林野の詩
森閑な空間。
そんな、当たり前のようで今では、おとぎ話の中でしかないようなものに、彼は憧れ続け
ていた。
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地響き。
またか、と彼は嘆息する。ここしばらく――冬を越してから――そんなことが続いている。
自然に起こる揺れではない。つまり、いわゆる「地震」ではないのだ、と彼は以前、彼の
母に教わったことがあった。森林を削り取るような揺れ、軋み。
彼は煩悶した。一体、いつになったらこんなことがなくなるのか。
彼は、この森で生まれた。彼の母も、祖母もまた、この森で生まれ、育ったと聞く。母達
だけではない。彼の遊び相手になってくれる狸も、しつこく追い回してくる猪も、木になって
る実を独り占めにする猿も、就寝の告知を毎晩欠かさずしてくれる梟も、みな。
みな、この森で生まれた。
だが、彼の父は――母と交わり、自分に生を与えてくれた父は、彼等とは違う環境で育
ったらしい。造られた緑草の上で日光浴をし、夜板で造った小屋の中で夜露をしのぎ、毎
日の糧は、決まった時間に、彼のもとへと「自動的に」出された――そんな、夢のような、
非現実的な環境の中で。
だが!
その環境を造り出した者が、今自分達のいる森を破壊しようとしている。
彼等は、これ以上何を望むというのだ?
夢以上の憧憬を抱いているというのか?
彼等は自分達の種族を「人間」と呼ぶ。それに対して「彼」のことを「犬」と呼び、ある時
はそれを非難の言葉に、またある時は下等なものの比喩として使う。
自分達が何をした?
彼の祖母は、そう言い残して昨年の冬に、逝った。
彼のよき理解者であり、また博識であった祖母の死は、当時の彼にとってはこの上
ない悲哀であり、虎狼なことであった。
そう。虎狼。残酷極まりない、彼女の死。
今はともかく、冬の間はまだ、人間がこの森に入ってくることは稀だった。いや、少な
くともそう思っていたのだ。だが、あの日――
一段と冷える一日だった。朝から吹雪いて、歩くことすら億劫だった。強い吹雪をやり
過ごすための洞穴を探すため、祖母、母と3匹で森の中をくまなく歩き続けた。いかな
森に博識な祖母とはいえ、強く吹雪いている中ではなかなか目的地を探し出すのは困
難であった。そして――
ちょっとした、歩きやすい所に3匹は出た。そこだけ雪があまり積もっておらず――何
かにかき出されたかのように――土が所々から姿を晒していた。そんな、不可解な道
を彼等はありがたく利用させてもらうことにした。そう、不可解だった。どこまでいって
も、その道幅は変わらないのだから。何か、身体の大きな獣が通ってできたものにし
ても、それは規則正しすぎた。だが、そんなことはどうでもよかった――
彼は、喜び勇んでその道に飛び込もうとした。だが、横からそれを、祖母が制した。
何か分からないことがあれば、まず祖母が斥候となるのが、彼等の中の規則だった。
この時もその規則に従い、彼女がまずその「道」へと降り立った。「道」の中央だけ、
雪が妙に残っていたが、それ以外は特に変わったことはない。彼女は子供2匹を呼
ぼうとそちらに顔を向けた。
その時だった。唐突に、背後から光が射し込んできた。驚愕よりも先に、雪に反射
された光が眩しく、彼等は一瞬、その場で目を閉じた。
暗闇の中――まず彼の耳に入ってきたのは、積もった雪を何かが軋ませるような
音だった。そしてその軋みが、一瞬鈍い音に変わる。
まるで、何かを折ったような音に。
刹那、短い悲鳴が聞こえた――が、それはすぐに途絶えてしまった。彼の隣にいる、
母親の叫喚にかき消されたからだ。そこではじめて驚愕し、彼は双眸を見開いた。
彼の視界に飛び込んできたものは、想像を絶するものだった。
恐怖。いや、違う――残酷?
脳裏で、もう1匹の自分が現実逃避を示唆している。だが、彼の双眸はあくまで現
実を映し出していた。そう考えているうちに、黒い、丸い物に巻かれた白銀の金属が
祖母の身体を刻み、えぐっていく。
広い銀世界の中に、小さな血しぶきを生み出し、その黒い何かは通り過ぎていった。
母親が、駆け足で祖母のもとへと降り立つ。そして彼は――
生涯忘れることのない景色と記憶を脳裏に刻み、ずっとその場に佇んでいた。
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