第7章・世界樹の葉

     「『世界』には、二つの魔法がある。感情の『巫術』と存在の『魔術』──」
      ラグナロク終戦後、どちらかといえば裕福な時代に生まれてきた自分にとって、それはも
     はや神話のようなものであった。
      そういえば、家族は今、どうしているだろう。家を飛び出してから、もう五年がたとうとして
     いる。妹は今年で成人だ。何か贈り物でもした方がいいだろうか。
      だが、もう自分の存在は忘れ去られているかもしれない。だとしたら、つまらない思い出
     も忘れてほしいものだ。自分を裏切った、あの思い出も。ラグナロクのように、忘れ去られて
     しまいたい。
      ラグナロク。世界を引き裂いた、世紀の大戦争。
     同じく神話のように語り継がれる、酷くつまらない戦争。『世界』を、人間を滅ぼした、人間
     の手によって始められた争い。
      その最中、生まれ出たものが二つあった。『魔法』という概念と、それを機械に組み込む
     『魔道具士』。
     「それは適切ではない。概念というよりは、『魔法』という新次元──」
      だが、そのうち『魔道具士』は、戦乱の終焉と共に、いずこかへと消え去った。
     「新次元の薄脆化と共に、神の使徒は存在を追われた──」
      かつては広すぎた『世界』。それはラグナロクによって、全ての命に等しく分けられた。
      動物、植物、人間、鳥、昆虫、魚──微生物だけは相変わらず逞しく生きているが。一つ
     の大陸に封印された人間種族は、五十余年をかけて『世界』を修復させた。
     「あの爆発の中心が、この大陸であった。ただそれだけのこと。戦火の中心であった、この
     大陸からあの爆発は起きた──」
      そして復活した『世界』。だが、滅んだはずの人間は、今なぜ存在している?
     「それは──」
 
      次に受けたのは、衝撃だった。幼い頃、公園に遊びに行って、乗ったブランコからまっ逆
     さまに落ちた時に受けたそれと、よく似ていた。
      だが、それと異なるのは、その後なお、身体が宙をさまよっているということだ。ブランコ
     から落ちたら、もう地面とご対面するしかない。
      摩擦に伴う熱と音が非定期的に繰り返され──やがて身体は、飛ぶのをやめた。
      起きあがれるだろうか。摩擦熱だけでもダメージは十分にあった。それでなくとも、爆発を
     この身に受けたのだ。血塗れ程度ではすまないかもしれない。その上、身体を引き裂かれ
     たのだ──
     (──引き裂かれた?)
      彼は訝った。引き裂かれたのなら、もう死んでいるはずだ。
      なのに、思考ができる。感覚も残っている。自分は今、石畳の上にうつ伏せになっている
     ということはすぐに知れた。自分はまだ、生きている。
     (それなら──起きあがれるはずだ。)
      彼は、渾身の力を振り絞って起きあがった。そして、辺りを見回す。
      そこは、表広場だった。遠くには、あの大きな噴水が見える。四つの身体が、自分を囲む
     ようにして倒れていた。その近くに、自分が運んできた『セルフ』も見える。辺りにはやはり
     兵士の姿はなく、下界と繋ぐ駅は、静かに隅に佇んでいる。
      痛む身体を押さえようと、彼は両手を動かした。そして、初めて自分の身体を見る。
      傷は、一つたりともついてはいなかった。いつの間にか、痛みも消えている。いや、もとか
     ら痛みなんて感じていなかったのかもしれない。確かに他の四人とも、傷らしいものなど見
     あたらない。
      それから何かを思いかけて、彼は思わず瞠若した。当たり前すぎて気付かなかった──
     (──まさか。もう日は完全に落ちたはずだ!)
      彼は改めて辺りを見回した。一方角に集まるビル群。それに囲まれるようにして佇むクリ
     スタル・タワー。自分の足下に倒れているのは、まぎれもなく彼の相棒である。青空の下で、
     それらがはっきりと、見て取れた。
     (夢じゃ、ない──じゃ、なぜ──)
     「なぜ、明るいのか──とでも言いたいのか?」
      爆発の直前に、彼の耳元で囁いた声が、再び彼の前に現れた。
     「アルテ=フィールドハウト……貴様のことだけは、全く分からなかった。」
     「……まるで、それ以外なら何でも知っているってな言い方だな?」
      相手を射抜くような視線を投げつけ、覗き込むようにアルテは顔を傾けた。
     「そう……私は『世界』の全てを知っている。貴様以外のこと全てを。」
      漆黒と、鮮血の混じったようなマントをはためかせ、その老人は静かに応えた。
      実際、アルテはその男が直立しているところをほとんど、見たことはなかった。背丈は百
     九十センチを超え、胸囲は自分より一回り大きい男。早い話が、六十近いはずのその老
     人は、自分より全体的に大きい体躯の持ち主だった。それが今は、鎧や小手、具足といっ
     た防具を身につけているため、もう一回り大きく見える。ただ、兜は被っていないが。
     「私は全てを知っている……あの大戦乱の行く末も、『魔法』の存在意義も。」
     「……そんなモン知ってて、何の得になるってんだよ?」
     「貴様がレジスタンスの娘と師弟関係になっていることや、貴様の相棒が『ビューア』を通
     して反旗を翻していることも、平和という一時の安息に憧れ、兵士がこの場から消え去った
     ことも、全てだ。」
     「っな……!?」
      声を出して、アルテが戦く。そしてその驚愕は、衝撃となって彼を襲った。
      十メートルほど飛ばされて、しかし受け身を取り、さほどダメージは受けなかった。だが精
     神的な恐怖は残り、足取りを重くさせる。
     「平和という名の世界、と言ったな……まんざら、幻想のものではないかもしれんな。十年
     をかけて築き上げてきた私の野望を、あっけなく打ち砕いてくれたのだから──」
     「てめぇ……俺の『世界』を覗き見してやがったってのか!?」
     「そんなことをする必要はない。私に『ビューア』など、必要ない。」
      微動だにせず、ただ口だけを動かして紅眼の老人──スルトゥルは、静かに呟いた。
     「だが、私の知らないのは貴様の『全て』だ──貴様という人間が見えない。」
     「俺が……見えない?」
     「なぜ、今が明るいのか訝っていたな?」
      スルトゥルは、全く関係のないことを言ってきた。
     「ほんの少し、時間を戻させてもらった──とはいえ、我々がいる『ここ』の状況とは、全く関
     係のないことだが──」
     「……つまり、単に明るくしただけっていうのか?」
      アルテの言葉に、スルトゥルは感嘆の笑みを浮かべた。
     「珍しく洞察力が冴えているではないか。」
     「リーゼは……彼女達は、死んだのか?」
     「気にせずとも、皆無事だ……ただ、貴様ほど強靱な精神力を持っていないだけだ……。」
      呟いて、右手を振り払う。日光を浴び、白銀の小手がきらめいた。
      そして、それが合図となったかのように、四人が一斉に起きあがり始めた。頭を振り、うめ
     き声をあげながらも立ち上がる彼等は、しかし状況がまだ把握できておらず、ただ全員、惑
     うように辺りを見回している。
      ただ、アルテは安堵の表情は見せなかった。変わりにまた一つの、疑問が新たに浮かん
     でくる。
     「つまり……どうやって『巫術』を使ったか、ということか……相手に触れることなしに、四人
     相手に、だ……。」
      笑みを浮かべるスルトゥルを前に、再びの驚愕という感情を、アルテは必死に押し殺した。
     そうしないと、相手のペースに引きずり込まれるような気がしたのだ。
     「空間を操る『巫術』は知っているな? つまりは、それと同様のことだ。空間を媒体にし、相
     手に触れる。このことは、そこの娘にも指南してやったが……」
      言って、リーゼを見やる。彼女の姿は半分消えていた──と思いきや、残り半分が、空間
     に溶け込むように、スウッと消える。
      音を立て、スルトゥルは肩をすくめた。鎧がこすれあったらしい。
     「……あれだけだ。確かに、逃げる時などはすこぶる役に立つだろうが、奴は『巫術』を戦闘
     に利用しようとしない。まるっきりだ。つまらんとは思わんか? せっかく生まれ持った戦闘
     能力を、活かそうとしないのだからな。」
     「──じゃあ、今から役立ててみせるわ。あなたの、目の前で。」
      エミストは、思わず身体を震わせた。何もない空間から、突然そんな声が聞こえてくる。だ
     が、声の主は分かっている。リーゼだ。セッスルムニールから姿を消したように、目の前の
     空間を裂いて、そこから現れる──
      だが、エミストが驚いたのはそんなことではなかった。彼女は槍を持っていた。彼女の背
     丈ほどもある長さの、深海のように青い槍。その重量さは見た目からしてすぐに分かった。
     恐らく、自分の体重ほどはあるだろう。
      その槍を片手で持ち上げ、彼女は武装した老人と対峙した。
     「ただし、今回限りよ。もう二度と、人は傷つけない。」
     「そんなきれいごとは、実際に私を倒してから言ってもらおうか?」
      槍を構えるリーゼに対し、スルトゥルは腕を交差させた。それこそ、ひどく重みを感じさせ
     るほどの、大きな腕を。
      そしてそれを、さっきとは逆の動作をするようにして、左右に広げる。同時に、鈍い音がす
     る。結果、彼の両手には二本の剣が握られていた。どす黒い、妖しい光を放つ剣を右手に、
     そして自分の双眸を象徴するような赤い剣を左手に。
     「暗殺剣アンサラーと、魔の十字剣フラガラッハ……無論、自分で勝手に決めた銘だが、自
     作の中ではひどく気に入っている二振りだ。」
     「野蛮な趣味ね……信じらんない。」
      唾を吐くようにリーゼは毒づいた。低く構え、足を半歩ほど滑らせる。
     「それにしても、今日はいやに饒舌ね。私の父親に似つかわしくないんじゃない?」
     「当然だ。父親ではないからな。」
      瞬間、弾かれるようにして、リーゼの身体が飛んだ。彼女の持っている、槍もろともに。
      飛ばされる直前、彼女がどんな表情をしていたか、アルテには見えなかった。物理的に
     見ることができなかったのか、受けた衝撃のせいなのか、それは分からないが。
      そして、気が付けば彼女の父親だと思っていた男が、標的に向かって走り出していた。
 
 
 


 
 
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