学校帰りなんかはよく、私はやつの相手をしていた(いや、されていたという方が正し
  いか)。自転車を入れる倉庫の横にやつの寝床(つまり、犬小屋だ)があるので、相手
  をせざるをえなかったのだ。かといって、そのままやつを無視するとうるさいほどに吠えま
  くる。さすがにそれは近所迷惑となりかねないので、仕方なく遊んでやるのである。主人
  に似てアホなくせに、こういう所だけやけに知恵が働く(それこそ主人とうり二つである!)。
   また、やつはこの「倉庫」がやけにお気に入りであった。毎夏やってくる台風で、やつの
  寝床は必ずフッ飛ばされるのである。そのため我々は仕方なく、チッチを倉庫の中に入
  れてやる。するとやつは、倉庫に足を1歩踏み入れた途端、しっぽを振って大喜びするの
  である(しまいには、大雨が降って倉庫に入れようと我々が外に出た時既に反応を示し
  ていた)。何たって倉庫の中は、やつにとってパラダイスであった――の下のスペース
  は、それこそやつのためにあるようなものだったし、そこに無造作に置いてある古びた毛
  布(もちろん、やつ専用である)の上で寝るのは、この上ない快楽であった。他にも遊び
  道具となりそうなものは多々あり、自転車のペダルにじゃれついたり、チェーンを舐めた
  り(!?)して、とにかく落ち着かずにはいられない状況が、倉庫の中では見られた。
   しかし、ここでもやつのアホっぷりは発揮されるのである。「雨に濡れないため」の倉庫
  であり、別に塗れネズミになっても構わないのなら、倉庫に入れてやる必要はないので
  ある――が、やつは何をトチ狂ったか知らないが、なぜか倉庫の扉をわざわざ開けて、
  そこから出るようなマネをするのである。
  「暑いんだったら、顔1つ覗かせてやりゃいいんだが?」
   そんなことを思って我々は、何とかやつを倉庫の中に閉じこめようとするのだが、どうし
  ても外に出てしまう。暑いのなら、と考えてほんの少し隙間を作ってやると、そこに小さな
  前足をカリカリいわせてねじ込むのである。それからある程度開くと、今度は鼻先を突っ
  込んでそのまま開けてしまう。
   とうとう我々は最終手段に出て、完全に扉を締め切った――そして窓からやつの様子
  をさぐるのだが、性懲りもなく開けようとしているやつの姿が、ガラスでできている倉庫の
  扉を通して見えた。
  「あいつ、本当のアホや。」
   妹2人は口々にそう言って、ハァァとかぶりを振ったのであった。

   そして、時は経ち――私が大学入学のため、実家を離れる時がきた。
   浪人時代も自転車帰りの時、やつはよく、くたくたの私を遊びに誘ってくれた。
   そしてまあ何とか1年でケリを付けることができ、晴れて大学生となることができたので
  ある。
  「チッチ、お前ともまあ、しばらくお別れだな。」
   そう言って私は、別れの握手ならぬお手をしてやった。やつはいつもと変わらぬ顔をし
  ていた。私が家を出た翌日も、その次の日も――きっとやつは、呑気な生活を送り続け
  るだろう。
  「じゃあな! また夏に会おうや。」
   そう言い残し、私は空港に向かった――見送ってくれたかどうかは知らないが、やつは
  それから私のいない実家で、思った通り呑気な日々を過ごし続けた。
   そして夏――私は実家に帰ってきて、真っ先にやつの所へ行った。もう日が暮れて、
  やつは眠りこけていた。私はサンダルを履いてそっとやつの方へ近づき、頭を撫でてやっ
  た。
  「よう、元気にしてたか?」
   するとやつは眠いのか、あまり反応を示さなかった。いつぞやの2泊3日の家族旅行か
  ら帰ってきた時、やつはちぎれんばかりにしっぽを振っていたのだが……予想外の反応
  に、私は肩すかしを食らった感覚に陥った。
   そしてまた下宿先に戻り――私はそこで考えた。
  (チッチが来て……いや、チッチが生まれてもう7年目か。俺が大学卒業すると11年目。
  ひょっとしたら、俺がこっちにいる間にやつは――)
   その先はあまり考えたくなかった。しかし、出会いあれば別れもまた、必ずあるのだ。
  その日はいつか、いやでも必ずやってくる。
  (でもまあ、100年は生きそうな連中ばっかりの家族だし……そこの犬となると、それな
  りに長生きするよな。16、7年は生きるっていうし。)
   そして冬――再び私は帰ってきた。今度は1日あけ、帰った翌日の昼にやつと再会
  することにした。
  「チッチー! 生きてたか、おい?」
   そう駆け寄るとやつは、きょとんとした表情を改め、甲高く鳴いてしっぽを振ってきた。
  ペロペロペロペロと手を舐めてくるやつの頭を、「よしよし」と言って私は撫でてやった。
   そして短い冬は終わり、また下宿先へ帰ることとなった。今度帰ったら、目一杯遊んで
  やりたい。そう思って私は車に乗る前に、再び別れのお手をした。
  「チッチ――もう1度会おうな。」
   その言葉の意味が分からないといったように、やつはいつものような呑気な表情を見せ
  ていた。父親が車の用意をするまでのしばらくの間、私はやつをずっと見つめ続けた。

   そして――それが、私が見た最後の、チッチの姿であった。
   
 



 

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