第4章・天空に架かる橋

      フォールクヴァングの町から出るのは、実はこれが初めてだった。
      いや、それは今の家に来て以来だと、リオは胸中で訂正した。
      彼女の家(いや、実家)は、フォールクヴァングよりも少し北東寄りの町にあった。そこから
     徒歩で何分もかからないような所にウォードの家があったわけだが、それがどういう所だっ
     たのか、当時赤子同然だったリオには、全くといっていいほど記憶がない。つまり、町の外
     に出るのはこれが初めてのことだといっても過言ではないのである。
      だが、町から出ても、辺りの様子はさほど変わらなかった。遠くに見えた海岸が近くなった
     か、あとはあえていえば、アースガルドの兵の数がやや増えてきたかという程度である。そ
     の他は何も変わらない。商店街の様子も、子供達の遊び方も、空を流れる白い雲も、みんな。
     (何か……がっかりしたような気がする……)
      今日は、敵の本拠地に乗り込むという、重大な作戦を実行しにここまで来ているのだ。そ
     れは十分承知している。『セルフ』のペダルをこぎながら、自分にそのことを言い聞かせるよ
     うにリオはゆっくりとかぶりを振った。平和を期待するのは悪いことではない。だが、現状を
     変えずにそれを求めるのは、ただの逃げでしかない。
     (そうよ……連中を倒すまでは、そんなこと……)
      ペダルをこぐ足に、思わず力が入る。目的地はもうすぐ近くらしいのだが、不思議と緊張
     はしない。代わりに、これから先のことに対する不安が募る。
     (これで……本当に連中を倒すことができるのかな……それより、連中を倒すと、それで本
     当に平和がやってくるものなのかな……?)
      ひょっとしたら、この世界全ての景色が、こうなのかもしれない。そうだとすると、自分達は
     全く未知なるものを手に入れようとしていることになる。
     (平和って……この世界に存在するものなの?)
      その自問の答を用意するには、まだ彼女は無知すぎた。
 
     (……冗談じゃない!)
      アルテは焦燥した。その上、この広いアースガルドを走り回っていると、さすがの彼も息
     切れをしてくる。体力はある方なのだが、なぜか長距離は苦手だった。いつも身体に力を
     入れているせいだと、いつか相棒に言われたことはあったが。
      そして今、その相棒のためにアルテは、苦手な長距離を強いられていた。どこを探しても
     彼女がいない。本館──スルトゥルの部屋だけは探していないのだが、あそこはもとから
     却下である。彼女が自分に何も言わずに──つまり、一緒についてきてくれと頼まずに─
     ─一人であそこに行くはずがないからだ。
     (あの槍を持っていったってことは……あいつ、本気であのレジスタンスを始末する気なの
     か?)
      どんなことがあっても、人を殺したりはしなかった。何人も人を殺した、血塗られた父親を
     持ちながらも、彼女は自分の信念を貫いてきた。
      しかし、過去に一度だけ、その信念が崩れそうになった時があった。その時も、今と同じ
     く彼女は、あの槍を手にして敵と対峙したのだ。その時はアルテが身を張って制したため、
     人を殺めるようなことはしなかった。ただその代わりに、アルテの左腕に傷が残ることにな
     ってしまったが。
     (人に裏切られるのは、もうゴメンだからな!)
      胸中でそう叫んで、アルテは空中都市の中央にある広場へと足を向けた。
 
      着いてみるとそこは、大きな港だった。
      随分と栄えていたのだろう。かなりの広範囲に船乗り場が見え、またもとは屋台であった
     らしきものの残骸も辺りに散らばっている。漁業関係の人間の出入りも多かったようで、今
     となってはその証拠でしかない魚介類を入れる木箱も、大量に積み重ねて置いてある。
      これが、どうして過去形で説明されるのかというと──
     (……ひどい光景ね。)
      人っ子一人いない、殺風景な港を目の当たりにして、エミストはそう呟いた。
      その代わりか、この港の中心と思える所に、ちょっとした駅が建っていた。とはいえ、定期
     的に乗り物がやってくる様子はないし、線路と思しきものもない。四十段近くある階段の末、
     柵の向こうに何かの大きな接続部分のようなものが見える。おそらくこれが、アースガルド
     へと伸びていくのだろう。そして、この駅とその地下(どう見ても建物内だけには収まらない
     だろう)に『虹』がたたまれてあるだろうと、エミストは見当をつけた。ただ、この駅にはアー
     スガルド兵の見張りはいないようだ。この辺りの人間がここに近づきたがらないのをみると、
     どうやら連中はここに見張りの類は必要ないと判断したらしい。
      辺りに散らばる木箱の痛み具合からして、この漁港が封鎖されたのは、そんなに前のこ
     とではないらしい。そして最近起きたことといえば、フォールクヴァングをはじめ、この一帯
     がアースガルドの軌道上となったことだ。
     「……取れなくなったんじゃよ、魚が。」
      唐突に聞こえてきたその声に、エミストは驚いて後ろを振り向いた。いつからいたのか、
     そこには手を後ろに組んだ、布を被ったみすぼらしい格好の老婆が佇んでいる。
     「その、妙な建物を建て始めた頃からのぅ……そしてあの、何とかいうでっかいモンが、こ
     の海の上を飛ぶようになってからは……大きな影と轟音を恐れて、魚共は向こうの海へと
     逃げてしまいおった。おかげで、ここらの人間は大半が失業してしもうた……。」
      眉間に深々としわを刻んで、うつむきゆっくりとかぶりを振って老婆は、ため息を一つつい
     た。それを見てエミストは『セルフ』から下りて、老婆の肩に優しく手を当てる。
     「大丈夫よ、おばあちゃん。私達が、あの連中を退治してあげるから。」
     「……何を言っとるか。あんなバケモンみたいなのに、あんたのようなお嬢さん一人に、何
     ができる?」
     「私は一人じゃないわ。連中を倒そうという仲間達が、大勢集まっているのよ。平和を望ん
     でいる人達が、一致団結しているの。おばあちゃんだって、この港をもとの賑やかな港にし
     たいでしょ?」
     「……だけんども、」
     「大丈夫。きっと何とかするわ。だからおばあちゃん、今はちょっと家に戻ってて。今からこ
     こ、ちょっと危険になると思うの。でも、それもちょっとの間だから、ね? それが終わったら、
     平和はもうすぐそこよ?」
     「……平和……。」
      その最後の言葉を噛みしめるように口にして、老婆はゆっくりとした足つきで町の中へと
     消えていった。その最中、何度もこちらに心配そうな顔を見せながら。
     (……こんな所にも、こんな形で被害者が出ていたのね。)
      老婆とほぼ入れ替わりで、斥候であるエミストを追って『ヴァルキリー』の仲間達がこちら
     にやってくるのが見えた。彼等は昼食を口にくわえ、あるいは水を飲みながら悠々とペダル
     をこいできている。
     (許さない……アースガルド、絶対に。)
      凪の広がる海──そしてその上を進んでくる、もうすぐ近くまで来ているアースガルドへと
     目を向けて、彼女はグッと奥歯を食いしばった。もう数分もしないうちに、橋が架かり始める
     だろう。それまでに、準備をすまさなければならない。
      全員が揃ったことを確かめて、エミストは早口にまくし立てた。
     「みんな、来たわね。もうすぐ『虹の橋』が架かり始める頃よ。年少組はすぐに、駅の方に行
     って。リオ、あなたは橋が架かり終わるまでは彼等を指揮して──」
     「ちょちょ、ちょっとタイム。」
      慌ててリオがエミストを制する。だが、エミストはその意図が全くつかめず、目をしろくろさ
     せる。
     「な、何よリオ、一体……?」
     「何かエッちゃん、すごく急いでる。エッちゃんらしくないよ、そんなの。こんな時こそ、もっと
     肩の力を抜いて、リラックスしなきゃいけないって、いつもそう言ってるのエッちゃんでしょ?」
     「何言ってるのよ、私はいつも落ち着いてるわよ──」
     「──なら、これは一体何なんだ?」
      唐突に腕をつかまれて、エミストは悲鳴をあげた──見ると、いつからいたのかウォード
     がこちらの顔を覗き込んでいる。
     「ハンドルを握る腕に、筋がたっているぞ。これでも、落ち着いてるって言えるのかよ?」
     「え?」
      言われて腕を見ると、確かに、無意識のうちに力んでしまっていたらしい。腕に筋がたつ
     ほど力を入れ、ハンドルを握る手には汗をビッショリかいていた。
      そんな、言われるまで気付いていなかったらしい彼女の表情に、ウォードは小さくため息
     をついた。
     「ま、一人でいる間に何を考えていたか知らないけどさ。お前一人が気負うことなんてない
     んだからな。軽い気持ちでサクッと作戦終わらせてさ、ヴァルグさんを安心させてやろうぜ。」
      そしてエミストが我に返る頃には、子供達はみんな駅の中へと消えていた。階段からリオ
     が、こっちに向かって手を振っているのが見える。
      一方、大人達はこちらも大半が、既に町の中や物陰に隠れていた。二、三人、ウォードの
     横に並んで佇んでいる。そのうちの一人が笑いながら、
     「そういうこった。同じ成功させるのなら、楽にやった方がいいさ。実際、今までがそうだった
     んだからな。確かに相手は強いかもしれんが、お前の作戦を聞いた時はひょっとしたら、と
     思ったさ。だから、今回もそれを信じて気楽にやろう。きっとうまくいくよ。」
      最後は、肩をすくめながらその男は言った。
      エミストは、それでもまだしばらく、黙ったままだった。が、ふと思い出したように、
     「──そうね。」
      と言って、薄く笑みを浮かべた。
      その様子に、男達は満足したらしい。各々、自分の立場へと散っていった。
      だが、エミストだけはまだ、そこに残っていた。彼等を見守るようにして、しばしその後ろ
     姿を見つめ、
     「エッちゃん、橋が動き始めたよ!」
      という、駅から飛び出るリオの声を聞いて、彼女は駅の裏へと走っていった。
 
 
 


 
 
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