第2章・下界と天界
「もう、信じらんないっ!」
この半生、最悪の寝覚めの悪さに、彼女は苛立ちを覚えていた。
とはいえ、別に悪夢にうなされていたとか、低血圧で朝に弱いとか、そういったためでは
ない。確かに最近早く起きられなくはなっているが、それでも一般に比べたら早起きの方
だし、夢にうなされることもない。むしろ、いつでもどこでも気持ちよく眠れる体質だ。
胸に、羽ばたく鷹の描かれた紋章のついた、白い布地に霧のように紫がかった制服を纏
ったその女は、無駄に広く、長い通路を早足で進みながら口を尖らせた。
朝になって起きてみて、つい鏡を見てしまったのだ──確かに遅かれ早かれ、それに気
づきはしたのだろうが──。その問題のものが目に映ったとき、彼女は気が狂いそうにな
った。あまりの驚愕に、うっすらと目に涙すら浮かべてしまったほどだ。
「信じらんない、信じらんない──」
とにかく、彼女は文句でもあり自分の口癖でもある言葉を連呼して、すたすたと通路を歩
いていった。すれ違う者達の、誰もが自分の形相を見て驚愕の表情を見せる。いや、ひょっ
としたら問題のものを見て哀れんでいるのかもしれない。だがどちらにしろ、そんなことはど
うでもよかった。哀れんでくれたところで、これが消えるようなことはないのだから。
「信じらんなぁぁいっ!!」
ひとしきり大きくそう叫んで、勢いよく扉を開けて彼女は、職場である自分の部屋へと入っ
ていった。同時にもう一つ、叫ぶ。
「聞いてよ!」
「やだ。」
何ですって? という言葉は口から出なかった。言おうとはしたが、喉元につまってしまっ
たのだ。あまりにも唐突な──まあ、自分の声がそもそも唐突だったのではあるが──予
想外の反応に彼女の表情は固まり、叫んだままの格好で、しばらくその場に佇む。
男はこちらに振り向きもせず、ただ黙々と読書を続けていた。そういえばついこないだ、夢
中になれる本を見つけたとか言ってはしゃいでいたような、と彼女は思い出した。
「……………………。」
やがて、何かにはじかれたように彼女は歩を進めると、彼女と似たような服装をしたその
男から、読んでいた本を取り上げた。だがそれにも拘わらず、彼はまだこちらに注意を向け
る気にもならなかったらしい。ベッドにうつ伏せになったまま、微動だにしない。
「……………………。」
身長百七十センチ。細身のせいか、見た目はもっと高いように感じられる。澄んだ青の双
眸は、黒の長髪により一層きわだって見えた。彼女は本を手でもてあそびながら、未だこち
らに向かない──というより、ひょっとしたらこの男は、自分に気付いていないのではない
かと彼女は訝った──黒の短髪の男を一瞥する。
「……聞いてる?」
そう言っても、この同僚は全く耳を貸そうとしない──それどころか、一つ小さくため息を
つき、もぞもぞとふとんの中にもぐり込もうとさえする。
彼女は──昨夜のような冷血な表情を見せ──自分よりやや背の高い男の襟元をひっ
つかみ、軽々と持ち上げた。
「聞け。」
「ハイ。」
「……………………。」
どんなリアクションをとっていいのか分からなくなり、とりあえず彼女は男を放してやった。
男の方は、別に何事もなかったように背伸びを一つし、ベッドに腰掛けて気の抜けるような
声で言ってくる。
「……んで? 何があったんです、リーゼさん。」
「聞いてんじゃないのっ!?」
とうとう癇癪を起こして彼女──リーゼが叫び声をあげた。
「っとにあんたって人は、どうしてもっとこう女性をいたわる気持ちってのに欠けてんだろっ
て考えたことないわけ?」
「あのー……そんなこと言って俺の本をねじり切らないでほしいんだけど……」
そうは言っても、あまり困ったような表情を見せず、男は手を合わせて祈願してくる。
リーゼは半眼で男を睨み、本をベッドに投げやりながら、自分の目元を指さした。
「……じゃ、どう思う? これ。」
言われて男は、彼女の指先を凝視した。そうしなければならないほど、パッと見ても分か
らなかったのだ。よく見ると、彼女の目元にうっすらと傷ができていた。何かで切ったのだろ
う。だが、ほっといても二日もすれば完全に消えてしまうようなものだ。
「……似合ってるんじゃない? 何か、やーさんの姐さんみたいな。」
「ブッ殺すよアンタ。」
そう言われてはじめて、彼は降伏の証として両手を上げた。だが、相変わらず表情に変
化は見せない。
「何だかなぁ……そんな言葉遣いじゃ、せっかくの美人が台無しじゃないの?」
「そんなの問題じゃないわよ。この美しい顔に傷だなんて。どう考えたってこっちの方が問
題じゃない?」
両手を顔に当て、リーゼは眉をひそめた。が、男は黙ってこちらを見つめるだけである。
そんな、男の黙殺にやがてリーゼは赤面し、あさっての方を向いて口を尖らせた。
「……悪かったわよ。どうせ私らしくない発言でしたっ。」
「いやいや、リーゼさんも大胆になってきたと。お見それしました。」
この同僚の男は、確か自分より年が一つ下だったとリーゼは記憶していた。だが、それ
は誕生日が少しずれているというだけで、もうしばらくしないうちに同い年になるということ
も知っている。だがなぜかこの男は、自分に対して敬語を使ってくる。しかもたまに。
「何でそんな中途半端なことをするの?」
以前そんなことを訊くと、それはただ単に口癖のようなものなのだという答が返ってきた。
聞いててあまり面白くないのだが、まあ別にこちらが非難されているわけでもなく、たまに
優越感にも浸れるということで、よしということにしておいたが。
「ところでアルテ、あなた今日はどうするの?」
「どうするって……さあ、どうしようかなぁ。考えてもみなかった。」
相変わらずの呑気ぶりに、リーゼは目眩を覚えた。この男は、自分が教えてやらなけれ
ば月一で行う幹部会議のことも、平然と忘れてしまうのだ。そもそもこんな男がなぜ幹部な
のかと訝っても仕方ないくらいなのだが、腕だけは立つので何とも言い難い。
リーゼはキッと視線を鋭く──とはいえ、自他共に認めるその童顔で、視線を鋭くしても
あまり意味がないとよく言われたりするのだが──して、アルテに言う。
「……私は、これから昨夜の仕事の結果報告をしに行くけど、暇だったらついてくる?」
「童顔ってのはつまり、かわいいってことで受け止めていいと思うんだけどね?」
全く関係のないことを言われ、リーゼは首を傾げた。それを追うようにして、アルテが笑っ
て言ってくる。
「こっち睨む時、気にしたでしょ? 童顔のこと。」
言われてリーゼは、無言でボディーブローを放ってアルテを沈め、再びそれの襟元をつか
んでひきずり、通路へと歩き出した。
アースガルドとは、『神々の住む世界』という意味であるらしい。
その「らしい」というのは、自分の生地であるにも拘わらず、彼女はそんなことには興味を
持ったことがないからである。幼い頃から戦闘術をたたき込まれ、いつの間にか将軍職とし
てこの都市に君臨することになったのだが、だからかこの地に愛着は全くといっていいほど
沸かなかった。戦うことを目的に生きているからかもしれない。だが、それ以前にせめて、こ
こが大地に腰を据えた普通の都市であれば、それなりに愛着も湧いただろうと、彼女は胸
中で毒づいた。
(──毒づいた?)
リーゼは隣のアルテに気付かれぬよう、ひそかに眉をひそめ、自問した。そして、自嘲す
る。そんな感情なんて、あるだけ無駄だろうと。
(毒づいた……気のせいでしょ?)
そう自分に言い聞かせて、彼女達は六階への階段を上っていく。高階級の者のみが入居
が許されるこの建物は、アースガルドの中でも最も大きなものの一つである。その中の五
階に彼等の職場、控え室があり、六階に本館へと続く接続通路がある。
その接続通路を進み、やがてエレベーターの前にやってきた。そして、最上階を指定する。
彼等の職場である建物も確かに大きいが、本館はその群を抜いていた。職場が十二階建
てなのに対し、本館は約倍の二十三階建てである。
そしてその二十三階に着き、二人は赤い絨毯の敷かれた床を踏みしめ、目的の部屋へ
と歩を進めた。通路の左右には、年季の入った甲冑が、誰に着られることもなく静かに佇み、
剣を立てて訪問者を迎えている。この最上階には、ただ一つしか部屋がない。即ち、この
突き当たりの部屋──この都市の長がいる部屋しか。
重く、頑丈そうな──それでいて、何のかざりっけのない扉の前まできて、二人は立ち
止まった。この扉を見る度に、まるであの男の鉄面皮さを象徴しているかのようだと、リー
ゼはいつも思ってしまう。だが、こちらがただ待っているだけではそれは微動だにしないの
で、仕方なく彼女はそれに告げることにした。
「リーゼ、参りました。」
「同じくアルテ、参りました。」
するとそれは、軋む音すら立てず、静かにゆっくりと開いていった。同時に、中にいる人
間が姿を現す。
禿頭の老人。だがまだ彼は、六十を数えてはいないとリーゼは記憶していた。顔に深い、
そして鋭いしわを刻んでいるその男は、自分の席についたまま、燃えるように紅いその双
眸をこちらに向けている。彼の放つ、その教祖じみた雰囲気だけでも十分に威圧感はある
のだが、実際はさらに、彼が立てばリーゼよりも頭一つは高く、がたいのいいアルテよりも
一回り胸板が厚く見える。
通路よりも殺風景な部屋の中で、彼は二人の将軍を目の当たりにしたまま、しばらく黙っ
ていた。だが、リーゼがしびれを切らすよりも若干早く、その重い口を開き始める。
「──何の用だ?」
子供が聞いたら泣き出しそうな声で、彼はそう言った。実のところ、一人でここに来るの
は心許ないから自分を連れてきたのではないかとアルテは胸中で独白した。そして、それ
が図星であることをリーゼは、口が裂けても言わないと自分に固く誓う。
「……昨日、例のレジスタンスに捕縛された兵士二人を昨夜、奪還してまいりました。」
「……それで?」
それで、と言われてもこっちが困るわよ、とリーゼは予想外の反応に眉をひそめた。この
老いぼれにしろ、隣の同僚にしろ、男というやつは何でこんなのばっかりなんだろ、と泣き
たい思いで歯を食いしばる。そしてこんな状況になっても、この男はフォローの一つも入れ
やしない。
「ま、要するに暇つぶしにここへ来たんですよ。俺等は。」
(……なんて実際、言いかねないからな〜、こいつは。)
それを思うと、このまま黙ってもらっていた方がいいかもしれないと彼女は、半ば本当に
泣きそうな顔で毒づいた。そうこうしているうちに、老人の方が動き出す。
「……もういい、下がれ。」
それはそれで悔しいと思いながらも、だが内心は胸を撫で下ろしてリーゼは、きびすを返
した。見るとアルテは、もう既に扉の前まで歩いてしまっている。
(それほど退屈だったってわけ? ま、気持ちが分からないってこともないけど。)
そして、彼を追って自分も部屋から出ようとする。
──が、
「……娘よ、」
そんな、老人の呼び声に引き止められてしまった。半ば疲れたというような表情を見せ、
リーゼは老人へと向き直る。
「……何か?」
「レジスタンスの連中を始末しろ。あの男と共に。一週間以内だ、いいな?」
その言葉に、しばらく彼女は黙っていた。老人もそれ以上言ってはこない。アルテの気配
が完全にこの階から消えたことを確認し、リーゼは口を開いた。
「それは、アースガルドの王、スルトゥルとしての命令ですか。それとも、私の父としてのも
のですか?」
「……なぜ、そんなことを訊く?」
「あなたが私のことを『娘』と呼ぶのは、聞き慣れないことですから。」
老人──スルトゥルは黙っていた。こちらを睨み据えたまま、微動だにしない。
「──失礼します。」
返事を期待してはいなかった。あったとしても、それはつまらないものだろうと、リーゼは
先に同僚が待つ部屋へと戻っていった。
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