第5章・樹は大地に根を下ろし

     『世界』から、昼が過ぎ去ろうとしている。
      だが、その『世界』から遮断されたこの地下には、昼も夜も関係なかった。四六時中明か
     りがついているので、光の摂取には困ることがないし、他人との接触もないため、時間感
     覚というものが全くない。
      だが彼は、今が昼過ぎだということを知っていた。極度に研ぎすまされた精神が、失われ
     たはずの時間感覚を取り戻していた。目覚めたというわけではないが、彼は薄く目を開き、
     そして胸中で独白した。
    (長い……この残り半日が、とてつもなく長く感じる……)
     夜までとても待ちきれない。身体は疲れ切っているはずなのに、異様なほどに意識がはっ
    きりとしていた。そして、感覚も。毛先まで、神経が張り巡らされているかのように。
     だが、眠たくないというわけではない。眠れない夜にベッドの上にいることを強いられる、生
    活時計の狂った若者のように、睡眠摂取のために悪戦苦闘しているわけではない。決められ
    た時間内に。そう、眠るなら今しかない。
    (感情が……そこまで先走りしているというのか?)
     誕生日を翌日に迎えた子供というのは、今の自分のような気持ちなのかもしれない。早く、
    明日という時が来てほしいと。だが彼等は、次に目を覚ました瞬間に、待ち望んだ時を手に
    入れるのだ。願望を胸に抱き、目を閉じてから一瞬の後に。
     そう、一瞬なのだ。今から自分の手に入れたい時までは、ほんの一瞬でしかない。だがそ
    の一瞬が、彼にとってとてつもなく長く感じるものであった。
     眠らなければならない。だがそれを、自分の中にある別の感情が押さえ込む。その感情が、
    さらに懸念を呼び寄せる。
    (そしてそれを、人は疑心暗鬼という──)
     そんな、全く関係ないことを彼は呟いた。そうだ。そんな余裕が自分の中にあるのなら、眠
    ることなど容易いことだ。これ以上、楽なことがどこにある?
    (あるとすれば、それは──)
     自問に答える前に、彼は意識を失った──いや、自分の奥底に閉じこめた。
     彼は眠った。眠らなければならないのだ。これが最後なのだから。
 
    (何やってんだろ、私……)
     胸中で毒づきながら、彼女はしきりに作業を続けていた。
     今やっていることは、兄達を助けるためのものではないし、父親を癒すためでもない。第一、
    ここに彼等はいないのだ。ここは、彼女の家なのだから。
     彼女──リオは、もう一度毒づいた。あるいは、自嘲だったのかもしれない。やらなければ
    ならないことがあるのに、なぜか彼女は自分の家へと戻っていた。それが意識的になのか
    は、自分でも分からない。だが、目的は分かっていた。自信はないが。
    (今こんなことする必要があるの? 父さんが危ないのよ? 兄さん達だって、今頃どうしてる
    か……)
     頭でそう考えていても、身体がそれについてこない。今、自分がやっているのは『ビューア』
    であり、『ヴァルキリー』としての活動ではない。
     それは分かっている。分かってはいるが──
    (結局、逃げてるんだ。私……)
     恐怖。現実逃避。今の自分に当てはまる単語があるとしたら、そんなところだろう。
     だが、それも少し違うと彼女は思っていた。ただの言い訳にしかすぎないだろうが。
     そうこうしているうちに、『ビューア』が彼女の『世界』を映し出す。迷わずリオは、掲示板の
    欄を選択する。今は、自分の作った音楽に聴き入っている場合ではない。
    (……そこまで分かっているのに、じゃあ何でこんなことをするの?)
     また、自嘲する。嘲笑すら浮かべてリオは、次の画面を確認した。
     自分が最後に書き込んだのは、昨日だった。昨日の夜。それ以降の──つまり、その書
    き込みに対しての返事が来ているかどうかを調べてみる。
     ふと、彼女は鼓動が少しずつ早くなってきていることに気が付いた。理由は分からない。い
    や、理由なんてないのだ。返事が来ていたところで、自分の中の何かが変わるわけでも
    ない──
    (──いや、)
     リオは、うつむいて唇を噛みしめた。今は、考えるのは後回しだと、胸中で呟く。
     書き込みは、二件あった。一つは、以前からの常連。音楽についてなど、相変わらずな内
    容が書かれているだけだ。そしてもう一件。そこに自分が求めていた返事が、あった。思わ
    ず、目を見開いてしまう。画面に映る、一文字一文字を、それこそ噛みしめるように読んでい
    き──
    (──え?)
     読み終えて、正直面食らってしまったことを、リオは自覚した。内容が、予想よりもずれて
    いたこと、そしてそれ以上に、自分の書き込みからその返事までの時間が妙に短いことに
    対して、驚愕を隠せなかった。
     だがとりあえず、自分の目的は果たせたと、ようやく本来の自分の姿に戻れそうな気がし
    てきた。急いで『ビューア』を閉じようと、停止作業をしようとする。いきなり電源を切ってはま
    ずいのだ。正式な過程の上で停止させないことには、『世界』と接続している機械をやみくも
    にいじると、故障の原因となってしまうから──
    (……………………?)
     何かに引き止められたかのように、リオは手を動かすのを止めた。そしてふと、首を傾げる。
    今、頭の中で考えていた事柄、単語、言葉としての意味を構成していた文字の、一つ一つを
    ゆっくりと反芻していく。
    あごに手を当て、しばらく考えてリオは、停止作業を中断した。自信のなさそうにキーを押し
    ながらも、ようやく別の用途を思いつく。
     カチャカチャとキーボードを鳴らし、彼女は素早く、あの忌むべき単語を打ち込んだ。その単
    語を、『世界』へ向けて検索にかける。
     作業をする機械の音がミシンのように鳴り響き──やがて画面に検索結果が現れた。
     だが、いかんせん数が多すぎる。表向きは工業系の大企業なのだ。その宣伝から子会社、
    つまり検索単語である「アースガルド」に関する『世界』は、それこそ世界中にちらばっている
    のである。
     ここから探すこともできるが、そんなに時間の余裕はない。そうなると、ここからさらに検索
    を絞り込むしかない。
     リオは再び、検索を始めた。そして結果を待つ。だいぶ絞り込まれてきたが、まだ多い。検
    索単語をさらに重ね、幾度も検索を続けていく。
     そして──
    「……やった!」
     思わずリオは、声に出してそう歓声をあげていた。どうせ表向きの情報しか出ないだろうと、
    半ばあきらめてはいたのだが。
    (やってみるものね……どうして今まで気が付かなかったんだろう?)
     今までという後悔と、今という歓喜を同時に味わい、だが実際は勝ち誇った表情で、彼女は
    改めて『ビューア』に向き合った。
     そして彼女は、目前にした新たな『世界』へと、ゆっくりと足を踏み入れた。
 
     リーゼはふと、思い出したように顔を上げ、風に泳ぐ髪を手ですいた。
     髪をなびかせる風が、この上なく気持ちいい。地上で受ける風よりも、こんな軍隊じみた浮
    遊都市を吹く風が心地よく感じるのは、何とも皮肉なものだと彼女は、胸中で苦笑した。単に
    高度が高い方が、風が冷たくなるというのは必然だというのは知っているのだが。
     そんなことを思いながら、彼女はそのまま視線を落とした。高層ビルに囲まれるように、大
    きな噴水が今日も変わらず、静かに水を噴いている。颯爽と芝生の広がる、この景色を見る
    度に何とも言えない違和感を感じてしまう。それはおそらく、ここにいる大半の人間はそうな
    のだろう──もちろん、あの脳味噌が筋肉でできた戦争オタクを除いて、だ。
     そう考えると妙に気分が悪くなり、リーゼは窓を閉めた。そして、その戦争オタクのいるで
    あろう、社長室へと向き合う。つまり、ここは本館の最上階である。
     今頃、自分の相棒は必至になって自分を探しているだろう。だが、ここだけは必ず探しには
    こないだろうと、リーゼは踏んでいた。
    (そして、まさにその通りだった……。)
     随分前に、噴水の辺りでチラッと相棒の姿が見えたことを思い出し、かぶりを振る。そして
    小さく、ため息をつく。もう、逃げてばかりもいられない。
     壁に立てかけていた、自分の背丈ほどもある愛用の槍を手にとって、もう片方の手を空間
    に差し伸べるような形で、リーゼは静かに目を閉じた。そして、ゆっくりと開き始める。ただそ
    れだけの動作の結果、目の前に人一人が通れるほどの、空間のひずみができていた。
    (まさか一人で、空間移動で乗り込むだろうとは、考えてはいないでしょうね……。)
     空間移動の『巫術』は、当然高等技術ではあるのだが、彼女の得意技の一つであった。と
    いうのが、実は空間を移動する距離と『巫術』使用後の疲労度は、全く比例しないのである。
    要は、いかに移動先を明確にイメージするかであって、その明確さが疲労度と反比例するの
    である。つまり、行き慣れた所であれば、どんなに離れた場所であろうと、彼女は容易に、一
    瞬で行くことができる。
    (こないだの夜と、同じ場所でいいわよね……顔はまだ知られてはいないから、奇襲はでき
    る。アジトを徹底的に破壊でもすれば、反撃のする気も失せるかしら。)
     そしてなるべく人は傷つけたくないと、自分に言い聞かせるように付け加える。
     ひずみからは、もう例のアジトが見えるようになっていた。移動先の具現化もすんだことだ
    しと、半ば決意のようなものを胸に秘め、彼女はそれをくぐろうとした。
     その時、唐突に目の前から衝撃が襲ってきた──同時に、耳をつんざくような轟音が鳴
    り響く。驚いてリーゼは数歩、身を引いた。どうやら、爆発が起こったらしい。直後、建物の
    中からレジスタンス達が避難するために外に出てくるだろうと彼女は予想し──
    (……………………!?)
     目に映ったものに対して思わず身震いし、彼女は目を凝らした。が、それが早いか空間の
    ひずみは、霧のように消えていく。
    (集中が切れた……いや、それよりあれは確かに……)
     しばらく呆然としていたが、リーゼは槍を持ったまま、勢いよく走り出した。鋼鉄の扉が行く
    手を阻むが、走りながらそれを、空間移動でやり過ごす。
     行き着いた所は、扉の向こう──すなわちスルトゥルのいる部屋だった。
     だが、部屋に入ってもリーゼは足を止めはしなかった。そのままスルトゥルの机に衝突する
    のではないかと思うほどの勢いで、バンッ、と机を叩きつける。
    「どういうことですか!?」
    「……何がだ?」
     当のスルトゥルは、しかしいきなり目の前に人間が空間の中から現れてきたにも拘わらず、
    驚愕の声もあげなかった。それどころか、いつにも増して淡々としている。リーゼ自身、いつ
    になくすごんでいるだろうと思えるほどの形相を前にして、だ。
     その様子を見て、リーゼはさらに苛立ちを覚えた。
    「レジスタンスを討つという命令は、私とアルテの二人に出されたものではなかったのです
    か!?」
    「……そうだが。」
    「ならなぜ、今そのレジスタンスのアジトを、兵士達が攻撃しているのですか!?」
    「攻撃命令が出されたからだろう。違うか?」
    「な…………?」
     思わずリーゼは、言葉を詰まらせた。対してスルトゥルは、彼女を無視するかのように天井
    を見上げた。彼の重量に耐えきれず、椅子の背もたれが軋む。
    「知っていると思うが、将軍職の他に、私には直属の兵士がいるのだよ。我が軍で──いや、
    我が社の中で、最も血に飢えた連中がな。彼等は私が他の隊に出した攻撃命令の全てを、
    援助攻撃という形で執行することができる。」
     椅子を回転させ、彼はリーゼに背を向けた。そして続ける。
    「彼等は、腰の重い腑抜けな将軍二人を降格させまいと、わざわざお前達のために代わっ
    て仕事をこなしているのではないのか? 上司思いのいい部下達ではないか──」
    「ふざけないで!」
     リーゼは再び机を叩いた。スルトゥルはそれに対しても、反応は示さなかったが。
    「私達はアースガルドの将軍職です。部下に任務を先に執行されるなど、そんな無責任です
    むような人間ではないのです。」
    「……だから、どうした?」
    「撤退させて下さい、彼等を。」
    「させればいいだろう、将軍職のお前が。」
     再度出鼻をくじかれて、リーゼはもう討論する気を失った。しかしすぐさまきびすを返し、扉
    の方へと向かっていく。
    「……どこへ行くのだ?」
     背後から、スルトゥルには似つかわしくない言葉が聞こえてきたが、もう無視することにし
    た。黙って空間移動の準備を始める。
    「連中を止めるのは勝手だが……早いところ、結果を出してもらいたいものだな。これも知っ
    ているとは思うが、私はそう気が長い方ではないのでね……。」
     ここにいる必要はない。かといって、レジスタンスのアジトに行く必要もないだろう。本当に
    社長直属の兵士が出撃したというのならば、彼等が生き残っているはずがない。
    「だが、もしお前が見事、連中を皆殺しにすることができれば……今日という日を会社の祝日
    にしてやろう。未来永劫にだ。何なら、私も社長の座を引退してやってもいいが?」
     だが、その話し相手のいない言葉は虚空を漂い、ただ霧散するだけだった。
 
 
 


 
 
  次のページへ
 
  小説の目次に戻る
 
 
 
TOPに戻る