第2章・医学王朝

      ここは、東京の、とある豪邸。
      豪邸といっても、見渡す限りの広い庭を持ち、数十階立ての超弩級――というわけで
     なく、一般の人がこの家の前を通りすがると、「ああ、これは豪邸だな」と思える程度のも
     のである。つまり、これといったすごい豪邸というのではないのだ。ただ、その豪邸の後ろ
     には、それと同じくらいの大きさの病院が建っていた。その豪邸の付属の病院が。
      しかし、その大してすごくはない豪邸の主こそが――いや、正確にいうならば五年前ま
     での主だが――七年前、あの二十世紀後期に人間を脅かせた難病・エイズの治療法を
     発見した人間なのである。
      エイズの治療法を発見した当時、元々医者の名門であった明智家――この豪邸の主の
     姓である――は、その時から自分の家系を自らメディカル・ディナスティ』――医学王朝、
     と名乗る様になった。
      そして現在、五年前に没した初代の後を、二代目の明智秀治が継いで医学の最高峰を
     歩んでいるというのは、実はあくまでも世間から見た彼の姿であった。
      そう、あくまで世間体の話である。
      よくある話だが、“初代が優秀、二代でガタガタ、三代続けばブッ潰れ”のあれである。彼
     も、才能こそはあれど、下手な野望を持つがためにそれを生かしきれない人間のうちの一
     人であった。それだけならばまだ月並みなのだが――
     「東大出の医者以外は、医者に非ず。」
      この、彼の口癖が、ただですらない医学界での人気をさらに少ないものにしているのであ
     る。
      そして、さらに悪い事に彼の長男である樹――つまり、ゆくゆくは三代目となる人物――
     も、父・秀治に習って東大出の悪役医者への道を一直線に進んでいるのである。
      だが、悲しいかな――当然この事は近所の評判となるわけだが――何しろ初代が初代
     である。あの偉大な初代の血を継いだ親子なら、いつか必ず偉業を成し遂げるだろうと、多
     々と悪評はありながらも、すぐに何処へと流れ、消えていくのであった。
      しかし、そんな近所のひそかな期待も虚しく、頭のいいバカ親子は、ある物にしか興味を
     持たなかった。
      金である。
      さらに悪い事に、悪役の分際で名声にも興味があった。
      頭がいい割には、あまりにも月並みな悪業しか考えてないが、父に、祖父にノーベル賞
     授賞者を持つこの親子は、悲しいかな案外あっけなくこの悪業を成し遂げてしまうのであっ
     た。
      時には講演会、またある時には大手の病院視察――ただそれだけで、この二人は自分
     達の満足感を得る事ができた。亡き初代の威光を掲げるだけで。だから本当にしなければ
     ならない、満足感の得方を全くしなかったとしても結果は恐らく同じ事だろう。実際、この親
     子はそれを殆どしていなかった。
      だが、このバカ二代目、秀治には流雲という、もう一人の息子がいた。歳は二十六、現在
     自分の家にある研究室で研究にのめり込む生活を送っている――そう、彼は父・秀治とは
     似ても似つかぬ、真面目な息子なのである。
      といっても、しかし研究熱心というところ以外は祖父である初代とも似てはいなかった。早
     い話が、彼は明智家には珍しい、大人しい人間なのである。
      彼、流雲は父や兄とは違い、東大出の人間ではない。彼は、どこか堅苦しそうな東大出
     の人間にはなりたくなかったのだ。また、父や兄と同じ大学を出ると、彼等と同じ、金と名声
     だけにしか興味を持たない人間になってしまうのではないかと、医者としての向上心をなく
     す事を彼は恐れた。しかし、そんな医者への想いが強い流雲も、父や兄に、彼等の行いを
     戒めさせるだけの勇気、もとい力がなかった。
     「僕の言う事など、父さんや兄さんが聞き入れてくれるはずがない。」
      独白しながら流雲は、今日も一人研究室で医学研究に励んでいた。力がないとはそうい
     う事なのだ。自分達の下にいる者、つまり東大出でない流雲の意見など、金と名声でしか
     人を区別しない父と兄が聞き入れるはずがなかった。これが一つ。
      もう一つは、流雲自身の問題であった。普段は医学にあまり触れていない父と兄だが、
     東大を主席で卒業した彼等がその気になれば、自分の医学に対する知識・能力なんて彼
     等に通じるはずがない――この、流雲自身の自信のなさが父・兄と自分との差を生み出し
     てしまっているのである。しかし、そうでこそ流雲は、医学は二の次と考えている父と兄の
     才能を惜しんでいた。
     「父さんと兄さんの二人が本気で研究に取り組めば、キャッドの治療法だってきっと分かる
     はずなのに。何故その素晴らしい才能を生かし切らないのだろう……。」
      痛惜と。嫉妬と。研究室に一人佇む流雲は、窓から悲しい視線を透き通った広い青空に
     向けた。
 
     「かんちゃん、一体何やってんの?」
      朝食を済ませた神薙が粉薬の入った袋をカサカサやるのを、真崎は側にある柱に背を預
     けて尋ねた。
      神薙はしばらく――食堂の隣の、居間にあるテレビから聞こえる、アナウンサーの、「今
     日のキャッド情報は……」と言う声を聞きながら――応えなかった。が、何かに気が付いた
     かのようにして顔を上げ、
     「見りゃ分かるだろ、薬剤研究だよ。」
     「よく飽きないなぁ、そーゆーの。そんなの、普通は薬学科の人がやるもんでしょ? かんち
     ゃんは薬学科に行きたかったの?」
     「アホ。医学と薬学は紙一重だろ。お前、本当に医学部卒業してきたのか? 大学が面倒
     になって逃げてきたんじゃないだろうな?」「アホはかんちゃんの方だよ。大学の卒業式で、
     かんちゃんの隣りに座っていた人を覚えてないの?」
     「う〜ん……イカリ肩でごっつい、口やかましくって恐ろしい女だった様な覚えがあるなぁ…
     …。」
     「どんな人だって?」
      真崎は、台所に置いてあった包丁に、何気ないように、無表情で手を伸ばした。
     「いやな、料理が上手くってショートカットの似合う、ちょっと童顔だけどかわいい女の人って
     言ったんだ。」
     「え? あ、ああ、そんなにいい女性(ひと)だったっけ?」
      思った以上の事を言われ、真崎は神薙から視線をそらし、包丁から離した手を赤くなった
     顔に持っていった。
     「でもって、お世辞に弱いんだ。」
      神薙がそう言った途端、真崎は顔から手を離し――神薙に対する視線を鋭くする。
      だが、彼女が睨み付けた時には既に、神薙はその場から消えていた。
     「……逃げ足の速い奴!」
      真崎は口を尖らせて、神薙の置いていった粉薬の袋を指で摘んで独白した。
     「ったく……研究用の薬を提供している人に向かって何て事言うんだろうね、かんちゃんは。
     しかも台所で研究だなんて……少しは明智って人を見習ったらいいのに。」
     「ケチを見習え?」
      真崎の独白を聞いていたのか、廊下の陰から神薙が顔を出した。
     「ケチじゃない、あ・け・ち! あの名門の医者の息子って人!」
     「ああ、あのメディカル・ディナスティっていう、恰好つけた連中の事か?」
     「恰好つけじゃあないじゃない。現に、その初代って人がエイズの治療法を発見したんだか
     ら。」
     「発見した後でそう名乗り始めたんだから、恰好つけって言うんだよ。」
      神薙は、廊下の端に立っている柱に背を預け、ズボンのポケットに手をつっこんだ。
     「それでも。医学のために毎日世に貢献しているじゃない。確か、かんちゃんとたった三つ
     違いなんだよ、あの人って。」
     「三つ違えば立派な大人だ。」
     「かんちゃんだって、大人じゃない。」
      別に、言い合って負けたという風ではないが、神薙は一瞬口ごもった。うつむき、咳払いを
     一つして、もう一度真崎の方を見て溜息をついて、
     「そういう意味じゃなくてな。三つも歳が上なら、できる事だってより大人らしくなってくるって
     言ったんだよ、俺は。」
     「ボクだって、歳が三つしか違わないのならできる事だってそう違いがないって言ったんだよ。」
     「あーっ、もう!!」
      神薙はたまらず、頭を抱えて叫んだ。「こんな奴と話しているのが、そもそもの間違いなのだ」
     と、そう思いながら体中を脱力感に襲われ、その場にへたりこんでしまった。同時に、最後に
     大きな溜息が口から洩れる。
     「何やってるの、かんちゃん? あ、そうか。どうせまた、ボクみたいな人にこんな事言われて
     悔しいとかって言うんでしょ! 甘いぞ、ボクだって言う時には言うのだ。まいったか、かんちゃ
     ん。」
      そう言って真崎は胸を張り、勝ち誇ったように笑い出した。
     「……いいねぇ、バカは平和で……。」
      その場にへたりこんだままの神薙はさらに脱力感に襲われ、「今日の研究は中止だ」と思
     いながら、とうとうその場で眠りこけてしまった。
 
 
 


 
 
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