アインシュタインの相対性理論によって、時間が遅れたりするらしいことは大抵の方がお聞きになったことがあるでしょう。しかし、これは信じがたいことです。私も、きちんとした授業で、きちんとアインシュタインの論文を始め、その他の参考書を読むまでは絶対に間違っていると思っていました。ところが、そうではなく、数学の一理論と同じ程度の堅固さをもって展開される理論、そして時間の再定義。確かに信じるに値する信憑性のあるものだと考えざるをえなくなりました。
私としても特殊相対性理論の授業を終えたばかりで(1999年9月現在)、以下の内容に誤り、その他不確かな点が含まれている可能性は否めません。なんとなく分かったふりをして、まとめてみたいと思います。それらを踏まえて読み進めていただきたく思います
相対論をご存知でない方は、時間などの概念の著しい変化を求められることは間違いないと思います。ただ、それを、「常識と反するから」あるいは、ある人が言っているように、「遅れた時計は狂った時計であって、もはや時計と呼ばない」などと短絡しては相対論を見失います。アインシュタインは「物理に役に立つ時間の定義」を与えたのであって、その意味で与えた時間が以下に示す二つの原理(相対性原理、光速度不変の原理)と自明と思える仮定から遅れたりもすることは確実であることをチェックしてください。
今回のnoteの目標は、「絶対的な時間」という概念を払拭することと、アインシュタインが選んだ仮定が如何に正当かを示すことです。実際どのぐらい時間が遅れるかどうかは、数式が多少必要なのと(といっても、中3レベルですが)、いろいろいじって話を展開させたいので、別のnoteにまとめました。
さて、時間とはなんだろうか?すぐ時計と思い込んで、「時間が遅れる=時計が遅れる」なんて時計が狂っただけだろうと思い込んでしまいがちですが(私もそうでした)、時計とは何かになってきます。知り合いの哲学屋さんが教えてくださったように、時間が循環するものと捉えた人もいれば、私たちの普通思っているように直線的である、あるいは映画みたいにコマ送り、はたは分岐したりしているのではないか?ともいろいろ創造できます。それは置いておいて、まぁ確かめようも証明のしようもないですけど、「時間とはある出来事と出来事の間隔」であると割り切ってしまいましょう。
当然、私たちの感覚は、その出来事と出来事の間隔になにやら違いがあるように感じます。つまり、太陽が見え始める出来事から太陽が沈む出来事までの間隔、太陽が15°動く間隔とでは、どうも違いがありそうだと感じます。そこで、長さがある「ものさしの何倍か?」で比較できるのと同じように、時間にも単位が必要なのは(あるいはあった方が便利なのは)わかります。さて、このものさしは何を使えばいいか?砂時計(上部にある砂がすべて落ちるという間隔)、一定のながさのろうそくが燃え尽きる間隔、脈が60回打つ間隔、その他いろいろ考えられますが、どう考えても、どうやらなにやら周期的な現象を基準に考えることがしっくりきます。そして、脈よりはろうそく、それよりも砂時計、それよりも水晶振動子(時計などで用いられている)など、より正しく周期的だろうと思える周期現象を基準に取りたいとも思います。さらに、十分の精度で周期的だろうと思える二つの現象は、その現象はもう一つの現象の何とか倍という間隔を常に保っているようにも観測できます。繰り返しますが、十分に周期的だと思える出来事を基準とって、その周期のカウント数で時間を定義しようというわけです。
普通の方は、「まぁ、そう定義、測定してもよかろうなぁ」と納得してくださるでしょう。しかし、こういう疑問も湧いてきます。例えば夜に、すべての十分に周期的だと思える出来事の間隔が誰かによって昼の1/2に調整されていたら?事実そうなっていないとはいえませんし、そうであるともいえません。すべてが狂っているのですから…。このことに関してファインマンはこう結論しています。
我々がせいぜいいえる事は、ある一種の規則性が他の種の規則性とうまく合うというだけのことである。我々が時間を定義するのには、何か周期的と見える現象の繰り返しにその根拠を求めているということだけは言えるのである。ファインマン ファインマン物理学T
これで、一地点における時間を定義しました。まとめれば、十分に周期的であると根拠のある現象が何回起ったかをカウントし数値化する時計があればそれでよいでしょう。結局のところ、私たちの日常の定義になりましたが…。注意すべきは、同一地点でしか定義されていないということです。空間自体をちょこっと説明します。
ある現象は観測者によって大きく違ってきます。エレベータの紐がきれたその中にいる人にとっては静止して見えるりんごも地上にいる人から見れば落下(加速度運動)しているように。それで、これでもやはり基準が必要になってきます。アインシュタインの第一論文における基準系は、ニュートンのそれを拝借したような格好になっています。常識に考える空間内に、x,y,z座標を決める伸び縮みのない棒がそれぞれ直交しておいてあります。そして、その原点に観測者(あなた)がいるわけです。そして、目の前に力を受けていると考えられないボールが等速直線運動(同じ速さで直線に運動)をしている時、それを 慣性系と呼び、以後の理論の基準とします。厳密にいえば、等速直線運動かどうかは、速さつまり、2点間の時間を比べないといけませんが、非常に近い2点間を調べることに近似的に測定して同じ速さならそれでよしとしましょう。さらに、力を受けていると考えられないという状況が実際にあるのかどうか、力すら定義していないので知る由もありませんが、経験上、力と考えられるものをすべてとっぱらったら、ある基準の観測者からみれば、同じ速さに見えるでしょう。それを基準とします。
さらに、長さと時間に関していえば、空間内のどの点でも、理想的なものさしを動かしたって伸び縮みなく、時間の間隔(例の一サイクル)も同じテンポであることも仮定します。現実にそんな基準系(慣性系)があるのかどうかは分かりませんが、近似的にはあるといえるでしょう。
厳密に書きすぎましたが、細かい議論がいやな人は(これ読んでる時点でいないと思いますが…)何にもない宇宙空間(星などによる重力の影響も何もない)にx,y,zの棒を直交するように立てて、観測者である自分はその座標原点にいて観測するのだと考えてもいいでしょう。そんな、自分に対して、x',y',z'の棒を直交させたやつが等速で動いて見える場合、x',y',z'で規定される基準もまた慣性系であることを付記しておきます。
重力の影響も考慮したものが一般相対性理論です。ここでは、その影響がない、あるいは十分に少ない空間の話(特殊相対性理論)です
先ほど、1点における時間の定義をすることができました。同様にして、同一慣性系内のすべての点に対して同じ性能を持つ時計(これは一カウントが同じ間隔であることを意味する)を配置します。さて、慣性系内の時間の一様性(どこでも同じ間隔である)の仮定から、その時計の間隔はすべて同じテンポでしょう。さて、そのカウント数で数値化された各時計の時刻(あるいは目盛り、針の位置!?)を全部同じにしないと、どっちが先か後かはわかりません。どうやって、針を合わせましょうか?時計を動かさずに(動かしたら時計のテンポがずれるかもしれません。事実ずれるのですが…)。また、仮定を入れます。光の速さcはいつでもどこでも(真空中)一定であり、2点間の往復の際の行きと帰りの時間も等しいとします。これもまた、常識的に正しいとおもわれるでしょう。で、座標原点の観測者の時計(以後親時計)の針の位置にあわましょう。親時計の時刻aのときに、光を、合わせたい点Bの時計に発射します。点Bについたとき、点Bの時計の針の位置bを記録してすぐに親時計に反射させます。親時計に帰ってきたときにa'であったとします。もし、ここで、b-a=a'-bであったとしたら、この二つの時計は時刻も含めすべてあっているとします。もし、あっていなかったら、光がBに到着したのは時刻t=a+(a'-a)/2(発射時刻+往復の時間/2)であるはずですから、b-t単位時間だけBが進んでいることになります。だから、Bの針の位置をb-tカウント分戻せばいいのです。この操作を親時計を基準にすべての時計に対して行います。これで、この慣性系の人から見る限りにおいて、空間内の各点にはいちされたすべての時計は同じテンポ、同じ針の位置に調整されました。
この時刻の合わせ方については、なにも光を使う必要はありません。つかったのは、行きと帰りの時間が等しいこと、どの点でも速さが等しい(これは一定の長さについて一定のカウントであることを意味する。長さの定義もしていないゆえにここでも近似的に成り立つこととすればいいのかもしれない)ことしかつかっていない。その慣性系にまったく無風状態、密度一定な空気をとって音波を使って針の目盛りを合わせてもよい。または、各点が同じ性能のピストルを持っていて、その弾丸を用いてもいいのかも!?しれない。
長い道のりではあったが、なんとか基準系である、慣性系内の時間と空間を定義できたことになるだろう。ここまでの議論においてたくさんの仮定があったが、それらはどれも感覚的に自然なもの、あるいは近似的に納得のいくものだったはず。特殊相対性理論において特に目立つ2つの重大な仮定を説明し、同時であるという概念が絶対的なものでないことを示そう。
相対性理論のその第一公理(公理…簡単にいえば理論を展開する上での仮定)である相対性原理について説明する。
ところで、左と右を覚えた子供が直面する謎の一つは、相手と向かい合ったとき「右手を挙げて」というと、相手は自分から見て左の位置にある手を挙げることだろう。それは違うと思い、相手の側に立って自分もやってみると確かにその通りである。混乱する。この文章をお読みの方なら誰でも、左手と左手の位置的なものは本人によって違うからだとすぐに気づかれていると思う。この子供の話はさておき、一定地域の人にとって上下は誰が見ても変わらない絶対的なものである。上は空の方向であり、下とは地球の中心への向きである。見方と広げるとこれもまたすべての人にとって同じでない事が明らかになる。自分と地球の裏側に立っている人の上下の向きを考えてみればそれはあたりまえである。どうやら、上下と左右は相対的なようである。つまり、絶対的な基準がないのである。
物理において、アインシュタインが提唱した相対性原理は次のようである。
互いに他に対して一様な並進運動をしている、任意の二つの座標系のうちで、いずれを基準にとって、物理系の状態の変化に関する法則を書き表そうとも、そこに導かれる法則は、座標系の選び方に無関係である。
アインシュタイン 内山龍雄訳 相対性理論 岩波文庫
慣性系のところで説明した通り、重力などの力の影響が全くないような、なにもない宇宙空間に宇宙船が同じ速さで飛んでいるとする。その宇宙船に乗っているそれぞれの人において原点を決定して観測のためのx,y,z座標を持っていることにする。そして、多数の宇宙船が同一直線上にそって、異なる速さで等速で動いているとする。この中にいる観測者にとって、動いているかどうか分かりようがない。
もっと、分かりやすくするために、あなたが今車にのり、高速道路をノンストップで、いつも同じ速度で"移動中"だとしよう。それで、窓を閉める(風を消す)、振動が消える、運転が自動運転になる、これでもだめなら、周りが真っ暗になる。さて、あなたはどうやって自分が動いていることを証明しようか?加速していれば、後ろに押さえつけられるから分かる。しかし、速度は一定なのである。水をついてでも地上と全く同じであり、飲んでもそうだ。
同様に、どんな宇宙船でどんな実験をしようとも、物理法則は全く等しいということである。言葉を変えれば、そのような等速な運動(等速直線運動)をしている宇宙船の中で、物理の実験だけをすることによって、誰が動いているかどうかを判別することは不可能であるということになる。さまざまな速さで、等速直線運動をしている宇宙船たちの絶対的な速度を定めるのは不可能なのである。要するに、どれを基準ととればいいの?
なんとなく、そうなりそうではあるが、確かにそうであることの証明はなんだろう?アインシュタインは、証明など必要ない、これこそ物理法則を書き表す上での指針にすべきであることを宣言したのである。いわば超越原理ともいうべきであり、すべての物理法則を拘束する。事実アインシュタインはこれを指導原理と呼んでいる。
さて、ここに、すべての宇宙船の中で同じように成立する(言い換えれば相対性原理を満たす)物理法則があったとする。物理の法則なんだから、時間と位置に関する何らかの方程式だろう。さて、Aの乗った宇宙船とBの乗った宇宙船から、同一の現象を観測してみよう。A君の観測というのは、A君の時間、その現象の位置や動いた距離などで、B君の観測もまた、B君の時間、位置、距離などである。A君とB君は動きが違うのだから、その現象に対する観測位置が違うことはあたりまえである。しかし、この現象に対するA君の観測したデータと、B君の観測したデータを相対性原理を満たす物理方程式に代入してみるとすべてあってるということになる。そうすると、当然、A君の時間、位置とB君の時間、位置は何らかの関係があるだろうということになってくる。B君の時間や座標をA君の時間や座標で表すことができるのである。
このように、相対性原理とそれを満たす物理法則の組み合わせは、宇宙船同士の時間や位置の規則までも決定する。アインシュタインは、ここで、相対性原理を満たす物理法則として光速度不変の法則を採用することになる。
光速度不変の法則
光速度不変の法則こそが、相対性理論の第二の公理であるが、アインシュタインがこれを公理に選んだわけを少しみてみよう。簡単にいえば、光はその源に関係なく同じ速度で広がるというものであり、光が波の性質を持つと知っている人にとっては、かなりあたりまえに思えるかもしれない。波は媒質に対して同心円状に波源に関わりなく広がっているからである。光(電磁波)と音波との違いについては後述する。光速度不変の原理を巡って考えを巡らせて見よう。
アインシュタインのころ20年の歴史を持つ、電磁気学の結果からすれば電磁波、特に光は一定であるという結果が導かれる。これは一体何に対して一定速度なのだろうか?音波と同様に、それを伝えるもの(媒質)にであるに違いない。それで、光を伝える、仮想物質エーテルの存在が仮定された。恐らく、これに対して光は一定なのだろうと。このエーテルは何に静止しているのか?もっともらしい結論は宇宙の重心であろう。そうなれば、地球はこれに対し運動しているはずだから、光に関する(あるいは電磁気学に関する)実験によって、地球の宇宙の重心に対する(正確にはエーテルに対する)絶対速度が、後に述べる音波の例に出てくる人のように決定できるはずである。つまり、電磁気学の(マクスウェルの)物理方程式は相対性原理を満たさないとみなされていた。
それもそのはず、200年の歴史をもつニュートンの運動方程式とその方程式について相対性原理を満たすような、変換規則(ガリレイ変換)はすでに完成されていたし、そしてニュートン力学は輝かしいほどの成果をあげていた。しかも、変換規則は絶対時間によるかなり”自然な”ものだったのである。しかし、マクスウェルの方程式は力学の変換規則によって相対性原理を満たさないのである。歴史、標準的な時間の概念、成果の面、その他においてニュートン力学に軍配が上がっていた(かのように見えた)。
始めに考えつくことは、電気現象に関しても相対性原理を満たすのであって、最近現れた新参者のマックスウェルの方程式がなにかまずいところがあって、相対性原理を(ガリレイ変換で)満たさないのだろうと考えることである。それにならって、相対性原理を満たすようにマックスウェルの方程式を修正した。すると…今度はおこり得るはずもない電気現象が起こるべきであると修正した方程式は主張する。
そうなれば、マクスウェルは正しいのだ。力学(ニュートンの)は相対性原理を満たすけれども、電気及び光学現象は満たさないのだろう。つまり、電気、光の現象に関しては絶対的な基準系というものがあるにちがいない。それでは、絶対空間、あるいは光の媒質エーテルに対する地球の絶対速度を求めたいということになる。
例を挙げて、絶対速度の検出の仕方を考えよう。光以外にも、源に関係なく広がる例は他にもある、例えば、音波。音波はその媒質空気によって音速が決定される。そして、空気が静止しているように観測できる観測者からみたときに、同心円状で広がりながら一定の速度で広がっていく。この観測者からみて、ある速度で運動してる人から音波を観測してみよう。この人にとって空気はその運動と逆向きに風のように過ぎていく。空気に対して一定である音波は、この人の観測によれば、一定なわけない。自分が動いていることを分かってしまう。光に関しても、空気のような媒質エーテルがあって地球がその中を動いているのだから、自分が動いていることを検出できるだろうということである。
結果はというと、惨敗である。すべて失敗に終わる。地球の絶対速度はなんと0なのである。実験のたびにそれを説明する考えを付け加えていった。外の人から見て速度vで進んでいる人の棒の長さを外の人が測定すると縮んで見えるローレンツ収縮などもその一つである。エーテルは地球に引きずられているとかいう考えもあった。しかし、実験のことあるごとに修正の考えを追加しなければならない。あらゆるエーテルの検出実験は失敗する。これは、まるで、自然がエーテルを見つけられないように共謀しているとしか思えない。…いや、まて。違う。見方を変えれば、それこそが、絶対空間(静止エーテル)などなく、マックスウェルの方程式こそが、そうニュートンの方程式ではなく、マックスウェルの方程式こそが相対性原理を満たす自然の姿なのではないか!それに気づいたアインシュタインは、相対性原理を物理の大前提とし、マックスウェルの方程式から導かれる一つの結果光速度不変の法則を、相対性原理と組み合わせる物理法則として、採用することにしたのである。
このことは、ニュートン力学の歴史と実績を考えれば大胆なことだといえる。感覚的に分かるようにニュートン力学を相対性原理を満たすように働いた座標の変換法則はもう崩れ去る。光速度不変の法則が相対性原理を満たすように変更されるのである。ニュートンの運動方程式も今度はこの新しい変換法則が満たされるように修正しなければならない。いや、全物理学法則をこの変換規則が満たされるように修正しなければならないのである。そして、修正したニュートンの運動方程式は、マクスウェルを古い変換規則によって相対性原理を満たすように修正したときに出てきてしまったような、実験とあわない結果を予言しなかった。むしろ、今までのニュートンの運動方程式は光の速さより小さいなら無視できるほどの近似式であったことが示されるのである。
光速度不変の法則を、また彼の論文から引用しておく。
ひとつの静止形を基準に取った場合、いかなる光線も、それが静止している物体、あるいは運動している物体のいずれから発射されたかには関係なく、常に一定の速さcをもって伝播する
アインシュタイン 内山龍雄訳 相対性理論 岩波文庫
光速度不変の法則とは、光が音波や他の波のように、波源に関わりなく発せられた、その点から同心円状に常に一定の速さで広がることをいっているにすぎない。概念の変化が必要とされるのは、それが相対性原理を満たすとするときである。まとめれば、
光はどんな慣性系の観測者から見ても、波源に関わりなく常に一定の速さで同心円状に広がる
述べてきたように、光の変わりに音波などを採用することはできない。音波が相対性原理を満たさないことは容易にわかる。空気に対して動いている観測者と静止している観測者では音波の速度は異なる。光にはそんなことが起りえないのである。エーテルをあえて存在するというのならば、エーテルは次のような性質を満たさないといけない。「エーテルは、いかなる慣性系に対しても静止して見える」。ある慣性系に対して、エーテルが静止して見えるとする。その慣性系に対して一定速度で動いている観測者にとっても、エーテルはまた静止しているように見えないといけない、というのである。なんじゃ、こりゃ!?おのおのの慣性系自体がエーテル(光を伝える性質)だと同一視してももはやかまわないのではないか!?ということになる。すでに述べた通り、光速度不変の法則を相対性原理を満たす物理法則として採用することは、さまざまな実験事実、そしてマクスウェル方程式の成功などによる十分の根拠があるといえると思う。
さてさて、このように長く説明したのは、この二つの公理が如何に自然をよく現わすためのものであるかを示すためで、これからおこる変な事柄への心の準備をさせるようなものである。まとめてみると、アインシュタインは相対性原理を物理法則を記述する超越原理として定め、そして、これを成立する物理法則の代表として光速度不変の原理を持ってきた。さてと、上記二つの公理を持って奇妙なことが起きることを調べてみよう。思考実験をする。箱型の車がある。その中央にライトを置いておく。車は一定の速さで右へ運動しているとしよう。イメージ化を容易にするために、それは夜で真っ暗であったとする。あなたは、車に乗っているとする。さぁ、実験を始めよう。ある瞬間にライトをぴかっと光らせる。あなたにとって、ライトは中央にあり、かつ光速度は不変なんだから、そのライトを中心として同心円状に光は広がっていき、闇に同心円状の球がひろがってゆく、車の右の壁と左の壁に届く瞬間は同時であるはずである。さて、その同じ現象をあなたの分身が地上で見ていたとする。この慣性系におけるあなたの分身にとっても、光はライトの速さに関係ないのだから、光を発した瞬間のライトの点から同心円状にひろがっていく。当然広がっている間車は右に動いているのだから、最初に左の壁に光は届く。その次に右の壁である。
事の重大さはお分かりだろうか?観測者によって、同じ現象に対する同時である観測が異なるのである。同時の絶対性が崩れ去った今、もはや観測者によっては時間のテンポが遅れるぐらいもはや驚かないであろう(!?)し、非常識なこととして切り捨てたりもしないであろう。実際、どの程度の遅れているのか?それは他のnoteに任せることにして、今回はこのぐらいで終えておこう。
相対性理論をすぐわかると銘打つ解説書は、あまりにも、相対性理論の非常識的な結果を前面に出しすぎているようにおもえる。(もちろん、いい解説書もあるが)上記二つの重要な仮定のろくな説明もせずに、認めろ!、そうしたら、時間が遅れることは示そう、と。それだけを知っていた高校時代は、はぁ?時間が遅れる?時計が遅れる?時計が壊れているだけだろう?相対性理論は間違っている。と短絡した。時間は概念であって遅れたりするもんか!と。時間は概念であるという立場を取る以上(そして、その概念は大抵の人にとって絶対である)、時間は遅れたりはしない。あたりまえである。しかし、しかしである。物理においては概念である、その時間を数値化して、その数値(時刻)で物体の位置を記述することが、目標となる。アインシュタインの第一論文においても、絶対的な周期性のようなものを仮定しているようだ。絶対に周期的かどうかは、上述した通り確かめようもないものだが、経験は十分に周期的であると思っても良い根拠を提供してくれている。特殊相対性理論の示すところは、その周期が観測者によって違う。ただ、それだけのことである。先生の言葉を借りれば
あなたの前後に人が立っていて、前の人があなたの顔をみるが、後ろの人はあなたの顔が見えない。「大変だー」と騒ぎますか?
ふと、ついでに物理理論について考えてみた。数学理論については、自分なりの考えがあるが、物理はいわば専門外である。しかし、私としては、物理理論は次の二つの条件を満たすべきではないか?と思われる。
これは、私が勝手に考えたことであって、異論もあるだろうが(個人的にはそんなにないと思うけど)、これらを特殊相対性理論が満たしていることは明らかだ。今まで議論してきた事柄は、かなり自明と思われるものだったし、異質な光速度不変の原理は、すべての実験事実が圧倒的な証拠となっている。そして、これらから演繹される事柄は事実とよくあうのである。これは、すごいことではないだろうか?
相対性理論を勉強するときには、まず、絶対時間という概念を上で述べたように少しずつ定義することによって破棄し(物理で役立つ時間を導入し)、相対性原理と、光速度不変の法則がどうして理論の前提として持ち上がったのかを、歴史的背景と、さまざまな実験結果を考えて、理解する必要があると思う。
相対性理論が間違ってると騒がれているが(すでに物理学自体の中では相対論は古典のようだが)ある物理理論が間違っているとはどういうことなのだろうか?アインシュタインによって否定されたニュートン力学は間違っていたのか?間違っているといえば、そうかもれないが、語弊があるとおもわれる。だって、いまだに高校ではニュートンの力学を教えられているし、光の速さに程遠い日常生活に力学が必要なときニュートンで十分である。(これに相対性理論なんかつかったら面倒くさい式を駆使しなければならない)。私はこう思う。物理が自然を記述するモデルを構築する学問であるとするならば、ニュートン力学よりは、特殊相対性理論の方がより自然に合うモデルであった。そういうことだろう。そして、将来、相対性理論よりもより自然にあうモデルが発見され続けるだろうことも期待したい。事実、アインシュタイン自ら、特殊相対性理論より自然に合う一般相対性理論を見つけた。しかし、これもまた、ニュートン力学や特殊相対性理論の価値が消えるわけではないだろう。人間の創造性の賜物として、数学が完全にストップすることがないように、物理もまた自然界をよりよく記述するモデルが現れるように、この自然ができているのではないかとさえ思う。完全に自然を記述するモデルができれば、それで物理は完成なのかもしれないのだから。
多くの物理学者は、相対性理論より合う自然のモデルが将来発見されるかもしれないことは認めているようだ。だから、今は相対性理論が間違っていると主張するよりは、その新モデルの構築に力を注いだ方がましだろう。ただ、相対性理論の内部の演繹過程に落ち度を見つけて直そうとしても無駄であろう。それは数学的記述によって堅固であるからである。やるべきことは、上記にもたっくさんいれたさまざまな仮定の検討と、仮定の修正、そしてその修正による演繹が全く矛盾なく整合であり、実験で証明すること。アインシュタインは、ニュートン力学に対して、まさにこのことを行ったのである。これは、勝手にSFチックに概念をあそばせて仮定を導入してできるような代物ではない。(先生の言葉を借りれば)物理学法則相互に凝集性があるからだ。つまり、互いが絡み合ってどれ一つが欠けても成り立たないようになってる。ニュートン力学は、それはそれで、互いに絡み合っており、特殊相対性理論もまた互い同士支えあっているからだ。
もしできることなら、誰かによって新たに概念の見直しが行われて、新モデルができ、その自然により合うモデルは絶対時間を回復してくれたなら…と思う。(無理だろうなぁ。もう時間遅れて観測したって変な感じはないけど)
一番初めのは、アインシュタインの第一論文で、かの有名な先生の翻訳と非常にわかりやすい解説がついている。この本の目的は、文学作品が訳され多くの人に鑑賞されるように、アインシュタインの非常に簡明で理解しやすい展開を物理学を志すもの以外の人にも鑑賞してもらうことであるとしている。この訳がまた名訳で、訳であることを忘れさせてくれるほど。解説も多く理解を助ける。
ファインマン物理学は時間の定義に関しての考察が明快であったので、納得させられたその考えを拝借した。ファインマンは非常に分かりやすく説明することの上手な人であるから、物理に関係のないでも抵抗なく読める一冊(特に時間のところはなんの物理知識もいらない)。
最後の本は"話題の"本である。話題というのは、「もし本書を読んでも、これが理解できないようなら、もはや相対性理論を学ぶことはあきらめるべきだろう」とまで言い切っている。反相対性理論の本にもたたかれていた。しかし、そう断言するだけあって、内容は非常に分かりやすい。
講義を聞いてからまとめのつもりでいろんな本をあさったら相対論が自然なものになってきた。それにしても、講義をしてくださった先生は、本当に明快な講義をしていただいた。この講義なしでは相対論を全く理解できなかっただろう。本当に感謝したい。今回の内容には、アインシュタインの前のローレンツやポアンカレの活躍を書くことができなかったが、他の参考書を参照して歴史をうめていただきたい。