橋は、十分とかからぬうちに架かり終えた。
      赤と黄色の、燃えるような色彩をしたその天空に架かる橋は、地上の駅と天空の城とを
     繋げ終えると、しばらくして機械仕掛けの足場が動き始めた。アースガルドからこちらへ下
     りてきた足場は、そのまま橋の裏へとまわってアースガルドへと戻っていく。
      兵士のまだいない、今から橋の裏にまわってもいいのだが、向こうに着く直前に橋の動き
     を止めなければならない。その止め方を知らない以上、迂闊に乗り込むことはできないのだ。
     裏から橋の上に上るためには、こちらに来る全ての兵士が橋に乗り切るのを見届けてから
     でないとならない。それに関しては、橋の裏に面した物陰に隠れた仲間から合図が送られ
     ることになっている。
      何にしろ、とりあえずは準備の整った状態で作戦は開始された。橋が動き出すと同時に、
     子供達が駅の構内で、所狭しと遊び始める声が聞こえてくる。
      それから四、五分たった頃だろうか。さも迷惑そうな、中年男の声が駅の中に響いた。
     「こるぁーっ! ガキ共が、こんな所で遊ぶんじゃない!」
     「え〜っ、何で??」
     「ここ、おじさんちなの? あたしたち、ふほーしんにゅーしゃだとでもいうわけ?」
     「うぬぬ、ませガキ共め、小生意気なことぬかしおってぇぇ。」
      両手をわなわなと──実際、見えているわけではないが、はっきりと様子が目に浮かぶ
     ──させながら、その中年兵士がうめく。
      と、そうこうしているうちに、新手の兵士がやってきたらしい。若干若い声が、会話に混じ
     ってくる。
     「──どうしました?」
     「ぬぅ、このガキ共が橋の辺りで遊び呆けておるのだ。」
     「ふーむ、でもまあ、無視して構わないでしょう。向こうの地点と違ってここでは、貨物の運
     搬はしませんからね。」
     「しかし、代わりにここは、侵略兵の出入り口だぞ。今日はたまたまただの見回りだが、明
     日からはここで遊ばせておくわけいもいかんだろう? いくら何でも、こんな子供を殺すなん
     て夢見の悪いことはしたくないし、させたくもないからな。」
     「そうそう、子供で思い出しましたが、例の討伐隊、今朝方編成されたそうですよ──」
      そこで、彼等の会話は途切れた。
      何が起こったかはすぐに分かったし、こうなることもある程度、予測はついていた。だが、
     実際に起こってみるとエミストは、頭を抱えずにはいられなかった。
     「はぁい。」
      まぎれもない、リオである。恐らく、彼女愛用の『チャージ』を携えて。
     「あまりにも遅いから、迎えに来ちゃった♪」
     「んん、誰だ、お前はぁ?」
     「こ……こいつ、あのレジスタンスの、いつも戦車とかブッ壊す壊し屋だ!」
     「そゆことー。」
      返事と同時に、撃ったらしい。どちらかは知らないが、ドサッと倒れ込む音がする。
     「ちなみに今日の『チャージ』は、二日酔いになる効果があるのよ♪」
     「そんなふざけたモンでやられてたまるかぁぁっ!」
      どうやら、若い方が撃たれたようだ。中年の男が、続いて叫ぶ。
     「こうなったら、日頃の恨み、ここで晴らしてくれる! おーい、ここに敵がいるぞ、みんな急
     いでくれぇ!」
     「まぁ、か弱い女の子に何人も連れてくるだなんて。多勢に無勢だわ。ボク達、ここは危険
     だからお姉ちゃんと一緒に逃げよ。」
     「うん、そーする。」
     「じゅんすいなあたしにへーしだなんて。めーよきそんだわ、うったえなくちゃ。」
      わざとらしい悲鳴と共に、階段を下りる音がする。その後を、中年兵士を先頭に、何人か
     の兵士が追っていく。
     (……あれで全部かしら?)
      半分顔を出してその様子を見るエミストは、続いて例の合図をする仲間の方を見やった。
      手で大きく輪を作っている。どうやら、行っていいらしい。
     「よし、行きましょ、ウォード。」
      橋の裏へは、もちろん駅の裏をよじ登らなければならないのだが、幸い故障時のことを考
     えてか、そこにはあらかじめ、はしごが設置してあった。それを使い、難なく橋の裏まで登り
     切る。
      それから彼等は、やや長めの、丈夫なロープの両端に鉤爪をつけたものを取り出すと、ア
     ースガルドへと戻っていく足場に、その鉤を掛けた。そしてそのまま、ブランコのようにロー
     プに腰掛ける。
      隣同士、無事に事を進めたことを確かめて、二人はホッと息をついた。
     「何とかなったわね。」
     「ちょっと、ケツが痛いけどな。」
      たまにガンガン……という、真上からの足場が響く音が聞こえるところからして、どうやら
     まだ何人かの兵士は橋を渡っている最中らしい。だが要は、橋を渡る兵士の全員が、橋に
     “乗り切って”しまえばいいのである。橋の裏から身を乗り出す際に、兵士と鉢合わせにな
     らなければいいのだから。
      そして、橋の中央辺りを過ぎてからは、もうその音も聞こえなくなった。
     「そういえば……この橋、どうやって止めるんだ?」
     「子供の何人かをまた橋で遊ばせて、兵士に止めさせるのよ。ちょっと危険だろうけど、さっ
     き駅で兵士の話を聞いたとこだと、どうやら向こうも子供を殺すようなことはしたくないみた
     いだし。」
     「虎穴に入らずんば虎子を得ず、か……。」
      尻の位置を少しずらしながら、ウォードは呟いた。ついでに、ちょっと下を見てみる。
      足下から下まで──五、六十メートル強はある距離──は、何もない、ただの空間だ。足
     で踏みしめることもできない。もちろん、ここから落ちれば下、つまり海まで瞬間移動するこ
     とになる。重力に抗うことができれば、話は別だが。
      特に高所恐怖症ということもないのだが、さすがにその高さに圧倒され、ウォードは思わ
     ず生唾を飲んだ。身体が海に吸い込まれそうな感覚にすら、陥る。
     「お、おい、エミスト……下、恐ろしく凄いぞ。な、なかなか見れる景色じゃない。」
     「恐ろしいのなら、見なけれりゃいいじゃない。」
     「い、いや、そう言われても……。」
      恐いもの見たさっていうだろ、という言葉は、口から出すことはできなかった。いよいよもっ
     て足がすくんできたのだ。そうならなおさら、彼女の言う通り下を見なければいいのだが、ど
     うしても視線が下の方へといってしまう。
      ウォードは体をすくませながらも、何とか前を向いた。あと二分もすれば、アースガルドに
     着くだろう。その前にこの動きを止めなければ、壁に激突して、それこそ本当に墜落しかね
     ない。
     「も、もうすぐ着くな……みんな、ちゃんとやってくれてるかな。こ、こっち見ながら子供達に
     合図とか送ってんだろな……そろそろ止めてくんないと、ほ、ホントに落ちちゃうかもしれな
     いからな……。」
      何とも尻しぼみした、頼りない声でウォードはうめいた。そして、後ろを見る。
      下を見るより、そっちの方が恐くないかとエミストが訊こうとしたその瞬間、ウォードは即座
     に前を向いた。背筋も伸ばし、ただ今までの表情が、まるっきり消えていた。双眸に光はな
     く、代わりに冷や汗のようなものが彼の頬を、次から次へと伝っていく。
     「……どうしたの?」
      怪訝に思い、エミストは首を傾げた。
     「……ゴメン、エミスト。」
     「え?」
     「何か……ひょっとしたら……いや、多分……というか、気のせいだといいんだけど……た
     またまこっちを見た兵士と、目が合っちゃったような気がしないかなってこともないこともない
     んだけど。」
     「大丈夫よ、二百メートルは離れているんだから。顔なんてそう見えやしないわよ。」
     「そ、そうだよな、よほど目がよくなきゃな。姿だけが見えたところで問題なんて……」
      キリキリ……と、足場を動かすベルトの軋むような音だけが、しばらく響きわたる。
     『大アリじゃないっ!?』
      気が付くと、互いに顔を見合わせて、そう叫んでいた。
      二人が後ろを振り向くと、さっきまで散々に散らばっていた兵士達が、駅に向かって収束
     してきていた。その後をリオや大人達が(さすがに子供達は逃げたらしい)追っていっている
     が、何人かは既に駅に入り込んだようだ。
     「ど、どうしよう?」
     「……とりあえずここは、リオ達に任せるしかないわね。」
      唇を噛みながら、エミストがうめく。後ろを見ながらも、アースガルドの方から兵士が来ない
     かと、そちらと駅と、両方に注意を向ける。
      と、急にそのアースガルドが拡大した──ように見えた。同時に、身体がロープから振り
     落とされそうになる。
     「なっ、す……スピードが上がった!?」
     (その手があったか……!)
      正直、これはエミストの予想外だった。てっきり、直接兵士が手を下しにくるものとばかり
     思っていたのだが、どうやら駅の兵士は、自分達を壁に激突させようと考えたらしい。
     「ぶっ、ぶつかる──!」
      壁との距離が、みるみる狭まってくる。このままでは激突は必至だ──
     (両手で同時にやると、かなり疲れるんだけど……仕方ないわね……。)
      覚悟を決めて、エミストは素早く両足の靴を脱いだ。それを片手に持ちながら、
     「ウォード、私の身体を抑えてて!」
     「え、な、何で?」
     「いいから、早く!」
      言われるままに、ウォードは右手でエミストの身体を抑えた。そして彼女は、靴を両手に
     一つずつ持つと、目をきつく閉じた。
      その瞬間、両手に持っていた靴が、一瞬光を放ったかのようにウォードには見えた。その
     光がおさまったかと思うと、その靴の片方を胸元に突きつけられる。
     「さあ、早くこの靴に足を乗せて!」
     「この靴を足に乗せ……いや、違った……え?」
     「早く! ロープから離れて!」
      わけが分からず、ウォードはとりあえずエミストと同じことをやってみせた。スカイボードの
     ような感覚で彼女の靴に体重を乗せ、ロープから横に飛び降りる。一瞬、身体が沈むが、
     靴の浮力が重力から押し戻す──
     「飛べぇっ!」
      彼女の叫び声が呪文のように響きわたり、結果二人はアースガルドの壁を飛び越えた。
     体勢を崩しながらも何とか着地すると、そこには三人の兵士が橋の乗り場を塞ぐようにして
     佇んでいた。驚愕の表情を浮かべながら。
      そしてそこからは、ウォードの出番だった。とりあえず一番身近にいた兵士の手をつかみ、
     肘が内側に向くようにして思いっきりそれを外側に回す。相手の短い悲鳴を背にして、今度
     は襲いかかってくる兵士に対し、避ける代わりに身を少しかがめて半歩ほど前に踏み込み、
     水月に拳をのめり込ませる。
      そして、相手が気絶するのを確認もせずに、最後の兵士と対峙しようとして──
      探してみたら、その時は既にエミストが『巫術』で沈めた後だった。
      ウォードは目を丸くした──というより、呆れたというような表情を見せた。
     「せっかく、挽回の場面だってのに……俺にへこんだままでいろっての?」
     「ゴメンね、そんなつもりじゃなかったんだけど……でも、二人ものしてしまえば、十分でしょ?」
     「そうかなぁ……。」
      頭を掻いて、ウォードはそう呟いた。そして、辺りを見渡す。
      そこは、地上と同様、駅だった。構造さえも、地上のものとほぼ一致している。アースガル
     ドへと下りる階段だけが、比べてみるとやや段数が少ないようだ。
      そこから少し顔を出して、アースガルドの様子を見る。思ったより広く感じる。第一印象が
     まず、それだ。何人かの兵士が歩いているが、フォールクヴァングの町並みを歩く人の数と
     比べるとそれほど多くの人数はいない。綺麗に敷き詰められた石絨毯が広がり、その真ん
     中には公園のようなものが見えた。噴水まである。そして(太陽の位置から見て)北の方角
     に集まるように、いくつもの高層ビルが建ち並んでいる。それに囲まれるようにひときわ大き
     なビルがあり、さらにその後ろに、淡く青に輝く水晶の塔がそびえている。
     「ここが敵の本拠地か……けど、見張りが少ないってのはお前の言った通りだったな。」
     「まあね、地上の駅の見張りがいないくらいなんだから、当然みたいなものよね。でも、ここ
     のボスはよほど、人徳がないのかしら。兵士がサボってるんだから。それとも、ただ単に人
     材派遣をケチってるの?」
     「まあ、そんなことはどうでもいいさ。とっとと服を剥いで、ふんじばっちまおうぜ。」
     「それもそうね。ただ、その前に靴をはき直さないと。」
      肩をすくめてエミストは、そう言って自分の靴を拾い始めた。
      さっき彼女が使ったのが『魔術』であり、物体を媒体にして魔力を発揮する。『魔術』によっ
     て魔力を込められた物体は、さっきの靴のようにその効力を発揮し、使用することができる。
     その効力は、当然ながら術者が魔力を練る時の構造による。
      ただ、よく『魔術』を使った物体と『魔道具』を同一視する者がいるが、そうではない。『魔道
     具』とは魔力を機動力とする“機械”であるが、『魔術』のは無理矢理に効力を備わせられた、
     ごく普通の“物体”である。よって『魔術』で魔力を込めた物体は、魔力が切れるとその効力
     が消えてしまい、もとの単なる物体に戻ってしまう。
      自分の体型に合っているものを選び、二人は兵士の軍服を剥がし、それを着込んだ。そし
     て、ベレー帽を深々と被る。ふと、靴も揃えなければならないのかと思ったが、どうやらそれ
     は人それぞれのようなので、そのままにしておいた。
      それからエミストは、橋からの脱出の際に持ってきたのか、さっきまで使っていた鉤爪付き
     のロープで兵士達を縛り上げた。ついでに、彼等を『巫術』で眠らせてやる。
     「地上の方は……大丈夫かな?」
     「リオ達が何とかやってくれるわよ。さ、行きましょ。」
      二人は、とりあえず変に怪しまれないようにと、ゆっくりとした歩調で駅から出た。
      ──だが、
     「──おい、そこの二人。何をしている!」
      と、しばらくも歩かないうちに、いきなり一人の兵士に声をかけられてしまった。
      一気に激しくなる動悸を必死に抑えつつ、ウォードは頭だけをそちらに向けた。
     「……な、何か?」
     「何かではないだろう? なぜ自分の持ち場を離れる?」
     「いえ……その、交代の時間でして……」
     「そうか? 次の時間帯の奴等が駅に向かった様子はなかったが。本当だろうな?」
     「は、はい……」
      ほとんど、泣きたい思いで彼は応えた。鼓動がどんどん早くなる。
      もうだめだ、とウォードが思った瞬間、隣のエミストが一歩、前に出た。そして、もともと低い
     声をさらに低くして、
     「……そう不思議に思うのでしたら、実際に見に行ってみてはどうですか?」
      そのセリフを聞いた途端、ウォードの心臓は爆発しそうになった。だが、エミストは全く動じ
     ない様子で、目の前の兵士の顔を見上げている。
      しばらくそうしているうちに、しかしその兵士は舌打ちし、頭を掻いた。
     「……分かったよ、駅の見張りは、俺の管轄外だ。邪魔して悪かったな。」
      そしてそう言い残し、その場を去っていった。
      わけが分からず、だが助かったことには違いないと、ウォードはその場にへたり込んでしま
     った。そして、深くため息をつく。気が付くと、顔や手には大量の汗をかいていた。
      一方、エミストは黙ったままだったが、兵士がある程度離れたのを確かめると、ウォードの
     手をつかんだ。そして立ち上がらせる。
     「……大丈夫?」
     「あ、ああ、大丈夫だけど……たまたまあの兵士は引き下がったけど、何であんなこと言っ
     たんだよ? もし本当に駅の中に入っていってたら、どうしてたのさ?」
     「簡単よ、後ろからついていって、さっきのように動けなくさせりゃいいじゃない。」
     「やられたらどうすんだよ?」
     「やられると思う? ついさっき、三人相手に楽勝だったのに。」
      そう言われ、息まで切らせて言い寄ってきていたウォードの言葉が、プツリと切れた。そし
     てしばらく、考え込む。
     「……そういや、そう、だよな……。」
     「今、一番大事なのは平常心よ。焦れば焦るほど、怪しまれるし、冷静な態度もとれない。
     逆に落ち着いていれば、さっきのように簡単に追い返すこともできるし。」
     「追い返す?」
     「さっき、言ったでしょ。ここの兵士ってサボってんじゃないかって。あの兵士、駅の中に入
     ってもし見張りがいなかったら、代わりに自分がやらなきゃいけないと思ったのよ、きっと。
     もちろん、私達も連れてだろうけど。」
      ウォードはなるほど、とあごをさすった。言われてみれば、そうかもしれない。
     「それで……今度からは、対応は全部あなたがやってね。ガラガラ声出すのって、慣れて
     ないし、のどが痛むから。」
     「ま、いいけど……その前に、顔を見られて怪しまれないかな?」
     「大丈夫よ、きっと。何千人っている兵士の顔を全部覚えているヤツなんていないでしょう
     し。まあ、私の髪は──」
      言って、自分の髪に目をやる。少し茶の入った、自慢の長い髪が、そよ風に吹かれて静
     かにたなびく。
     「──これも、大丈夫だと思うわ。中には、長髪の兵士だっているだろうし。まあ、女兵士
     がいるかどうかは分かんないけど。」
      ベレー帽に手をやって、彼女は薄く笑ってみせた。そして帽子のつばを下げる。
     「ちょっと休みましょ。立て続けに魔法使ったり、緊張しちゃったりで疲れちゃった。あの噴
     水の辺りで一休みしない?」
     「……何だ、やっぱお前も緊張してたんだ?」
     「当たり前でしょ、私だって人間なんだから。ま、どっかの誰かさんみたいに、冷や汗びっし
     ょりかくほどでもないけど〜?」
     「……言ったな、コイツ。」
      苦笑混じりに、そう呟いてウォードは、その噴水──公園らしきものへと足を向けた。
      こんな極悪な連中に、こんな大そうな公園が必要あるのかと思えるほど、それは大きく、
     立派だった。付け加えれば、噴水の大きさも凄いものである。フォールクヴァングの大公園
     にすら、こんな大きな噴水はない。かなりの広範囲に広がる、隅々まで手入れの行き届い
     た芝生や、七色に咲き乱れる花々は、どう見てもアースガルドという軍事団体には似つか
     わしくないものである。
      そんな景色を素直に美しいと思えるような、美徳を持つ人間がこんな所にいるのかね、と
     二人が訝っているところに、唐突に噴水の裏から一人の男が現れた。
      これがなぜ、唐突なのか──というと、まずその男は、走ってきたのだ。それも呼吸の
     乱れからして、かなり長い間走ってきているようである。そして、身体が大きい。とはいって
     も背丈は、ウォードより若干高い程度だが、いかんせん肉付きが違う。ウォードもエミストも、
     体格は細目だから彼と比べて違うと思うのは当然なのだが、『ヴァルキリー』の男達と比べ
     ても彼の方が一回り大きく見えるだろう。
      さらに、彼と今まで見てきた兵士達との、決定的な違いが服装である。胸元に付いている
     紋章のようなものはそのままだが、紫一色な、ウォード達が着ている一般兵のものに対し、
     その男のは白い布地に紫が霧がかったようなものだった。ベレー帽は被っておらず、黒の
     短髪がむき出しになっている。
      何にしろ、目の前に立っているその男が将軍職であることを、二人はすぐに知ることがで
     きた。ついさっき言ったことも忘れ、鋭い緊張感が身体を走る。
      しかしその男は、二人が驚くのもよそに、その姿を認めるが早いか、汗を拭い、息を切ら
     せてこちらに駆け寄ってきた。そして頭を掻き、申し訳なさそうな顔をしてくる。
     「あのさ。お前ら、リーゼさん見なかったか?」
     『……は?』
      もし今のこの状況を、近い未来思い出話として話す時があるならば、この時ほど間抜けな
     声は出さなかっただろうというような声を、二人はハモらせた。
     「……何だ、リーゼさんを知らないのか? 有名なんだぞ?」
      眉をひそめるその男の言葉に、二人は顔を見合わせた。どうやら怪しまれてはいないよう
     だが、何と応えていいのか分からない。だが黙っているうちに、その男はさらに話を続けて
     くる。
     「うちの社長の娘さんだぜ? まあ、性格が似ても似つかないから、分かんなくってもそう不
     思議じゃないけどな。」
     「娘……スルトゥルの!?」
      瞠若して、ウォードが叫ぶ──と同時に、ハッとする。だが、その様子を見て、男はハハ、
     と軽く笑って、
     「何だ、社長を呼び捨てにしちまってマズいとでも思ったのか? いいんだよ、そんなこと。
     俺もあのおっさん嫌いだしよ。平気な面して何人も人を殺しているようなヤツさ。だが、その
     娘であるリーゼさんは、一人も殺したことがないんだ。立派だろ? おっと、ついでに言っと
     くが、将軍職で人を殺したことのないのは二人だけ。彼女とこの俺さ。覚えといてくれよ?」
      こちらを指さして、顔を覗き込んでくる。いまいち話についていけないが、ウォードはとりあ
     えず頷いて応えることにした。それを見て男は、満足げに頷き返し、
     「よしよし、お前は優秀だな。本当の優秀さというのは、何も敵をどれだけ倒したかとか、そ
     ういったことじゃないからな。どれだけ給料をもらえるかってことでもない。」
      そして男は、きびすを返した。
     「リーゼさんは、黒くて長い髪と、澄んだ青い目をした背の高い人だから、すぐに分かるさ。
     髪の長さは、その女の子より少し長いくらいかな? 見つけたら俺に教えてくれよ。じゃあ
     な。」
      そう言い残し、彼はまた、公園の中へと消えていった。
      二人はただ、黙って佇んだままだった。一人で勝手に話し続け、勝手に切り上げて去って
     いく男の背を見つめて。
     (身勝手というか、脳天気というか……それともただの、アホなのか……いや、天然なのか
     な? でも、エミストのことは見抜いてたし……)
      涼しい風が吹き抜けていく。ひょっとしたら、あの男は風じゃなかったのだろうかと、二人は
     また顔を見合わせた。
 
 
 


 
 
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