「水奈だろう。おーい、開いてるぞ。」
紀幸がそう言うと、ドアの向こうにいた気配が病室へと入ってきた。
が――
「……賢夜?」
入ってきたのは、女ではなかった。彼――賢夜と呼ばれた男――身長は170強、上下
にブルーのジーンズを纏っている――は、照れくさそうにというよりは、申し訳なさそうに
頭を掻きながら、上目遣いで悟を見た。
「……ゴメンなさい、退院前に1度は見舞いに来ようと思ってたんですけど……。」
「いいよ、気持ちだけで。それに、今日こうして来てくれたんじゃないか。」
悟は表情を和らげた。動かすのは久々で、まだ立ち慣れない足を使い、賢夜の方へと
歩み寄り、彼を迎え入れる。
彼――白井賢夜は、悟の大学の後輩である。彼は1人暮らしで、昨年の夏、高校生な
がらにして小説家としてデビューし、現在は原稿料で生計を立てている。
「えらいよな。19歳にして、もう自給自足の生活を送っているんだから。締切には間に合
ったのか?」
「ええ、昨晩に書き終えて、なんとか……」
「え、じゃあひょっとして、寝てないの?」
口元に拳をあて、理紗が驚愕の声をあげる。
「大丈夫だよ、3時間も寝たから。」
「さっ、3時間!? ダメ、アタシ考えただけでゾッとしちゃう〜。」
そう言ってその場にへたりこむ理紗の姿は、室内に笑い声を響かせた。その様子に理
紗が「もうっ」とむくれて赤面するのだが、それがかえって逆効果となってしまう。
笑いながら賢夜は、ふと窓の向こうを一瞥した。3階から見える風景。来る時は見上げ
ていたものが、ここからだとすぐ目の前に見える。それこそ、手を伸ばせば届いてしまう
ほどの近さに。
「……綺麗な桜ですね。」
窓を半分ほど開け、独白のような口調で賢夜は呟いた。
「あ、すいません。寒いですか?」
「いや、いいよ。この格好だと暑いくらいだから。それに、もうそんなに寒いほどの季節じ
ゃないだろう。」
「……そうですね。」
微笑んで応える悟の頬を、窓から入ってきた微風が優しく撫でる。
外の桜は、満開だった。病院までの並木道を成す、100本に及ぶ桜の木。その木々の
1本1本、枝、そしてその先まで、薄桃色の花びらが溢れんばかりに咲き乱れている。
「桜、か……。」
澄夜の後ろから、肩越しに桜を見ながら紀幸が呟いた。
「お前は知らないかもしれんが、お前の容体がよくなり始めた時から、咲き始めたんだよ、
この桜は。お前の回復を知って、水奈は泣いて喜んだのさ、ここでな。毎日、お前の看病
のためにここに通って……感謝しろよ、彼女に。お前にとって今日はまさしく、桜花爛漫
なのだからな。」
「なっ、ちょっ……やめて下さいよ。理紗さんはまだしも、賢夜の前でそんなこと……!」
「あ〜、さと兄ちゃん、顔真っ赤になってる!」
兄妹に冷やかされ、悟の顔は完全に赤に染まってしまった。その様子に、後ろで賢
夜もクスクスと笑っている。
顔を赤くしたまま、悟はその場で俯いた。水奈――流川水奈は、和泉兄姉とは従兄
弟に当たる。紀幸の話によると、和泉家の父方と流川家の母方が兄妹なのだという。
そんなわけで悟は、そんなしょっちゅうではないが水奈とも、幼い頃から顔を合わせて
はいた。もっとも、性的感情が表れるようになったのはごく最近のことであるが。
悟と水奈は同い年である。そのためか、昔から2人は相性がよかった。盆休みの時
等、流川家が本家である和泉家にやってくる時は、決まって1度は2人でどこか遊び
に行っていた。
そして、今年――理紗の高校卒業祝いに、流川家は和泉家へとやってきた。それに
隣の後藤家も呼ばれ、賢夜を除く4人が久しぶりに集まり――
その半ば、悟が倒れてしまったのである。
原因は不明。医者に言わせても、「ストレス等の精神的異常なものだろう」とだけ言
われ、結局退院する今日まで、分からず終いであった。だがストレスと言われても、悟
には全く見に覚えはなかった。家族問題なんてないし、4人で集まることに対しても、
まさか面倒だ、なんて心底で思っているなどとは、欠片も考えたことがない。
悟が倒れて2日後、流川家は帰っていった――水奈を残して。
(いや――「残った」んだ。)
家族は、実際のところ水奈が残ることには反対だった。無論、悟を放っておけ、とい
う意味ではない。入院することになったから、しばらくしてまた来いということであるが。
だが、彼女はその反対を押し切った。そして今日までの2週間、彼女は和泉家に寝
泊まりし、毎日病院に通って悟の看病をし続けていた。紀幸はその姿を見守り、また
隠れたバックアップとして彼女を支えてきたのだ。
「……けど、本当に綺麗な桜ですね。こんな日に先輩が退院できること、きっと水奈
さん喜んでますよ。」
「お、おい。賢夜までそんな、俺をからかわないでくれよ。」
「……あ〜♪ ウワサをすれば……さと兄ちゃん。来たわよ、みっちゃんが。」
再び紅潮し、眉をひそめる悟をよそに、理紗は窓からひょいと顔を出した。
その彼女の視線の先には、濃茶の長髪をたなびかせ、こちらに手を振っている紅顔
の女性の姿があった。