彼は疲れていた。
肉体的に、ではない。この2週間、歩くことすらしなかったのだ。だが、彼にとっては
歩くことさえ「できなかった」という苦痛の方が、肉体的に感じうる疲労感を超えていた。
だが、その「疲労」も今日で終いである――つまれ、共に退屈な時間を過ごしたベ
ッドに今日、ようやく別れを告げることができるのである。入院の原因が「肉体」にな
いとはいえ、大事を取るようにと、彼は黒のダウンを着込んでいる。まだ肌寒い日が
あるとはいえ、もう4月である。少々暑いか、とも思ったが、下手してまた入院するよ
りはましだろうと割り切ることにした。
今までの着替え等の荷物は、昨日のうちに父親に、車で持って帰ってもらっている。
あと残っているのは、今日の着替えと食べかけの朝食だけである。ベッドに座って、
彼は時計を見た。10時過ぎ。そろそろ家から、迎えが来てもおかしくない――
「さと兄ちゃん、今日退院なんでしょ?」
唐突にその声は、その主と共に病室へと飛び込んできた。
やってきたのは、1人の女だった――今年で18になったはずだと、彼――さと兄ち
ゃん、と呼ばれた男――は胸中で独白した。身長は160弱ほどか、彼女は水色のT
シャツにキュロットスカートと、涼しげな格好で手を腰の後ろに組み、黒のショートカッ
トを揺らしながら嬉しそうにこちらを覗き込んでいる。
「――あまり騒ぐな、理紗。悟(さとり)はまだ病人なんだぞ。」
開けっ放しにされていたドアの向こうから聞こえてきた男の声に、「ハーイ」と彼女
――理紗はしぶしぶと返事をした。
しばらくして彼は姿を現した――身長は180前後、黒の短髪にフレームのない眼
鏡は、どこか博識さを感じさせる――ブルーのボタンダウンとジーパンを綺麗に纏っ
た、こざっぱりとした青年である。年は悟の1つ上で、21歳である。
「妹がいつも世話になったな……すまない。」
「……いえ、こちらこそ理紗さんにお世話になってしまって。」
悟は、ゆっくりとかぶりを振った。
「何言ってるんだ、お前には水奈(みな)がいるじゃないか……?」
「え、なになに? みっちゃんがどうしたの?」
真面目な顔つきの男の会話に、理紗は首を伸ばして割って入ってくる。
「いい、お前は黙っていろ。」
「フーンだ、お兄ちゃんのケチ!」
「いいじゃないですか、紀幸さん。僕より理紗さんの方が、水奈と親しいんですし。」
微笑して悟は、理紗の方に視線を向けた。それに彼女は笑って応え、悟の肩に
後ろから抱きついてくる。
「そういえば……紀幸さん達はなぜ、ここに?」
「ああ、君の両親が、急用ができて迎えに来れないらしいんで、代わりを俺達がかっ
て出た、というわけだ。もうすぐ水奈も、ここに来ると思う。」
「そうだったんですか……。」
俯いて悟は、1つ小さく嘆息した。
紀幸と理紗――和泉兄姉とは、悟にとっての幼なじみである。彼が生まれた時か
ら和泉家は、後藤家――悟の家の隣であった。そのため家族ぐるみのつき合いが
長く、お互い何か困った時等は、隣に助けを求めることが多かった。
そう――例えば、今日のように。
「すいません、うちの両親のためにわざわざ……。」
「いいのさ。俺にとってお前は、弟みたいなものだ。困った時に助け合うのは、当然
のことだろう?」
「……ありがとうございます。」
「ん? ねえ、誰か来たみたいだよ?」
悟の耳元で、理紗がドアを指さして囁いた。