嵐の前の静けさ。
そんな言葉が、二人の脳裏をよぎった。
あるいは、もう既に通り過ぎてしまったのかもしれない。最初は警戒、不安、そして……
油断。そう自覚できるほど、乗り込むのには労を要さなかった。
公園で一休みしてから、彼等はとりあえず、一番手前にあった建物の中へと入っていっ
た。最初はやはり緊張していたものの、だが次第にそれは薄れていき──
そして今は、適当な一室の中でふんぞり返れるまでになっていた。
「おっかしーなー……」
フワフワとして、座り心地のいい大きなソファーに身を預け、頬杖をついてウォードは疑問
を洩らした。眉を寄せ、あまつさえ続ける。
「絶対、おかしすぎるって……」
「ホント、おかしいわねー。」
腰に手を当て、小さく息をついてエミストもそう呟いた。
「だろ? エミストもそう思うだろ?」
「あなたのそう、敵がいないって知った途端、この上なくだらけられるその性格は一体どう
なってるのかしらねー……。」
「……悪かったな、ふんぞり返ってて。」
半眼でウォードがぼやく。が、エミストはすぐに真顔に戻って、
「でも、確かに変ね。ここまで兵士がいないとなると、ここの運営なんてできたものじゃない
はずなのに。」
「ああ、やっぱいつもこうってわけじゃなさそうだな。今日が何か、特別な日だってことでもあ
るんだろうか……ほら、ここに来る前、橋の下にいた時を思い出してみろよ。あの時兵士達
はこう言ってたぜ。『今日はたまたまただの見回りだが……』ってさ。」
言ってウォードは、その場に立ち上がった。そして目の前にある、テーブルの上の灰皿を
手にしてみる。銀製らしきその灰皿は、天井の明かりを受けて眩い光を放っている。
「これだって見てみろよ、灰一つついてねえ。おそらくここ、会議室か何かだと思うんだけど、
そこにある灰皿がちっとも汚れてないってことは、とっくに昼を過ぎたってのに今日はまだ
誰もここを使ってない──」
そこまで言って、彼はエミストへと目を向けた。だが、彼女はこちらを見ておらず、呆けた
ようにただ、空間の一点を見つめるように佇んでいる。
顔に表情はない。目に光もない。ただひたすら、視線を中に漂わせている。
「何だ何だ、一体どうしたってんだ?」
「……ウォード、」
こちらに振り向きはせず、そのままの体勢でエミストが呼んでくる。
その時ウォードは、彼女が少し震えて見えた。
「……何だよ?」
「さっき……橋の下にいた時、って言ったわよね? 兵士達が何か言ってたって。」
「ああ、覚えてないのか?」
「覚えてる、覚えてるけど……ウォード、一つ訊いてもいい?」
「あん?」
「『今日はたまたま……』って言った後の、次のセリフ、覚えてる?」
「えっ……と、待てよ。確か子供がどうとか言ってて……」
灰皿を手の中で弄びながら、小さくうなって彼は天井を見上げた。そしてふと、この建物
の外見を思い出す。数あるビルの中で、確かかなり小さいものだったとは思うが、それでも
高さは十階以上はあったはずだ。つまり、単純に考えると、このフロアの高さに階数をかけ
てやれば、この建物の大体の高さも分かるはずだ。逆に言えば、このフロアの高さが階数
分あるわけだが、それにしても天井の高さが自分の家のそれよりも遥かに高い──
(──あん?)
と、彼は半ばそんなことを考えて、それが彼女との話と、かなりずれていることにようやく
気が付いた。話の内容を思い出そうとするが、どうも忘れてしまったらしい。
「……わりぃ、思い出せない。」
本当は考えてないだけなのだが、まあ思い出せたところでどうといったことでもないだろう
と、ウォードは笑ってごまかそうとした。
だが、それに対するエミストの反応は、思いのほか真剣なものだった。飛びつくように近
寄り、そしてすがるにしてこちらを見上げてくる。
「本当に? 本当に覚えてないの?」
「え、あ、いや、うん。」
そんな彼女に驚愕し、ウォードはとりあえずうなずいた。言い逃れをしながら、さっき言わ
れたことを密かに思い出す。
「えと、そのー、何だ。お前は一体、何て言ったと記憶してるんだ? その兵士は。」
「自信がないの。だからあなたの記憶と照合したいのよ。嘘であってほしい……けど、もし
そうだとしても、言ってしまったら現実になりそうで……」
錯乱こそはしていないが、明らかに焦燥はしている。そんなもの、誰が見たってそう思う
だろうが、彼女がここまで取り乱すのは珍しい。
「それでも、言ってくれなきゃ分からないだろ。俺が覚えていたとしても、どうやって照合す
るってんだよ?」
「……そうよね、」
言われてエミストは、小さくうなずいた。続けて、一つ小さく深呼吸する。
それからしばらく、黙ってうつむいていたが、やがて彼女は顔を上げた。
「あいつらは……『討伐隊が編成された』って、言ってたわ。」
「何の?」
「それは言ってなかったと思う。ただ、『子供で思い出したけど』って。だから、ひょっとして
私達のことかと思って……」
だが、それに対してウォードはあまり関心を持たなかった。少し考える素振りを見せて、
「うーん……まあ、そう言ってたとしてもさ。確かに『ヴァルキリー』には子供がいるけど、他
にもそういう団体があるかもしれないじゃないか。俺達も知らないようなさ?」
「……そうかしら。」
「そうだよ。だから『ヴァルキリー』が攻め込まれたってことにすぐ結びつけるのも、どうかと
思うぜ。万が一、そうだとしても今更俺達が戻ったところで、どうしようもないよ。今、俺達が
やるべきことは、ここの浮遊魔道具を探し出すことなんだから。」
エミストは、ただ黙ってウォードの言葉を聞いていた。そして、ただ黙って彼の瞳を見つめ
返していた。それだけしか見えないくらいに。視界にあるはずの、ソファーやらテーブルやら
に気付かないくらいに。
しばらくして、彼女はゆっくりときびすを返した。彼女の後を追うように、長い髪が流れるよ
うに宙を舞う。
「……確かにね。あなたの言う通り、少し神経質になってたみたい。」
「まったくなぁ。いつもは冷静沈着、頭脳明晰な軍師殿も、心配性だけが唯一の弱点なんだ
よな。」
「何言ってんのよ。あなたのその、何でも楽観的になれる性質ってのも、立派な短所の一
つなんだから。」
「長所って言ってくれよ〜。」
照れるように頭を掻いて、ウォードは持っていた灰皿を、テーブルに置こうとして身をかが
めた。と、その時──
「…………?」
眉をひそめて、ウォードは再び立ち上がった。見ると、エミストもどうやら同じことを感じた
らしい。同時に部屋の出入り口へと視線を向ける。
「聞こえた……よな?」
「私達の声を聞きつけたのかしら……とにかく、隠れなくっちゃね。」
そう言って適当に部屋を見回し、とりあえず一番近くにあったドアの中に隠れることにした。
そして、静かに聞き耳を立てる。
しばらくして、足音が部屋に入ってきた。どうやら二人組らしい──
『……ほら、やっぱりいないだろ?』
いきなり聞こえた、若い男の声に二人は思わずドキッとした。
『見回りなんて、そもそも無駄なことなんだよな。それも今日といったらなおさらだ。』
『どういうことだ?』
さっきとは別の、しかしこれも若い男の声が聞き返した。
『お前、何も知らないのか? アルフヘイムの支社ができたんだろうがよ。』
『あっ、あれって今日だったっけ?』
『ああ、アースガルドのどんな社員でも雇ってくれるってもんで、みんな行っちまいやがった
……あそこなら、確かに発展しそうだからな。』
『アルフヘイムったら、世界第三首都だろ。当然だろうな、そんなこと。』
『第一、ハナっから兵士出願でここに入ってきたのって、一割もいないんだよな。もとはとい
えば、機械に興味があって来たヤツがほとんどだからな。』
『……あとは給料のよさ、ってか。』
『そういうことだ。あの石頭の社長がおっ死ねば、アルフヘイムに本社が移るのは時間の
問題だろうな。』
『あーあ、早くここから抜け出してーよなー。』
『それも時間の問題だ。本社に社員がいなくなれば、仕事のしようもなくなるさ……』
足音が十分遠くなるのを確認して、二人は静かに(トイレの)ドアを開けた。
そして、互いに見合わせる。もちろん、疑問の色を浮かべた顔で。
「……どういうことだ?」
「つまり、サボってたってわけじゃなく、逃げ出していたってこと?」
「同じことさ。それより……こうなると、ここを落とすってことに意味あんのか?」
「……………………。」
しばらく、いや、かなり長い沈黙。
二人は黙っていた。これ以上ないというほど黙っていた。
「……とりあえず、別の所……行くか?」
もう二度と来ないであろうこの部屋にとって、その言葉は置き土産には違いなかった。
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