第4章・全ての医者が敗れる時

      夜道が涼しくて、気持ちいい。まだちょっと興奮の熱が冷めてないからかもしれない。
     そんな事を考えながら、神薙は予定より遅い帰路に着いていた。
      あの後。キャッドについては後日改めて話すという事で、法井が姿を消したその直後、
     久池井が両手に食料を抱えて帰ってきた。酒も持ってきたかったが、研究室の中でもし
     もの事があったらいけないからと、久池井は残念そうな顔をして神薙にとりあえず(酒の
     代わりに買ってきたらしい)つまみを勧めた。それはどうあれ、酒が苦手な神薙にとって、
     酒がなかったのは正直、彼には好都合だった。酒好きな西村が聞くと、「バチあたりな」
     と言われそうだが。
      しかしそれでも、久しぶりに再会した話で盛り上がって久池井は嬉しそうだったし、神
     薙も久々に熱くなれた。そんなわけで、普通なら冷えるはずの春の夜道は、彼にとって
     はほどよい、涼しいものであった。
      彼は少し広めの通りに出て、今ではもう見慣れた、青い字で書かれてある看板のか
     かった薬局屋に入っていこうとした。ここの家族であれば、勿論、表玄関から入るもの
     だが、彼はここから出入りするのが好きだった。薬局屋の主人の娘である、真崎奈瀬
     には、彼が出ていく時には店の戸を開けておく様にと、いつも頼んである。
      ――
     「……あれ?」
      普段なら開くはずのその戸は、いくら押しても開かなかった。押してもだめなら……と
     彼は引いてみたが、結果は同じだった。
     「おかしいな……やっぱ、帰るのが少し遅すぎたか……。」
      神薙は仕方なく、頭を掻きながら表玄関の方へときびすを返した。と、そちらへ近づく
     につれて、何やら話し声が聞こえてくる。
     「客……か?」
      それも、単なる客ではないと、彼はすぐに洞察した。話し声と共に、笑い声まで聞こえ
     てくる。それに、あの彼女と話して笑えると――それも、長時間である。まさかこの時間
     にそんな人物がわざわざこんな所を訪ねては来まい――なると、その人物は至極、限
     られてくる。大学の同期か、とも彼は一瞬考えたが、それは少しまずかった。今彼が、
     真崎と同棲しているのを知っているのは誰一人としていない。よって、それが知られると
     一気に同期間に広まって――
     (何が嫌かって、久池井さんにどうひやかされるかが一番嫌なんだよなぁ。)
      地獄絵図(?)を想像しながら、神薙は胸中で毒づいた。
      しかし、いつまでも客が帰るのを外で待ってもいられない。覚悟を決めて、彼はドアの
     取っ手をつかん――
     「……あれ?」
      言葉を洩らしたのは、彼ではなかった。
      中から真崎がちょうど外に出ようとしていたのとはち合わせになったらしく、それに驚
     いて彼女が思わず声を出してしまったのである。
      だが何にしろ、驚いたのは勿論、彼女一人ではなかった。
     「な、何だ? 俺がここにいるっての、分かってたのか?」
     「う、ううん。別にそんなんじゃないの。ただ、単に外へ出ようと思って。」
     「外って、どこへ?」
     「デート。」
     「デート?」
      聞き慣れない単語に、神薙は目を丸くした。しばらくして、はっと気付く。
     「ま、まさか、お前にもとうとう彼氏ができたのか……世紀末だ……。」
     「何、わけの分かんない事言ってるの、かんちゃん。」
      頭を抱えて小さく、不気味にわめく神薙を、真崎は半眼で一瞥した。そしてすぐに話題
     を変える。
     「ま、いいか。食事は人数が多い方が楽しいしね……ボクもたまにはかんちゃんのいな
     い所で、リッチな食事でもしよっかな〜と思ってたんだけど。」
     「……お前こそ、何をわけの分からん事を言ってるんだ?」
     「ん? 珍しいお客さんが来たから、一緒に外食でも楽しんでこようかと思って、ね。」
     「客……そうそう、さっきお前、誰かと話してたな、あれって一体誰なんだ?」
     「ん〜? さぁって、誰なの……かな?」
      真崎は、意地の悪そうな笑みを浮かべて、首を傾げてそう言った。それを神薙は、本当
     に意地の悪いものだと思い、思わずヘッドロックでもして吐かせてやろうかと思ってしまっ
     た。何しろ、彼自身の存亡がかかって(?)いるのである。彼の苛だたしさは、すぐに頂点
     に達してしまった。
     「いいから教えろ、誰なんだよ!」
     「誰なの……かな?」
      それでも彼女は、変わらず笑みを浮かべるだけである。
     「はよ教えかい、このくそアマ! どうしても言わないのなら、力ずくでも吐かせてやる――
     「俺なら、さっきからここにいるけど?」
      その声――神薙の、背後から聞こえてきた声――に、彼は敏感な反応を示した。
      とはいっても、別に後ろを振り向くとか、そういった類の反応ではない。頭に上っていた
     血が、瞬時にして引いていく。つり上がっていた眉も、落ち着いた表情を見せる――
      顔を見なくとも、後ろの人物が誰かというのは理解できた。どんな格好をしているのかも
     分かる。彼のお気に入りのスタイル。セロリアンブルーの、着古したジーンズ。
     「怒ったりして、そんなに真崎の事が心配なのか?」
     「冴樹!」
      はじめて神薙は振り返り、彼の親友の名を口にした。久しぶりの対面に、自然と表情を
     ほころばせる。が、すぐにそれを怪訝なものとし、
     「ちょっと待て……何でこいつの事が心配で、俺が怒らなくちゃならんのだ?」
     「何でって、俺に嫉妬してたんじゃなかったのか、お前?」
     「嫉妬……?」
      質問を質問で返され、神薙は眉をひそめ、その言葉をじっくりと胸中で反芻した。しばら
     くして、今その事に気付いたという表情で、再度質問する。
     「あれ……そういや、何で怒ってたんだっけ、俺は?」
     「……ま、いいけどな。」
      薄く笑みを含んだ声で西村は言うと、ドアの前で立ちつくしている真崎に向かい合った。
     「なあ、真崎。司も帰ってきた事だし、今日は食いにいくのはやめとかないか。外でもそり
     ゃ楽しいけど、あまり騒げないしさ。勿論ここでも近所迷惑になっちまうけど、家の中って
     のは、外とじゃ勝手が違うだろうし。真崎とはさっきまで色々話したけど、こいつとも話した
     い事ってあるしさ。どうする?」
      西村はそう、真崎に促した。どこか雑で、おっちょこちょいな神薙と比べて、西村という
     男は説得がうまい。彼には、自分にはない言葉の威力がある事を、神薙は昔から知って
     いた。
     「……そうだね。家の中だと、好きなことできるもんね。それに、今からだとそう長く店には
     いられないだろうし。」
      彼女の腕時計は、九時前を指していた。つられて神薙も彼自身の腕時計を見たが、そ
     れは既に九時を過ぎている。真崎のとは、ほんの五分違いであるが、時計を少し進めて
     おくのは、彼の習慣である。神薙は、研究室を出た時間をふと思いだし、こんな事ならも
     う少し早く帰るんだったと後悔した。多分、西村はすぐに広島に帰ってしまうだろうと、彼
     が旅行か何かで東京に来たものと(この時は)思ったのである。神薙は、自分の研究に
     口うるさい真崎と顔を合わせたくないがために、わざわざ大学に行って、かつこんな時間
     まで久池井に付き合わせていたのである。もし久池井の帰りを彼が引き留めていなけれ
     ば、もう一時間は早く帰れていた。
     「そういや冴樹。お前、いつまでここにいるんだ?……っていうか、よくここが分かったな。」
     「ここにこれたのは偶然だよ。東京には、今日も入れて、二週間いる予定だ。最初は、十
     日間くらいにしておこうかと思ってたけど。」
     「二週間? そんなに?」
     「ああ、真崎がここに泊めてくれるって言うから。あ、それと、こっちに来た理由だけど――
     のわっ?」
      そこまで言って、西村は体勢を大きく崩した。途中で言葉を切られたから――だけでは
     ない。誰かに押されたのである。彼と話していた神薙も、いきなり玄関に向け、強く押さ
     れていた。
      言うまでもない、真崎にである。
     「はいはい、男同士、話は楽しいでしょうけど、こんな所じゃなんですから家の中にでも入
     ってゆっくりして下さいな。」
      言いながら彼女は、両手で一人ずつ、ガンガン押し込んでいる。神薙と西村の二人は
     押されながら、あまりの彼女の力強さに恐怖にひきつった顔でではあるが、それでも話
     を続ける。
     「ぬおっ? お前、前から思って、たけど、力あるな!」
     「……クッ、司、この分だと、お前、結構真崎に、尻に、敷かれてんだろ?」
     「な、何か言ったか、冴樹?」
     「い〜から入れ〜っ!!」
      真崎の気合い(?)と同時に、男二人が吹っ飛んだ。勢いあまって、彼等はそれぞれ悲
     鳴をあげる。彼等が家の中に入ったところで、「ったく」と毒づきながら真崎は勢いよくドア
     を閉めた。
      そしてそれが、三人にとっての久しい、そして最後の、楽観的な時間の始まりであった。
 
 
 


 
 
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