アースガルドとは、もとは機械製造会社の一つであった。
先代がラグナロク終戦後、余生を送る趣味がてらに、小さな島に小さな会社を起こしたの
が事の発端らしいが、それが今となっては『世界』有数の大会社となっていた。ただ、それ
が後に軍隊を持つようないかがわしい集団と化すだろうということは、まさか先代は夢にも
思わなかっただろうが。
先代と、現社長──スルトゥルの関係は、実は全くの謎となっていた。彼の娘である、リ
ーゼにすらそれは知られていない。また、彼がいつ、この会社に姿を現すようになったのか
すら、誰も知らなかった。つまり、いつの間にか存在していたのである。リーゼに関しては、
彼女が四歳の頃から父親がここに連れてくるようになったらしい。ただ、彼女の出生につい
ては、これも謎に包まれている。
ともあれ、先代が亡くなって十数年、そのうちの十年近くという時間と多大な費用を軍隊
強化に費やして、スルトゥルは今のアースガルドを建てた。世界最大級の浮遊魔道具によ
って島ごと空中に浮上させ、いつしかそれは浮遊城と呼ばれ、恐れられるようにもなった。
そしてこの数年のうちにスルトゥルは、ミッドガルドの南西地域の一部を支配下に入れたの
である。それはまだ『世界』のほんの一部分にすぎないものだが、それでも彼の野望の実
現にとって、それは大きな足がかりとなりつつあった。
(この『世界』を手に入れる。『下界』と成り下がったこの『世界』を、『天界』として私は手中
に収めるのだ。)
ラグナロクにより、廃れてしまった『世界』が今や再び栄えつつある。
だが、逆に言えば今の『世界』には、武力を持った存在は皆無に等しいということだ。かつ
て強力な軍隊を誇っていた国々、自分と同じ様な野望を持った人間達は、全てあの大戦で
滅びてしまった。戦闘文明も終戦以来、ぱったりと途絶えている。退化さえしているかもし
れない。戦火の中で栄えた『魔道具士』も、もうこの『世界』にはいない。彼等の技術も今や、
完全に失われてしまった。
『世界』は『廃れて』しまったのだ。くたびれて、平和という休息地に腰を据えてしまっている。
好機は今しかない。今の自分を止められる者はいない。
(仮にいたとしても……この軍隊を崩せる者などは、今の『世界』には存在しない。)
伊達に十年かけて鍛えたわけではない。少数精鋭である自分の軍隊は、このぬるみきっ
た『世界』の中で、間違いなく最強の駒だ。
(そう……伊達に、十年かけて鍛えたわけではないのだ……)
ずっと待っていたのだから。この駒を自分の思い通りに使える日が来るのを、ずっと待って
いたのだから──
──と、ふいに机に設置してあるランプが点灯する。誰かがこの部屋に来たらしい。どん
な駒が自分に用があるのかと、彼は頬杖をついた。
「……誰だ?」
「アルテ、参りました。入ります。」
またあの男か、と胸中で独白し、彼は扉を開けるスイッチを押した。同時に、あの何の特
徴もない、のっぺりとした顔がそこから現れる。
二年前、路頭に迷っていたのか、はたまた単にひもじい思いをしていたのか、何にしろ似
たようなものだが、一人の男が貨物に紛れて、『虹の橋』を通ってここに辿り着いた。不法
侵入者は排除するのが常套だが、何を思ったか自分の娘はその男を見るや、食事をとらせ
てやってほしいと言ってきた。つまらないこととは思ったが、どうせ相手は丸腰だし、邪魔に
なりそうならそれから排除しても遅くはないと思い、言う通りにしてやったのだ。
それからその男は元気になり、礼に何かできることはないかと言ってきた。将軍職の者で
すら、おいそれとやってこないこの部屋まで来てだ。あまり相手にしたくはなかったが、ちょ
うどその当時、謀反を起こしていた兵士が何人かいたので、あの目障りな連中を鎮圧してこ
いと彼はその男に命令した。
そして翌日、何と彼はその兵士全員をふんじばって戻ってきたではないか。たかが十数
名とはいえ、武器を持った兵士達をたった一人で攻略したのには、さすがのスルトゥルも驚
愕した。使い捨て程度のつもりで使った男が、そこまで腕が立つとは思わなかったのだ。
以来、スルトゥルはアルテを将軍職としてアースガルドにおくことにした──のだが、彼に
はいくつか難点があった。
「……何か用か?」
「いえ、ただ暇つぶしに来ただけですけど。」
もう、その言葉には慣れた──が、まださすがに「それで?」と言い返せる気にはなれな
い。
この、実力だけでは有数のものである将軍の持つ、最大の難点がこの「人なつっこさ」で
あった。相手が誰であろうと、自分のペースに引きずり込む。そしてとにかく、ただ黙ってい
ることができないのである。口数の少ない彼の娘と普通に話せるのも、自分以外ではこの
男くらいしかいない。
とりあえず、彼は黙っておくことにした。そうすれば奴は、勝手に話を進めてくる。
そして案の定、アルテは頬を掻きながら話を続けだした。
「……え、と。あのー……その、リーゼさんが俺をいじめるんですが。」
「どういう風にだ。槍で頭でもつつかれたか?」
「いえ、その……働けっていうんです。耳元で、ギャーギャーと。」
スルトゥルは目の前がまっ白になる幻覚に襲われた。が、すぐに立ち直る。
「それはさっき、お前が帰った後で私がお前達二人に下した指令だ。任務放棄は裏切りと
見なすが?」
「……分かりました、失礼します。」
しばらく考え込み、やがて敬礼してアルテは、その場できびすを返した。普通ならそこで
考える必要がないだろうとスルトゥルは訝ったが、娘と同様、あの人一人殺せない陽気な
将軍の行動が、今まで読めた試しがないのを思い出して彼は舌打ちした。が、すぐに気を
取り直す。
(……まあ、いくつか捨て駒を持っていても損はなかろう……。)
太陽が空の頂点に昇りきろうとしている。あの調子ではどうせ行動に移すのは明日から
だろうと、彼はもう一度舌打ちをした。
リオ達が家に帰ったのは、もう夕方に近い頃だった。
仕事帰りの父親に迎えられ、彼等は二日振りに家族団らんの日を過ごした。お世辞にも
豪勢とは言えない食事だが、それは他の家も同じことだ。それに、三人とも今の生活に満
足している。何一つ不平を言うこともなかった──アースガルドについて以外は。
食事をすませると、リオは後片づけを始めた。毎日肉体労働に精を出すクランは、朝が早
いというせいもあり、いつも食後に仮眠をとるようにしている。が、今日はすこぶる疲れたら
しい。彼はそのまま床につき、ぐっすりと眠りこけてしまった。
碧眼を持つ、この銀髪の中年は、ラグナロク終戦の年に生まれたとウォードは以前、彼
──父親に聞かされたことがあった。生き延びるには耐え難い時代。そんな時代をくぐり
抜け、今は身よりのない自分達を養うためにこうして、毎日苦労して働いてくる。
ウォード兄妹が『ヴァルキリー』に参加したのは、それが創立してすぐのことだった。自分
達のためにクランは働いてくれる。なら自分達は、それを助けるための何かをしたい。安心
して、幸せに生活していけるために、何かしてやりたい。
アースガルドが、このフォールクヴァングの町からも見えるようになったのは、ちょうど一年
前からだ。つまり、連中は辺りの都市を支配下に入れていたのだ。ひょっとしたら、この町
の攻略法を練っていたのかもしれない。町とはいえ、ここは大抵の都市なんかよりも遥かに
大きい、栄えた町である。つまり、ここを手に入れればここら一帯──ミッドガルドの一角を
手中に収めることになる。
そんなことになっては、今の生活が危うくなってくるだろう。最悪な場合、再び家族を失う
かもしれないのだ。ウォードは最初、一人だけで『ヴァルキリー』に荷担しようとしたが、アー
スガルドを何よりも嫌う妹とその親友が、彼の考えを見抜いていた。
「一人でいるよりも、三人いる方が心強いんじゃない?」
そう妹に言われた時、彼は心底リオの存在を心強く思った。
そんなリオが、今はある機械に夢中になっていた。確か『ビューア』とかいったか。世界を
覗けるその機械を、彼女はとうとうヴァルグから借りてきたのだ。
だが、夢中になれるものがあるというのは、いいことだ。自分も以前は、あんな風に機械
いじりに夢中になったことがあった。今も十分そうなのだが、夢中になれるものはいざという
時、生きる糧となり、自分を助けてくれる。
彼はまた、そっと後ろから『ビューア』を見てみようと思った。が、せっかく夢中になってい
るところを邪魔しては悪いと、彼はその場を立ち去ろうときびすを返した。
が──
(あれ、この曲──)
突然流れてきたその音楽に、彼は足を止めた。心が洗われるようなその音楽に、しばし
ウォードは静かに耳を傾ける。
(凄いな──あいつ、こんな曲を創れるようになったのか?)
悪いとは思いながらも、彼はリオの後ろからその『ビューア』を覗き込んだ。昨日見たのと
同じ画面。それは、彼女の『世界』にある掲示板だった。
(スリーユ……昨日のヤツか。)
投稿者の名前を見て、ウォードは昨日のことを思い出した。
ふとその上を見ると、また見覚えのある名前が見えた。エミリオ──確か、リオの『世界』
上での名前だ。そこには、こんなことが書かれていた。
『すごい曲を創られるんですね……弟子にしてもらおうかなぁ?』
おいおい、とさすがに何か注意した方がいいのかと兄は思った──が、昨日の妹の言葉
をふと思い出し、思いとどまる。
(音楽が好きな人間に、悪い奴はいない、か……)
少しずつ、自分の手を離れてきた妹に、ウォードは背を向け部屋へと戻っていった。
涙とは、いつ流すものなのか?
自分がこの世で一番不幸だと知った時か? それとも、あふれんばかりの幸せに満ちた
時か?
悔し涙でもない、嬉し涙でもない。そんな涙を彼は、その沈んだような緑の双眸にあふれ
させていた。まさか、相手がそういう人間とは知らなかったのだ。自分はただ、あの連中の
人間であれば誰でもよかったのだ──
(何という強運! 何という偶然だ! まさかこういうことになろうとは──!)
あまりにも嬉しいという感情に、彼は戦慄していた。この涙は、そういったものから流れて
いるのだろうか。そうするとこの涙は、何と呼ぶべきなのだ?
(いや、そんなことはどうでもいい。儂の野望が実現すれば、どうでもいい──)
彼は流れるように、キーボードを撫でた。自分より『ビューア』に対する知識に秀でている
者は、そういないだろう。何者かにこのことを気付かれたとしても、もはや自分の邪魔をでき
る者はいない。
ラグナロクに生まれ、短期間で世界に広まった『魔道具』。その神がかりな機械は、その
全てが戦火の中で開発され、そしてその技術は終戦と同時に闇に葬られた。つまり、現世
に残る『魔道具』の全ては、少なくとも五十二年の年季を持っていることになる。
魔法と同時に創り出された、神の機械。だが、この『ビューア』こそ、神の生んだ最高傑
作ではないだろうか?
(これで『世界』を手に入れる。儂はこれで、『世界』を手中に収めてみせる──)
彼の震えは止まらなかった。喜びと、恐怖の入り交じった震えは。
彼が現実を目の当たりにするまで。いつまでも、いつまでも。
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