「ただいまぁ。」
我が家のドアを開け、口にした第一声がそれだった。
悟の家は、特別に何か厳しいなどという家風ではないが、ただ1つ、いつ、どこでも
しっかりした挨拶をするように、と幼い頃から父親にそう、しつけられた。だから彼は、
今日も変わらず帰ってきた時の挨拶をする――誰もいない我が家に。
「さと兄ちゃん、ただいまって、おじさん達は今は、留守なんだよ?」
「ああ、だからこの『家』にしたのさ。俺が帰ってきたってことを知らせるためにね。」
「ふーん……」
あまり興味を持たないというように、理紗は言葉を返した。
「いつ、どこにいても挨拶をすること。そう、父さんからしつけられたからね。小さい頃か
ら。」
「……でも、そう教育をしてきた親に、感謝するべきよ。挨拶はする方もされる方も、
気持ちいいんだから。」
悟の後ろからそう言ってきたのは、水奈だった。横に2人が並んでは歩けないほど
の狭い廊下を突き進みながら、悟は彼女の声に怪訝に思い、
「あ、あれ? 水奈、どうしてここに?」
「どうしてって……私がここにいちゃ、ダメ?」
「いや、そういうわけじゃないけど……てっきり帰ったのかと思って。」
頬を掻きながら言う悟に、水奈は立ち止まって、心外だという表情を見せた。
「帰るって……せっかく悟が退院したのに?」
悟は、彼もまた水奈に合わせて足を止めた。彼等の後ろ――玄関側では、理紗
や紀幸、澄夜達が廊下をつまらせている。彼等の他に人がいるわけではないので、
とりわけ、その様子に困る者はいないのだが、彼等にはむしろ、2人の様子が気に
なっていた。
彼女は、やや半眼になっていた。ただ、何かをじっくりと眺めるような視線を、目の
前の男に向ける。
「みんなであなたの退院祝いをするのに……私は、邪魔?」
「べ、別にそう言っているわけじゃ……」
「なら――」
その一言を合図にするかのように、水奈は1歩、前に足を踏み出した。結果、彼
女の前髪が悟の鼻の頭に触れるほど、2人の間隔が狭くなる――
「なら――言って? 私のこと、好きだ……って。」
「……………………!?」
固唾を飲んで――それは彼だけではないはずだが――悟は、背中に何かが走
るのを感じた。悪寒のようなものではない、熱い何かが。動悸が激しくなる。顔を
構成している、目と鼻と皮は、それにつられてちりちりし始める。震えているのかも
しれない。どちらにしろ、あまりの驚愕に悟は、身動きできなかった。ただ、水奈の
後ろで理紗が、小声で何かを言っている気配が、かすかに感じられる。だが、理紗
の姿は見えない。彼の双眸には、“彼女”しか映っていない――
――そして、彼の沈黙はそこで途絶えた。
「……なーんてね、冗談よ♪」
どおおぉっ、と何かが崩れた。その音に悟は、ハッと我に返り、玄関の方を見やる。
そこには、床に沈んでもみくちゃになっている3人の姿があった。
「な、な、何やってんだ、みんな?」
「は、はは……黙って見ているつもりはなかったんだが……」
「……残念です、先輩。最後まで見れなくて。」
「も〜うっ、さと兄ちゃん。そこはガツンと言ってやんなきゃ〜!」
そう、それぞれにまくしたてられ、悟は嘆息した。後ろを振り返ると、水奈が笑みを
浮かべている。
「ダメね、こんな単純なことでボーっとしたりしちゃ。」
意地悪げに笑い、彼女はそう言った。つられて、他の者も笑い出す。
そしてそれが、悟の退院祝いのパーティーのはじまりであった。
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