97年7月12日。この日は雨が降っており、「薬学概論」という頭の痛くなるような授業
  の提出レポートのための資料を探すべく、私は大学に行っていた。この時期は既に試験
  週間に入っており、大学は休みであった――が、今後の計画を考えて、私はどうしてもこ
  の日のうちにレポートを書き始めておきたかった。
   だが、目当ての資料となる本がない。既に書いたことのある友人に電話してみるが、ど
  うしても見つからない。とうとう私は諦めて、帰路に着くことにした。

   私はたまに、定期的にではないが実家に電話をかけていた。母親の話によると、1週
  間前に従兄弟の飼っていた猫が死んだらしい。死因は白血病。私の記憶上では、享年
  は(人間的に考えて)12歳だったと思う。
   その従兄弟の家は、今の私の下宿先からは近い。とはいえ、電車でしばらく揺られる
  ことになるが。大学に入って何度か、お邪魔させてもらったことがあった。初めて――私
  が小学3年の頃に会った時とはとは似つかぬ、丸々と太ったその猫を、あごを撫でてか
  わいがった記憶がまだ、真新しく脳裏に残っている。
  (そうか……死んでしまったか……。)
   だがその反面、うちのアホ犬はうんざりするほど元気だったらしい。電話で母親が出て、
  「うちのアホは元気か?」
   と私が訊くと、
  「うん、うちの長老さん、とっても元気よ。最近はお父さんがよく散歩に連れてってるみた
  いで、散歩帰りに庭の草引きする時、放してあげてるのよ。」
   やつは落ち着かない気性の持ち主である。だから「もうチッチったら、そこらへん駆けり
  回って困っちゃって」という返事を予想したのだが、
  「それがチッチったらね、最近は大人しくなって、放しても平気なのよ。それどころか、お
  父さんが抜いた草の上で寝そべっちゃって……困ったものね。」
   と言って、平和そうに笑っていた。やつも年をとったものだと、私が嘆息していると、
  「そういえばチッチね、白髪が混じってきたのよ。まつげとか。もうすっかり長老よ。」
   犬の年齢は、人間の1年が5年くらいに相当すると言われている。つまり、もうチッチ
  はここに来て8年――40歳になろうとしていた。実際、うちの両親はそれ以上だが、犬
  のそれとはやはり違うものがあるであろう。
  (あいつが来てもう8年か――色々なことがあったな。特に、散歩について、だ。)
   散歩を一体誰が行くのか、かなりもめた時期があった――その口論に勝つのは決まっ
  て妹2人で、よく私が行くはめになっていた。それでもたまに私が「他の奴が行け」とか言
  うと、
  「長い間飼ってきたから情が移ってしまったけど、私は飼うのにはもともと反対だったのよ。」
   と母親が逆ギレし始める。そして結局、私が行くようになってしまうのだが。あと、正月
  のような、祝日の散歩係は決まって私が行くという、暗黙の了解までできてしまっていた。
   そう考えていくと、父親が散歩に行くというケースはほとんど記憶にない――が、最近
  はその父親がよく行っているというではないか。どういうことか、母親(だろう)が訊くと、
  「いや、実は俺、犬が苦手だったんだ。」
   などと、照れながら意外な事実を語ってくれたという。
   私が家を離れてからは、散歩は中学通いでどちらかというと暇のあった妹2がよく行っ
  ていた。休日は母親か父親、結構ランダムで行っていたらしい。電話をした時に聞いた
  話では、その時はよく父親が行っていたという。
  (しかし――あいつに白髪が生えてきたとはね。)
   怪訝の混じった笑みを洩らすと、私は電話の向こうにいる母親に言った。
  「分かった。まあ、俺が帰るまでに老いぼれてくたばるなと伝えといてくれや。」
  「分かったわ、じゃあね。」
   笑いながらそう言って、母親は電話を切った――

   これが、ほんの数日前のできごとである。そんなことを思い出しながら下宿先に着き、
  私は腰を下ろした。くたびれ損の外出で、私はもう外に出る気はしなかった。
   が、それでも気分転換にと、私は本屋に出かけた。外出は――成功だった。当時やっ
  ていたTVゲームの特集を見つけ、私はそれに首っ丈になっていた。しばらくの間、外出
  の疲れを忘れ、快楽のひとときを過ごした。
   そして――午後5時過ぎ。
   唐突に、電話のコールが鳴った。私は重くなった腰を上げ、受話器を取った。相手は、
  妹1だった。彼女はそれこそ唐突に、こう言った。
  「お兄ちゃん。あのね――チッチがひかれた。」
   一瞬、何のことかよく分からなかった。今思えば、言っている本人である妹1も、それが
  何を意味するのか分からなかったようだ。無意識に現実逃避でもしているのだろうか。そう
  訝る前に私は、別に慌てることもなく、自然に口を開いた。
  「それで――死んだのか?」
  「いいや、意識はある。けどね――お腹に穴が開いて、血が凄かったの。お母さん、チッチ
  がひかれた時、ものすごく泣いてた。」
   その時の状況は、容易に目に浮かんだ――過去に1度、やつはひもから離れて逃げて
  いき、家の前の横断歩道を、車の走る中を駆け抜けたことがあった。それを目の当たりにし
  た母親は、「キャーッ、チッチーッ!?」とこれ以上ない大声で叫喚したのを私は見たことが
  ある。それでなくとも過剰の心配性の母親である。ひょっとしたら死ぬかもしれないという思
  いで号泣するというのは、母親であればありうることである。
   そう。「ひょっとしたら」だ。まだこの時私は、やつが死ぬだろうという考えはほとんど持っ
  ていなかった。母親はやつの容体を目の当たりにしたのだろうが、彼女の性格上、それは
  あまり当てにしないようにと私は胸中で言い聞かせた。
  「それで? その母さんは?」
  「うん、今、お父さんと獣医さんとこ行ってる。またかけるね。」
   そう言って、妹は電話を切った。私はどうしていいか分からず、とりあえずこの場で考え
  込んでも仕方ないと思い、ゲームの続きを楽しむことにした。
   それからしばらく――今度は、私から電話をかけた。電話に出たのは、妹2だった。彼
  女は声色を戦慄に満たし、おそるおそるというように口を開いた。
  「……はい、もしもし?」
  「ああ、俺だけど。」
   すると、私の声で緊張が解けたのか、妙に大きな声で、
  「なぁーんだ、お兄ちゃんか。」
   と、安堵のため息と共に言った。どうやら、獣医からの電話かと思ったらしい。それか
  ら妹は、父親に受話器を渡した。
  「ああ、代わった。何だ?」
  「チッチのことだが……容体はどうな感じ?」
  「ああ、やばいかもしれん。」
   父親のその一言を聞いて、私ははじめて現実と向かい合った。心配性な家族の中で、
  父親はその中でもそんなに過度ではない。私は懸念に思い始め、詳しく訊くことにした。
  「……で? 傷はどの程度?」
  「500円玉くらいの穴が、腹に開いている……出血もひどかった。」
   それを聞いて私は、指でその大きさを具現してみた。大きいようで、そうでないようにも
  思えた。この時は。
  「ひかれた時、最初は何だろうと思ってな……聞いたかもしれんが、最近チッチを放すこ
  とが多くてな。今日も俺が散歩から帰ってきて草引きする時、放しておいたんだ。その時
  な……あの、自転車を入れている倉庫に最近、猫が住み着くようになってな。チッチはそ
  いつを追いかけて、車道に出たらしいんだ……猫の方は、ひかれた様子はなかったが。」
   あんたのせいか?――そんな言葉の羅列が、脳裏に浮かんだような気もした。が、そ
  れは刹那の間にも満たなかった。違う。父親のせいなどではない。
  (……そうだろう?)
   妙に冷静に、私は自問した。チッチは昔から、放すとどこぞに走っていく傾向があった。
  先述の通り、そういう気性なのだ。それはやはり、年をとっても変わっていなかったらしい。
  「それでな、ひかれた――というか、跳ね飛ばされたんだが、その後に俺がチッチを抱き
  かかえてやると、あいつ、俺の手を噛んだんだ――それで何針か縫ったんだが。」
  (そうか――なら元気だ。きっと助かる。)
   それを聞いて、私は安堵した。そう、きっと助かる。
  「そして、病院で手術してきたんだ――痛みを感じないように、麻酔をしてな。チッチにま
  だ生きる力があれば、また目を覚ます。そうなるように――そこから、祈ってやってくれ。」
   相手に見えるはずはないのだが、私は黙って頷いた。「明日になればまた電話する」と
  父親は言い残して、今日はそこで電話は切った。
   それから私は、夕食を食べに外に出た。が、まだ時間は早いので、ゲームセンターにで
  も立ち寄ってからと、もういくらかやり慣れた台に着いてゲームを始めた。
   が、終わって気が付いたのだが、それはアンデッド(ゾンビのような、1度死んだ者)が
  テーマのものだった。縁起が悪いと思い、そこを出て中華店に入った。そこでの待ち時間
  の間、そこにある雑誌を読もうとページを開く。
   すると、メインキャラが死んでしまうというラストシーンの漫画が、2つも目に入ったので
  ある。気分が悪くなって、ラーメンを食い終わると逃げるようにしてそこから去っていった。
  (死ぬなよ……チッチ……。)
   心の底では隠しようのない不安を抱きつつも、私は胸中で繰り返した。
   私の先祖は、父・母方共に武士であったらしい。ずっと昔、その先祖達がいたからこそ、
  私は今、ここにいる。
   やつもそうなのだ。江戸時代も、鎌倉時代も、またずっとその前も……あいつの先祖で
  ある犬が、野良をしながらも必死で生きてきたのだ。その結果、我々はこうして同じ時代
  を生きることができているのだ。
  (お前はまだ、生きている……この世に。俺のいる、同じ場所に。)
   だから胸を張って言おう。
   俺達は、同じ時代を生き抜いた仲間だと。
   命の灯火が明滅する中、私はその夜を睡眠という普段と変わらぬ形で過ごした。

   翌朝。いつもの朝と変わっているものは、何1つなかった。いつもと同じ時間に起き、試
  験週間であるはずの時間を、今日も呑気に過ごすはずだった。
   7月13日、午前10時20分。その電話は、来た。
  「……もしもし?」
   母親だ。瞬時に私は判断した。母親の性格には、嬉しいことはストレートには言わない
  という点があった。つまり、一旦言葉を切れば、やつは助かったということになる。そう思
  いながら、私は続きの言葉を待った。」
  「……チッチね、」
   言葉を切った! 私は胸中で歓喜の声を上げた。
  「……チッチね、天国に行ったから。」
   しかし、彼女は陰りのある声で、だがはっきりとそう言い切った。
  「……そうか、死んだが……。」
   悲しみよりも、正直予想が外れたという落胆が強かった。そんな感覚に陥り、私はそう
  言葉を洩らした。
  「うん、お母さんは昨日、さんざん泣いたから今はそうでもないけど……さっきね、獣医さ
  んの所に行って、火葬してきたの。他の犬達と同じお墓に、共同墓地に葬ったから。ど
  こかの野良犬みたいに、ひかれたままの無惨な死に方じゃないから。安心して、ね。」
   私は母親の言葉を黙って聞いていた。言葉はさらに続く。
  「それでね。お父さんが言うには、『これはチッチが、車に気をつけろって教えてくれてる
  んじゃないか』って。だから、あんたも車には十分気をつけてね。」
   どこで電話を切ったかは、はっきりと覚えてはいない。だが、やつの死によって普段や
  たらと明るい家族が、骨をぬかれたように沈鬱しているようなこと、あと私の試験が近い
  こともあって、試験が終わるまではこのことはあまり伝えたくなかったなどということを聞
  いて、私は受話器を置いた。
   それから私は、力なくベッドへと倒れ込んだ。うつぶせになって。煩悶というほど悲しく
  はなかったと思った。それでも、いつものような気分にはなれない。
   気が付くと、ベッドのシーツが薄く濡れていた。泣いたという実感はなかった。確かに、
  眠気がさしてあくびをした時に出る涙に比べてもずっと少なかった。だが――
  (……死んだ、のか……、チッチ……!?)
   それ以上、涙は出なかった。が、それ以上笑えもしないまま、その日は過ぎ去った。

   それから2、3日。
   家族は、一向に暗い雰囲気のままらしかった。私もまあ、そうと言えばそうだったが。
   チッチが死んだ翌日、もう1度電話があった。無論、家族全員が沈鬱のままであると
  いうことを聞かされた。散歩でもめた時に怒っていた母親が1番泣き、犬が苦手だと言
  っていた父親が1番寂しがっていた。いつも常人には考えられない気力に満ちあふれて
  いる妹達も、未だ立ち直れてない。普段1番元気な妹2にとって、やつと過ごした8年
  間は、当時16歳だった彼女にとって、実に半生のうちの半分ということになる。私もし
  ばらく、いつもの元気は出なかった。
   が、1つ大きな試験が過ぎ、私は家に友人を呼んで楽しんでいた。その日、あれから
  初めて、「笑った」と言えるような笑みを見せた。
  「もしもし? ああ、俺だけど。」
   出たのは父親だった。私は普段のような口調で訊いた。
  「どう、そっちは?」
  「ああ、もう、家中暗くてな。妹達ですら、元気がない。」
   そう言っている父親本人も、そういった様子だった。私は短く嘆息して、
  「俺、な。今日、あれから初めて笑ったんだ。」
   その言葉に、父親は怪訝の反応を示したように思えた。私はそのまま、続ける。
  「だからさ、みんなも早く笑った方がいいよ。それがあいつのためにもなるんじゃない?」
   私の、その言葉が原因でかどうかは、未だに知らないが、それから何日かして、よう
  やく普段らしい家族に戻れた。私も何とか、その夏の試験を乗り越えることができた。
   珍しく私はテレビを見ると、なぜか獣医の――ある家族の長年飼っていた犬の病気
  を視る獣医の番組があった。その犬は享年17歳でこの世を去り、ブラウン管を通して、
  我が家のように悲哀に満ちた家族の様子が見えた。その中で、その家族の主人という
  人が言っていた。
  「我々は、共に楽しい時を過ごさせてもらった犬に感謝せねばならん。」
   これは、うちの父親も言っていたことだ――そう、私はチッチに感謝しなければならな
  い。
   昔は――今もそうだが――特に短気だった私にとって、やつの存在はとても大きな
  ものだった。他人に対する慈しむ心。動物をかわいがるという愛護心。人間として、最
  も大事なものを、チッチは私に与えてくれた。
   もともと動物・子供は好きな方だったが、おそらくチッチという存在に出会っていなけ
  れば、ここまで私の人間性は成長しなかったろう。未だ短気と罵られ、迫害され続け
  ていたかもしれない。
   それは妹達、家族にも言えることだ。あいつのことで、いろんな問題が起きた。が、
  それを解決することによって、家族がまたさらに団結されたはずである。
   いつも呑気に昼寝して、散歩して、我々と時を過ごしたチッチ。だが、やつはもうこの
  世にはいない。
   せめて、もう1度だけ会いたかった。冬の約束が守れなかったことだけが、残念でなら
  ない。
   だが、私も、いつかは必ず死ぬ――いつか必ず、やつと再会する時が来るのだ。そ
  の時やつはしっぽを振って、私の所に走ってくるに違いない。その時こそは今までの
  想いを込め、やつを抱きかかえてこう言いたい。
  「ありがとう、チッチ。」と。

                              愛犬チッチ・完 
   
 



 

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