、その機械──『ビューア』をアルテが購入したいと言った時は、リーゼは大反対し
     た。どうせすぐに飽きるのだから、そんな高価なものを買うのはよせと。だが何度言っても聞
     かない彼の、一ヶ月に渡る説得にさしものリーゼも折れて、仕方なく首を縦に振ったのであ
     った。まあ、結果的に今でもそれを愛用してくれているようなので、あまり文句は言わない
     のだが。
     (……なおかつ、すぐに借金返してくれれば何も言うことはないんだけどね!)
      半眼でそううめき、また舌打ちする。そして願わくば、もう少し大事に扱ってほしいと胸中
     で付け加える。
     (まあ、『頭が悪そうだから、わざわざ配布する必要もないだろう』とか言って、社員の標準
     装備を渡さない、あのケチな老いぼれも老いぼれなんだけど。ホンット、男ってロクなのば
     っかいないんだから。信じらんない。)
      そう毒づきながら、机の椅子を手元に引き、腰を掛ける。
     (全く、電源付けっぱなしで出ていくなんて……どういう了見してるのかしらね。)
      そしてリーゼは電源を切ろうと、キーボードを叩こうとした。が、ふと見慣れない画面に目
     をとめ、手を止める。いつも相棒は、自分の作った『世界』にしか興味はないと思っていたの
     だが、画面に映っているその『世界』は、リーゼが見たことのないものだった。
     (へえ……他の『世界』にも行ったりするのね。)
      意外なことだと、目を丸くする。そういえば、最近自分の『世界』に顔を出していない。
     (……たまには、更新でもしよっか。)
      薄く笑みを浮かべ、悪いと思いながらもリーゼは、相棒のパスワードを引き続き、自分の
     更新に使い始めた。
 
      家を出て、リオは思わず驚愕した。
      暗い、というほどでもないが、すっかり日が暮れてしまっていたのだ。『ビューア』に熱中し
     ていたというのは自覚できるが、そんなに時間感覚が薄れているとは思わなかった。
     (どうしよう……みんな、私の帰りを待っているのかな?)
      だが、父は自分に行けと言ってくれた。ヴァルグは、後は任せろと言ってくれた。今戻れば、
     彼等の気持ちを裏切ってしまうことになる。
      焦燥と困惑を振り払い、リオは『セルフ』にまたがった。そして、車輪の脇に付いているラ
     イトをつける。今からとばせば、何とか夜中までには着けるかもしれない。
     (……でも、もうさすがにあの港からは離れたわよね? そうすると、もう一つの遠い方に行
     かなくちゃいけないのか。確か、貨物の運搬をしてるとか言ってたわよね。)
      だったら、その貨物の中に紛れ込みでもすればいい。プラス思考に考えることにして、リオ
     はペダルをこぎ始めた。ライトは発電機の原理で発光するため、スピードを出すほど光が強
     くなる。
     (発電機──)
      ふと脳裏に浮かんだ、その単語が彼女の記憶を蘇らせた。
     (スリーユ、さん……フォールクヴァングの発電所……)
      発電所は、繁華街の裏道の奥にある。距離でいうと、ここから十分もかからない所だ。
     (ダメ……私にはやらなきゃいけないことがあるのに……でも、人を待たせてそのままなん
     て、そんな夢見の悪いこと……)
      相手の『世界』には行ったことがある。そこの掲示板にも何度か書いたことがあった。今
     から帰って掲示板に今の状況を書いてもいいのだが、いかんせん、それを相手が今すぐに
     見てくれるという保証はない。
     (……………………。)
      とりあえず、状況を説明して日を改めてもらおう。そう考えてリオは、目的地を変えた。
      言い訳なんて考えなかった。内心、会ってみたいという気持ちはあった。だが、それをす
     ぐに振り払える勇気がない。会って、すぐに別れられる自信がない。ひょっとして、自分は
     このままズルズルと逃げていくのではないか?
     (……………………。)
      黙々と、ペダルをこいでいく。静かな、夜の町中を、ただひたすらに過ぎていく。
      町を過ぎ、そこから発電所までの道は、街灯が指し示してくれる。その迷いようのない
     道を、惑いながら彼女は進み──
      そして、やがて彼女は発電所へとやってきた。
      発電所というだけあって、そこは四六時中電灯が灯っている。『セルフ』を止め、ライトが
     消えても周りの様子は昼間のようにはっきりと見て取れた。
     (……………………。)
      首だけを回し、リオはざっと辺りを見回した。所々に「危険」だの「立入禁止」だのという
     看板が見える。が、人の気配は全くない。
     (そういえば……地下で待ってるとかあったっけ……?)
      しかし、その地下も、結局は中に入れない限りは行くことができない。
      迷ったあげく、リオは発電所の周りを一周することにした。ひょっとしたら、どこか入り口を
     開けてくれているかもしれない。
      再びペダルをこぎ、リオは発電所の至る所を観察した。だが、どこも似たようなものであ
      る。大抵が柵で囲まれているか、看板が張られているかのどっちかで──
     「──いたっ、」
      何かにつまづいたのか、ふいに『セルフ』が止まってしまった。慌てふためき、バランスを
     崩してしまうが、何とか『セルフ』から降りて着地する。
      見るとそこに、地面がめくれたような大きな地割れがあった。幸い、瓦礫のようなものに
     つまずいたからよかったものの、もしこの地割れの中に落ちていたなら、ただではすまなか
     っただろう。そう考えるとリオは、思わず身震いしてしまった──
     (──あれ?)
      地割れを覗いて、リオは怪訝に思った。中から光が射している。
      いや、発電所の光を反射して、そう見えたのかもしれない。
      だがどちらにせよ、ここから地下へ潜り込めそうだった。反射しているとすれば、この中に
     そういう「もの」があるはずだ。つまり、人工的に作られた場所に違いない。
      その場に『セルフ』を停めておき、リオは地割れの中へと滑り出した。斜度が緩やかなの
     で、滑り台の要領で下りられる。ここから這い出る時も、そんなに苦労はしないだろう。
      坂を下りきって、リオは胸中で歓声をあげた。
      ズバリ、そこは地下の一室だった。だが、壁は風化したように脆くなって崩れ、一部はま
     るで土砂崩れにあったかのような崩れ方をし、部屋の中に大きな土の山を作っている。そ
     の奥には古ぼけた扉が見える。光は、天井に設置されている電灯が放っていた。
      そんな様子を確かめて、同時に鼓動が急速に激しくなってきた。会えるというのは確かに
     楽しみであり、興味もあるが、相手の人格を全て把握しているというわけでもない。
     (どんな人だろ……お兄ちゃんより、年上なのかな……?)
      足を一歩踏み出すごとに、身体の震えが全身を伝わる。
     (背、高いのかな……恐い人じゃないといいな……。)
      それでも、深呼吸をしながら、部屋の中を進んでいく。
     (でも……音楽が好きな人に悪い人なんていないわよね……?)
      かつての自分の言葉を、自分に言い聞かせるように独白する。
      部屋の中は、当然のことながら静かだった。ただひたすらに、電灯が光を放ち続ける。
      壁の崩れようが気になるが、どうせここだけだろうと扉の方へと歩み寄り──
     「──樹は大地に根を下ろし、」
      その声は、唐突に聞こえた。
     「そして、『世界』を構成する。根は大地の隅々まで広がり、大地の全てを『世界』として吸
     収する。全知全能を手に入れた樹は、更なる『世界』へと根を広げ、宇宙に輝く存在となら
     ん──」
      声の聞こえてきた方へと、リオは視線を向け、瞠若した。そこにいる人間は──
     「ようこそ──我が『世界』へ、『ヴァルキリー』の者よ。」
      折れそうなまでに細い両腕を広げ、彼は芝居がかった口調でそう告げた。
      山の上。いつの間にか現れたその男には、髪がなく、歯もなく、そして生気もなかった。
     ただ、そんな外見からは考えられないような覇気だけが、浸みるように伝わってくる。
      リオは呆然とした。よどむような、緑の双眸を持つ老人。纏う衣服は廃れ、それ以上に皮
     膚が裂傷に侵されている。その男が、自分に向かって言葉を紡いでいる。
      しわがれた声で。見ると身体が凍てつくような表情で。
     「汝に願う。儂と共にこの『世界』を広げ、『下界』を手中に収めんことを。」
      呟くように言い放ち、老人は足下からケースのようなものを取り上げた。
     (『ビューア』! じゃあ、やっぱりこの老人が……)
      その衝撃が身体中を走り、身の毛がよだつような感覚に襲われる。
     「そして、我が『世界』の礎となれ……今、最も『世界』の掌握に近い、『天界』の名を冠する
     組織の男と共に……」
      何が何だか分からない。この老人が何を言っているのかも分からない。
      視界がまっ白になっていた。もう、何がどうなってもいい。ただ、できるなら、ここに来る前
     の自分を取り戻したい──
     「さあ、共に『世界』を手に入れようではないか。『世界樹』の創る偽りのものではなく、宇宙
     の中にわだかまる、真の『世界』を!」
      もう、泣き出したかった。自我を失えるというのなら、喜んでそうしたい。
      リオは、自分の中の何かが、音を立てて崩れていくのを感じた。
      揺れが酷い。残酷なまでに酷い。
      その揺れの中、自分を抱える何かに彼女は身を委ねた。もう楽になりたい。
      それは思いの外、居心地がよかった。心底から安らげるような暖かさがあった。
      その中で彼女は夢に落ちた。地響きと共に、崩れ去る彼の『世界』と共に。
 
 
 


 
 
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