しつけ。これ以上重要なことはないだろうものに、早くしていればと私が後悔し始めた
  のは、ある日高校の先輩の家に遊びに行った時であった。
   先輩の犬は私が遊びに来る度に吠え、帰る(先輩の家から出てくる)時にはしっぽを
  振ってよってくるという、なかなか愉快な犬であったが、彼女(メスである)には1つ、特
  技があった。
   先輩が「お手」と手を出すと、ちゃんとおすわりをした上で手を出してくる。「おかわり」
  と言うと、反対の手を。もちろん、こんなことはどこの犬でもできることである。が、
  「ちょうだい!」
   そう言って、持っている「おかわり」の手を犬の首もとまであげてやった。すると、もう片
  方の手をそこまで持っていって、2本足で立つような格好を見せる。
  (おおっ!?)
   私が胸中で感嘆の声を洩らす中、先輩は「よしよし」と言って犬の頭を撫でてやった。
  うちのアホとは違い、芸らしい芸ができる犬を目の当たりにして、呆然としている私を見
  て先輩が、
  「……お前んちの犬って、こんなことできなかったっけ?」
  「こんなことも何も……おかわりすらままならない、アホ犬なんすけど?」
   そうなのである。うちのチッチときたら、私が暇つぶしにやつの所へ行ってやり、「お手」
  と言うと、まあ大抵はその手を出してくる(たまに、逆の手を出す。ひどい時はシカトする)
  が、いざ「おかわり!」と言っても、出した手を引っ込めようとせず、そのままでいる。つま
  りやつにとって、「お手」=「おかわり」なのである。ただ、しつこく「おかわり」を繰り返す
  と、たまに逆の手を出してくれることがあった。しかし、その場合今度は「お手」をしなくな
  る。
  「こういったのを教えるにはな、エサやる時とかにやるとよく覚えるんだよ。」
  「ハァ……。」
   そう言われて私は、曖昧な返事をした。同時に胸中で、訝る。
  (エサの時……あの野郎に食うこと以外のものを、同時に考えるなんてことが可能な
  のか?)
   散歩の後が、メシの時間――いくらアホ犬とはいえ、このシステムはきっちりと覚え
  たらしく、家に帰り着くなりやつは、餌箱と水入れを洗いに行く私を見て、いつも嬉しそ
  うにしっぽを振っていた。
   が、やつがおとなしくしているのはその間だけである。
  (ちょっと餌箱洗うのに手間取ったり、エサやるのをためらったりすると、力の限り吠え
  続けるからな、あいつは……。)
   この「ためらう」というのは、もちろんやつをからかってやろうという私の悪戯心なのだ
  が、これが例え天下無敵の妹共であろうが、奴が絶対忠誠を誓っている大御所・父親
  であろうが、見境なしに敵扱いする。間違っても「ク〜ン」という、同情を買うような反応
  を見せようとはしない。
  (それに、メシ食ってる最中はそれ以外のものに目もくれず、食い終わった後は動こう
  としやがらねえからな……こうなる前に、幼い頃からしつけるべきだったんだ……!)
   だが、どんなものにも「個性」というものは存在する。この阿呆にとってもそれは、例
  外ではなかった。
   夏の日、舌を出してやつは暑苦しそうな表情を見せる。道を成すアスファルトは太陽
  熱を十分に浴びて、我々人間には反射熱で苦しませ、やつら犬にはそれに加えて足
  のを焼かんとする。それゆえ裸足であるチッチは、夏の日は常に早足で走っていた
  ような気がする。
   そして、家に帰ってくると、至る所に影ができている――もちろん、家によって、であ
  る。我が家の庭の一部は、砂利を敷いており、ちょうどそこがいい具合に影になって
  いるのである。人間より身長(足)が低い分、余計に反射熱を受けて熱くなっている
  腹を冷やそうと、やつはそれこそ早足でそこに駆け寄るのである。そしてベチャ〜ッと、
  気持ちよさそうに腰(じゃなく、腹)を下ろす。
   だが、我々人間側からすると、そこはあまり涼しくはなかった。早く家の中に入って
  クーラーで涼みたいなという、犬からみるとこれ以上ない贅沢な願望を持っているの
  である。最初のうちはつき合ってやるが、いつまでたってもその場を動かないとみると、
  力ずくで犬小屋まで引きずっていく。
   まあ、引きずるのはともかく、影で冷えたアスファルトや砂利の上にへたり込む、と
  いうのは他の犬にも見られる光景である。また、これに抗おうとその場を離れまいと
  するのも、一般的な反応であろう。だが、この先こそが我が家の犬の、個性発揮の
  時なのであった。
   奴は早足で私の前に先回りすると、いきなり足に飛びつくのである。そしてそのま
  ま、私がやつを振り落とそうと足を振ろうが、かまわず歩を進めようが、とにかくそこ
  から離れようとしない。
  「待ってよ〜、帰りたくないよ〜もっといようよぅ〜。」
   そんなことを言っているのかは知る由もないが、犬小屋に着くまでの間ずっと、そ
  の状態でいるのである。また、これは夏だけでなく、庭ではしゃぎ回っている時や、
  そこらに生えている雑草を食べている時に帰ろうとすると、その「だだっ子」は始まる
  のである。
   だが、逆に言えばこの「だだっ子」は、「家についてから」でないとしなかった。つま
  るところが、「だだっ子」という表現はまんざらおかしくないのかもしれない。しかしこ
  れが、本当にやつの「個性」かは分からないが、少なくともこれを書いているまでは
  他の犬が「だだっ子」をやってのけたという景色は見たことがない。
   やつの個性的な芸当(?)はまだある。間食として「ほねっこ」というものをやつに
  与えたことがあるのだが(やつはこれがお気に入りだった)、これをくわえるとタッ
  タッタッ、と犬小屋の裏側まで歩いていき、我々に姿を見せようとしないのである。
  仕方なく私は家の中に戻り、窓からそっと、母親と一緒にやつの様子を覗くことに
  した。
   するとやつは、不器用にも2本の前足で「ほねっこ」を立てて(その名の通り、骨
  の形をしているのである)、カリカリとかじり始めたのだ。ただそれだけなのだが、そ
  の仕草が何ともほのぼのしているというか、平和的というか……写真があれば乗せ
  たいところだが、あいにく私はスキャナを持っていない。
   他にも、窓から顔を出すだけでやつの相手をせずに覗いていると、「フゥ〜〜ン?」
  といかにも間抜けた鳴き声を発し、しまいには「キャン!」と遊びの催促をしながら、
  鼻先を前足に挟むような格好で地べたに座り込んでしまうのである。この格好が1
  番妹達にウケて、「チッチが拗ねた!」とわめきながらいつもカメラを取りにいくのだ
  が、いかんせんやつはこの状態を長く続けようとはせず(再び遊びの催促をするの
  で)、戻ってきた時には「あ〜あ」とやつらは肩を落とすのであった。
   以上が芸当と呼べるかどうかはさておき、ただ1つ、ほぼ確実にやってくれる芸当
  がやつにはあった。やつはよく父親に腹を撫でてもらうのが好きで、いつも彼が来る
  時にはその場にゴロン、と寝転がる習性がついていた。それを見て私は、何となく
  それをやってくれそうなかけ声を思いつき、
  「チッチ、ゴロン!」
   と言って、指で宙に弧を描くような仕草をすると、やつはその指を追いかけるように、
  「ゴロン」とその場にうまく寝転がってくれた。
 

 



 

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