冬という季節は、生ける者達にとっての「試練」のようなものだ。
   5回目の冬を迎え、彼はそんな祖母の言葉を思い出していた。
   寒さという試練、空腹という試練、孤独という試練――
   そして今冬から、新たに騒音という試練が加わった。
   森の奥には、ちょっとした広場があった。春になればそこは、ひなたぼっこのたまり場
  となり、秋には収穫の場となっていた。いつからあったかは、さすがの祖母も知らなかっ
  たらしいが、森にある唯一の道――もっとも、彼等は「道」なんて特に必要としないが
  ――に繋がっているので、色々な意味でそこは、森に住む動物達の「聖域」のようなも
  のだった。
   が、その「聖域」が、騒音の発源地へと侵されてしまったのだ。
   人間の手によって。
 
   彼の父が、母親と出会ったのには、ちょっとしたエピソードがあった。
   彼の父は、人間の手によって育てられた。幼い頃から、何の不自由もなしに。ただし、
  その代償として自分の「行動」を束縛されていた。逃げられないように。人間達を裏切
  らないようにと。監禁と忠誠の道具として、彼の「首輪」には金属の「鎖」がつけられた。
   だがある時、彼を束縛していた鎖が、首輪の金具から何かの拍子に抜け出たのだ。
  いつもの、決められた行動範囲を破ることができるのは、散歩に連れてってもらう時の
  みであった。だが、今はそれが、自分の意志で可能だ――
   好奇心のもと、彼はそこの「敷地」を離れた。人間達の家は、「敷地」というものが決
  められてあり、そこから外に自分達の住居を作ってはいけないらしい。自分の住処くら
  い、自分の好きなようにできないのか。何でもできるくせに。そんな素朴な疑問を彼は
  抱かないままにはいられなかった。が、この際そんなことはどうでもいい――
   彼は走り続けた。今まで走ったことのないくらい、長く。散歩の時は、同伴の人間が
  バテてしまうか、首輪を繋ぐロープがそれを妨げていたが、今はそのロープも人間もい
  ない。心身共に、身軽になって走れることへの喜びを抱いて、彼は今まで歩いたことの
  ない場――つまり、道が舗装されていない所――へと足を踏み入れた。
   ひんやりした気分――彼の、最初の感想がそれだった。人の手が、一切つけられて
  いない土地。あるいは、そういった「もの」ですら、彼はその時まで見たことがなかった
  かもしれない。そこからは、ちょっとした丘になっており、その先には碧く生い茂った森
  が見えた。
   本能的に懐旧を感じ、彼は吸い込まれるようにその森に入っていった。湿った土の
  匂いがする。若葉と大樹が上下から首を伸ばして出迎えてくれる。森の中の全てが、
  心地よく感じた。爪を、歩くときに道に引っかける心配もない。ただ少し、逆に足への
  違和感を感じるが。
   そして、どれくらい進んだろうか――途中、野ウサギのような、見たこともない動物
  も見かけたが――その森の奥深くで、自分と同じ種族のメスと出会ったのだ。
   彼女達親子は、彼を快く迎え入れてくれた。そして間もなく彼等は交わり、彼女は1
  匹の子供を宿すことになる。後から知った話だが、彼女の母親が言うには、子供が1
  匹というのは少ないのだという。まあ、それはさておき――
   それからしばらく、親子3匹はその森で過ごすこととなった。彼にとって、全てが初
  体験のことだったので、色々なことを彼女達親子に聞いて知った。その代わりと言っ
  ては何だが、彼はよく人間に飼われていた頃の話をしてやった。食事に困らないこと。
  毎日が寝て過ごせること。そして、自分の存在を束縛されること。彼女達は彼の話に、
  時には驚愕し、時には質疑した。どうあれ、彼の話を素直に信じてくれたことは1度も
  なかった。
   そしてある日、彼女の孕んだ腹がいよいよ大きくなり始めた。冬になりかけという季
  節だけあって、出産するのに必要な栄養を摂れるだけの食料を確保するのは難しい。
  彼女の母親が、持ちうる知識を使って食料を探しに行くが、食料が欲しいのは他の動
  物達も同じことであり、よくてせいぜい、3匹が何とか1日を凌げるほどのものしか調
  達できない。
   そんな状態で3日が過ぎた。もう出産してもいいほどの時間が経ったのだが、彼女
  の体力が、どうしても出産に持ちこたえられそうにない。このままでは、腹の中の子
  供まで危ない。とうとう業を煮やした彼は、今一度人里に下りることを決意した。出産
  できるできるだけの、親子4匹が冬を越せるだけの食料を調達をしに。必ず戻ってくる
  ことを妻と約束し、彼は冬の森を抜けた――
   そして――彼は、戻ってこなかった。結局、何とか出産は済み、若い親子は衰弱し
  ながらも、無事冬を越すことはできた。しかし、とうとう親子4匹が揃うことのないまま、
  祖母は3年後の冬に逝った――
 
 
 


 
 
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