プロローグ

      彼は満悦していた。
      だが、他人から見れば彼が置かれている状況は、限りなく不幸なものだろうと思うに違
     いない。しかしそれでも、彼にしてみれば至高の幸福なのだ――
      発電所の地下。以前起きた原因不明の爆発により、地上のどこかと通じたそこは、外
     界にさら晒されて間もないというのに、まるで風化したかのように壁はもろ脆くなってしま
     い、土くれと変わらぬ姿となって周りの土砂と共に崩れてしまっている。そしてそれは、
     彼の身体の大半を覆い被さってしまうようになっていた。
      当然彼は、動けない。年はもう、七十を数えてしまったのだろうか? そう自問してしま
     うほど、彼はもうろう朦朧としていた。そんな彼に、土砂崩れの中から這い出るほどの力
     があるはずがない。だが、それでもいいのだ。むしろ、その方がいいのかもしれない。
      これも当然のことなのだが、土砂崩れが起きてから、彼は何も食べていない。ほとんど
     寝てすらもいない。もともと華奢な体つきな上に、高齢がたたって体力もろくにないのに、
     それでも彼は元気であり、満足だった。自分の手に、自分の望みの物がある限り。
      それは、一つの機械だった。文字を打つキーボードと、その出力を現す画面からできて
     いるその機械は、通称『ビューア』というものである。世に出始めて五年もたたない、まだ
     高価すぎて普及もままならないその機械が、なぜかこの地下の中、数多くあったうちのこ
     の一つだけが機能を失うことなく、こうして地上の電力を得て使うことができた。彼がこの
     地下に通じる穴を見つけ、それを偶然発見して使い始めた矢先に、地下室の壁が土の重
     みに耐えきれず、崩れてしまったのだ。
     (だが……たかがそんなことが一体、どれほどの苦痛に思えるものか……)
      空腹も、慣れてくれば苦にならない。身体から放つ異臭も、全く気にならなくなった。ボロ
     切れのような衣服は、今になって廃れてしまったのではない。自分を覆うこの土も、考え
     方を変えれば、母なる大地の一部にくるまって寝ているようなものだ。一体、これ以上の
     幸福かつ光栄が、どこにあるというのか?
      だがそれは、所詮は苦肉の発想であり、言い訳であった。この状況がいいはずがない。
     いつ命を失うかもしれないのだ。自分の望みが叶った代償に受けたこの罰に、自分は言
     い訳をしているのだ。ただ自分が今、幸福と思えるのは、そんな懺悔の感情よりもこの機
     械でどれだけ楽しめるかという好奇心が強い、ただそのためである。
      そして彼は、今日もその機械の電源を入れた。原動力である電力は、地上の発電所か
     らひいてあるので、途絶えることはまずないだろう。少なくとも、自分が生きている限りは。
     (この機械と。そして儂の知識さえあれば! どんな苦痛も感じぬ。儂は満足だ――)
      胸中でそう独白し、彼はキーボードを叩いた。同時に画面が切り替わり、やがて――そ
     れは『世界』を映し出す。そしてそれから、彼は『世界』を検索していくのだ――
     (そう……これこそが……儂の望み。儂の至福……。)
      次々に移り変わる画面の『世界』に、彼は刮目した。目的のものを探すために、画面に
     映るもの全てを取りこぼさないようにと、必要以上に顔を、画面に近づける。そんなことを、
     ここに来てからの間、彼はずっとしてきた――
      ――そして。
     「……………………っ!?」
      声にならない声を出し、彼は驚愕した。そして顔を、震える手で覆い始める。ここに来て
     声を出したのは、これが初めてだった。体力温存のため、彼が本能的にやってきたことな
     のだろうが、その本能を超え、彼は自分の幸運に戦慄した。
     (見つけた……見つけたぞ、遂にっ! これでまた、儂の野望の実現に、大きく一歩近づ
     いたのだっ――!)
      あまりの嬉しさに双眸からは涙が溢れ、身体の中を巡る血潮は、久しく熱くなっていく。
     それからしばらく頭を抱え震えていたが、やがて我に返り、再び彼はキーボードを叩き始
     めた。
     (見つけたぞ……連中の中に。儂の『世界』に入り込んで来る奴を!)
      動悸と共に激しくなる手の動きは、それほど長くは続かなかった。彼は手を休め、画面
     を確かめて深い笑みを浮かべた。
     (さあ、来い……儂の『世界』の中へ。もっと深く、入ってこい……)
      上の方で、少し土砂が崩れる音がした。しかし今や、それは彼の耳には入ることはなか
     った。
 
 
 


 
 
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