プロローグ

      田舎という所は、何たって気持ちがいい。日本、いや世界中のどこであれ、田舎と呼ば
     れる所は住んでいて気持ちがいいものである。
      都会に住む人間達は、都会の空気に慣れてしまっているようだが、そんな人間でも田
     舎の空気というものは、心地よいものに感じるものである。
      辺り一面に広がる緑、澄んだ青空、透き通った空気――田舎にあるもの全てが、人に
     とってあまりにも純粋で、自然なものに思われる。
      だが、そんな好環境においても、人はやはり病に冒されるのである。
      ここ、広島のとある田舎町も、その例外ではなかった。
      何となしに歩いていると、気にもとめずに過ぎ去ってしまいそうな小さな病院。
      小さいという他に、四つ角の隅っこ――それも、一番端ではなく、何となく隅と思える様
     な所――にあるというのも存在感のなさを引き出していたが、実はこの小さな病院が、小
     さな田舎町のたった一つの医療所であった。
      この病院――中川医院の院長(とはいえ医者自体、院長の他にはいないのだが)の、
     中川卜生は、いつものように歯ブラシをくわえ、自分でも狭っ苦しいと思うほどの庭に出て、
     天気のいい朝を満喫していた。
      四十代後半であるはずのその男の顔は、ストレスというものを感じた事がないのか、誰
     が見ても三十半ばのものに見える。彼は歯を磨きながら、自分の足元で巣を造っている
     蟻に視線を落とした。自分達が掘った穴から出ては入り、出ては入り……そんな蟻の姿
     を、中川はまるで幼児の様に、歯を磨く事すら忘れて一生懸命目で追っていった。彼はこ
     の歳でなお、幼児の様な澄んだ心を持っているのである。
      そんな中川には、この歳でまだ子供がいなかった。
      人格がよく、近所からも評判の院長は、嫁のもらい手がなかったわけではなかった。彼
     は、結婚をしなかった――いや、したくなかったのだ。
      中川には子供はいないが、養子(の様なもの)が一人いた。その子は六歳の時に、交
     通事故で両親に死なれ、その子と遠い親戚に当たる中川がひきとったのである。
      その子は、正確に中川の養子として入籍してこそいないが、しかしただそれだけで、実
     際は養子となんら変わる事はなかった。
      神薙という、自分とは別の姓を持つその子を男手一つで育てた中川は、今更結婚したと
     ころでどうした、と思ったし、何よりその子――名を司という――にとって、継母という、急
     で不思議な存在を造りたくなかったのである。
      そう想い続けて結局、四十七となった今、大学を卒業して既に一年経つ司の帰りを、一
     人で小さな古い病院で待っているのだ。
     「親父の様な医者になりたい」――そう言って息子は、八年前、医学部進学志望を父親
     に願望した。そんな息子の願いを中川は、嬉々として聞き入れたのである。
     「ところで、お前はどこの医学部に行きたいんだ?」
      父親の質問に息子は、“大学案内”という本をパラパラめくって適当に止め、
     「えっと……この、慶応ってとこでええや。」
      ブッ
      普段、並大抵の事では決して取り乱す事のない冷静な中川は、飲んでいた緑茶を思わ
     ず吹き出してしまった。
     「慶応って……お前、そこがどのくらい難しいのか知ってんのか?」
     「何? 慶応ってムズいんか?」
      息子の、あまりといえばあまりの発言に、父親・中川は脱力感に襲われた。中川は、医
     者としての腕は一級品だが、自分の母校である大学は、医学部の中では国内ワースト一
     ・二を争う様な所だった。
      しかし、そうよくない大学に入ったところで、その時点で医者としての向上は絶望的とい
     う事は決してない。それは、中川が身をもって示している。その逆として、いい大学に入っ
     ても、そこでいい医者になれるという約束はされないのである。
      中川は、その事を息子に言ってやろうと思ったが、難易度を知らないとはいえ、折角慶応
     に行きたいと自分から言ってきた息子を引き留める様で悪いと、あえてその場は黙ってお
     いた。難しいと知ったら、それはその時から頑張ればいい事なのである。
      しかし、それだけならばまだいいものの、試験当日、昼頃に息子からこんな電話が入って
     きた。
     「おう、司か。今は昼休みか? どんな調子だ、試験の方は?」
     「親父……すまん、寝坊して試験受けられんかった。」
     「 …………………………………………。」
      息子のその一言が父親を、世界中の誰もがフォローしきれない状態に追いやった。中川
     は、目の前が真っ白になってしまい、力なく受話器を戻した。
      そして数日後、とんでもない事をしでかした割には涼しげな顔で帰ってきた息子を、中川
     は無言で迎えた。そんな息子に対してしばらく何も言えない日々が、しばらく続いた。
      そんなある日、ある程度気持ちが治まった中川は、息子はあまりにも試験の出来が悪か
     ったので、それを冗談っぽく「試験受けられんかった」と言ったのではないかと思いはじめ、
     その事を訊いてみる事にした。
      が、しかし。
     「あ、寝坊の事? いや、あれは本当の事やけど。俺、長旅に疲れて眠たかったんじゃ。そ
     れよか親父、俺は試験に自信がなかったわけじゃあないんじゃ。その証拠として、ほら、国
     公立の試験がまだあるじゃろ。そこの山口でも受けてくるけえ。もち受験料は俺持ちで。い
     や、次は寝坊せんから。な?」
      返ってきたのは、恐るべき事実と、説得力ゼロの理由、屁理屈だった。それに対して中川
     は、無言で応えるしかなかった。
      そして、山口大入試当日。司は、その日のうちに帰ってきた。宿代も全て自費だったので、
     一泊二日しかできなかったのだ。
      帰ってきた息子に、出来の方を訊いてみると、多分受かったという返事が返ってきた。
      慶応ほどではないにしろ、山口大も医学部はかなり難しい。中川は、息子の出来をあまり
     期待しなかった。
      しかし、そんな父親の予想を裏切るかのように、司は見事合格した。ここでもいいじゃない
     かと、中川は息子を説得しようとしたが、寝坊の借りは必ず返すと、司は耳を貸さなかった。
      そういうわけで、司は浪人生活を始めたのだが、これがあまり……というより、ほとんど勉
     強せず、同じ予備校に通っていた親友の西村冴樹をしょっちゅう遊びに誘っては夜遅くに帰
     っていた。
      中川も、そんな息子を一時は心配したのだが、あいつは誰も見てない所で勉強してるさ、
     とその想いをすぐに氷解させた。何より、息子の性格は誰よりも自分が一番よく知っている
     のだ。
      そして一年後、見事慶応の医学部に合格、神薙司は晴れて医者の卵としての第一歩を歩
     み始めたわけであった。
      ――それが、七年前の話。
      去年に大学を卒業して以来、まるっきり息子の消息がつかめず、中川は、ただひたすら息
     子の帰りを待つしかなかった。
     「しかし、電話の一本もないとはな。」
      特に心配しているというわけではないが、初めての電話本数年間ゼロが、何か中川にとっ
     て息子の身を案じさせるものとなっていた。
     「これが子供の、親からの独立って奴か。」
      思い慣れない事を思い、父親は思わず唇を緩ませた。
      しかし、司は中川の病院でしか働きたくないと、入試前にしつこいほど言っていたし、大学
     在学中にも電話でいつもそのことを言っていた。
     「あいつが自分の想いを曲げるとは考えられねえしな。」
      自分に似て、息子はおっちょこちょいな所がある反面、性根はしっかりしていた。
     「まさかどっかに就職したって事は……ないだろうしな……ひょっとして、女にでも溺れてん
     じゃないだろうな、あいつは?」
      ある意味、間違ってない想像をしながら、中川は今日もまた、パジャマ姿で診察室の掃除
     を始めた。
 
 
 


 
 
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