後藤家と和泉家は、基本的に仲がよかった。だが、その中でも特に悟と紀幸は、歳が近
  く、また男同士ということもあって、互いを親友のように思っていた。そのため、悟に何か悩
  み事があったりすれば、真っ先に紀幸へと相談をしに行き、紀幸が何か嬉しいことがあれ
  ば、それを1番早く知らせるのは悟にであった。つまり、2人の間に隠し事の類は一切、存
  在しなかったのである。
   ――そう、つい今し方までは。
  「……で?」
   羨望――というよりは、拗ねるような表情で悟は、頬杖をついて紀幸に視線を向ける。
  「聞いてませんよぉ〜、こんなこと。一体いつ、免許を取ったんですか?」
  「お前が倒れて、ちょうど1週間がたった頃さ。本当は4人で集まった時に言おうとした
  んだが、やっぱ免許を取ってから驚かそうと思ってな。」
   ウインカーを出し、ハンドルを切って紀幸が応える。
  「それに……やっぱ、お前が退院してからにしたかったんだ。どうせなら、嬉しい知らせ
  は嬉しい時に聞いた方がいいだろう?」
  「嬉しいというか……羨ましいって感じですけどね。」
   さっきの理紗ではないが、ふくれっ面のような表情で悟がぼやく。
  「……で? みんなは知ってたの、このことを。」
   ざっと辺りを見回すようにして、悟は首を回した。
  「まあ、ね。アタシはお兄ちゃんが免許取りに行くトコ、見に行ったから。」
  「私は……理紗ちゃんに聞かされたわ。その翌日、車で病院まで送ってもらったの。」
  「僕も……理紗さんから聞きました。乗せてもらったことはありませんけど、見たことな
  ら。」
  「ちぇっ、みんな知ってたのかぁ。」
   それぞれが薄笑いを、あるいはちょっと意地悪げな笑みを浮かべ、そう、口にするの
  を目の当たりにして、悟はますます口を尖らせた。
   だが、それでもやはり、心底は嬉しかった。自分の身の回りいる人間にいいことがあ
  れば、それだけでも嬉しいものだが、何より1番身近にいる友人が車の免許を取れば、
  それだけで彼の――つまり、自分の世界観も広くなる。そのことが悟には、素直に嬉
  しく思えた。
   紀幸達を乗せた車は、気が付くとよく知った――そして、悟にとっては少し懐かしい
  ――風景に出ていた。そこはもちろん、彼等がこの人生の中で最も目にし、歩んでき
  た通りであり、後藤・和泉の両家のある通りである。
  「……帰ってきたんだな、うちに。」
   そこではじめて、退院を自覚したかのように、悟は小さく呟いた。

  「ただいまぁ。」
   我が家のドアを開け、口にした第一声がそれだった。
   悟の家は、特別に何か厳しいなどという家風ではないが、ただ1つ、いつ、どこでも
  しっかりした挨拶をするように、と幼い頃から父親にそう、しつけられた。だから彼は、
  今日も変わらず帰ってきた時の挨拶をする――誰もいない我が家に。
  「さと兄ちゃん、ただいまって、おじさん達は今は、留守なんだよ?」
  「ああ、だからこの『家』にしたのさ。俺が帰ってきたってことを知らせるためにね。」
  「ふーん……」
   あまり興味を持たないというように、理紗は言葉を返した。
  「いつ、どこにいても挨拶をすること。そう、父さんからしつけられたからね。小さい頃か
  ら。」
  「……でも、そう教育をしてきた親に、感謝するべきよ。挨拶はする方もされる方も、
  気持ちいいんだから。」
   悟の後ろからそう言ってきたのは、水奈だった。横に2人が並んでは歩けないほど
  の狭い廊下を突き進みながら、悟は彼女の声に怪訝に思い、
  「あ、あれ? 水奈、どうしてここに?」
  「どうしてって……私がここにいちゃ、ダメ?」
  「いや、そういうわけじゃないけど……てっきり帰ったのかと思って。」
   頬を掻きながら言う悟に、水奈は立ち止まって、心外だという表情を見せた。
  「帰るって……せっかく悟が退院したのに?」
   悟は、彼もまた水奈に合わせて足を止めた。彼等の後ろ――玄関側では、理紗
  や紀幸、澄夜達が廊下をつまらせている。彼等の他に人がいるわけではないので、
  とりわけ、その様子に困る者はいないのだが、彼等にはむしろ、2人の様子が気に
  なっていた。
   彼女は、やや半眼になっていた。ただ、何かをじっくりと眺めるような視線を、目の
  前の男に向ける。
  「みんなであなたの退院祝いをするのに……私は、邪魔?」
  「べ、別にそう言っているわけじゃ……」
  「なら――」
   その一言を合図にするかのように、水奈は1歩、前に足を踏み出した。結果、彼
  女の前髪が悟の鼻の頭に触れるほど、2人の間隔が狭くなる――
  「なら――言って? 私のこと、好きだ……って。」
  「……………………!?」
   固唾を飲んで――それは彼だけではないはずだが――悟は、背中に何かが走
  るのを感じた。悪寒のようなものではない、熱い何かが。動悸が激しくなる。顔を
  構成している、目と鼻と皮は、それにつられてちりちりし始める。震えているのかも
  しれない。どちらにしろ、あまりの驚愕に悟は、身動きできなかった。ただ、水奈の
  後ろで理紗が、小声で何かを言っている気配が、かすかに感じられる。だが、理紗
  の姿は見えない。彼の双眸には、“彼女”しか映っていない――
   ――そして、彼の沈黙はそこで途絶えた。
  「……なーんてね、冗談よ♪」
   どおおぉっ、と何かが崩れた。その音に悟は、ハッと我に返り、玄関の方を見やる。
   そこには、床に沈んでもみくちゃになっている3人の姿があった。
  「な、な、何やってんだ、みんな?」
  「は、はは……黙って見ているつもりはなかったんだが……」
  「……残念です、先輩。最後まで見れなくて。」
  「も〜うっ、さと兄ちゃん。そこはガツンと言ってやんなきゃ〜!」
   そう、それぞれにまくしたてられ、悟は嘆息した。後ろを振り返ると、水奈が笑みを
  浮かべている。
  「ダメね、こんな単純なことでボーっとしたりしちゃ。」
   意地悪げに笑い、彼女はそう言った。つられて、他の者も笑い出す。
   そしてそれが、悟の退院祝いのパーティーのはじまりであった。
 
 
 



 

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