今年の冬は、一昨年ほど多くは雪は降らなかった。
   だが、それでも食糧不足に悩むことには変わりはない。それに、食糧の調達の1番の達
  者であった祖母がいないため、むしろ例年以上に辛い状況となった。
  「聖域」に人間が出入りし始めてきてからは、彼を含め、他の動物達は「聖域」に近づくこ
  とはあまりしなかった。いや、したくなかったのだ。人間に見つかったら、一体何をされるの
  か。その畏怖感が、彼等を「聖域」に近づけなかった。
   そんなことを考えながらも、気が付いたら彼とその母親は、惰性で「聖域」の前へと足を
  踏み入れていた。今まで食糧の調達に、最も適していた場に。
   今――雪が降るようになってから――は、彼等の耳をつんざく騒音は、ない。ただ、後
  ろから黒い煙を吐き、自分達よりも早く走る巨大な物体――祖母の命を奪ったもの――
  は、相変わらずそこに佇んでいる。以前、その丸くて黒い足に、思い切り噛みついたこと
  があったが、それは微動だにしなかった。やたらと固い身体に、爪で引っ掻いても同じで
  ある。この仏頂面を見る度に、彼の胸は怒りに燃え上がっていたのだが、今となってはそ
  んなことは、やるだけ無駄だと考えるようになっていた。要するに、どうにもしようがないの
  だ。
   今、「聖域」の真ん中には大きな箱が立っている。騒音が聞こえてくるのはいつもここ
  からであり、また、よく人間達がここに出入りしているのも、彼は見たことがある。「聖域」
  の周りの木々は切り倒され、ここに来る道は、以前より広く切り開かれた。おそらく、あ
  の巨大な物体が通りやすくするように、だろう。人間がここに集まる日の、翌日には必
  ず、少なからず「聖域」はその姿を変貌させていた。
   その、箱の近くに人間達にとって不要な物を捨てる場所ができたのは、ここに人間達
  がやってくるようになって、しばらくたってからのことだった。夏のある日、恐い物見たさ
  に彼等親子がここに来た時、偶然そこに食べられるものが捨ててあったのを発見した
  のだ。空腹だった彼等は、後振り構わずそれを平らげた。
   それに味をしめた、というわけではないのだが、食糧不足である今、彼等は迷わずそ
  ちらへと足を運んでいた。そして――“あの”臭いが立ちこめてくる。
   それは、黒い水たまりから発せられる臭いだった。あの時も、その臭いに紛れながら、
  何とか食べ物の匂いを嗅ぎ分けた。というのが、その黒い水というのは、捨てたものの
  何かから染み出ているらしい。臭いからして、とても飲めるものではないというのはすぐ
  に分かった。以前ここに来た時、食べ物のいくつかもそれに浸されていた覚えがあるが、
  さすがにそれまでは食べる気がしなかった。
   その臭いに招かれるように、彼等はそっちへと進んでいく。なるべくその黒い水たまり
  に踏み入れないようにして、僅かに嗅ぎ取れる食べ物の匂いのもとへと駆けつける。
   見つけたのは、小さな箱に入っている肉だった。他にも何か入っているが、とりあえず
  それが1番豪勢な物だと、目星をつけて彼等はそれを等分して食べた。後は各自、他
  に何かあるか、辺りを探してみる。
   そんな中、ふと気が付いて彼は、足元を見た。ここの存在に気付いているのは自分
  達だけではないらしく、鳥や野うさぎの足跡がいくつか見つかった。どうやら、余り物は
  そうないようである。さっきの肉は、彼等が食べに来た後に捨てられたものだろう。探す
  のを諦めて、彼は母親にこのことを知らせようと、彼女を捜そうともといた場所に戻り―
  ―
   そこで見たのは、吐血して倒れている彼女の姿だった。
   刹那、昨冬のあの景色が、彼の双眸に重なって見えた。だが、今はあの巨大な物
  体はうごめいては、いない。人間達の姿も、気配も、辺りに感じることはできない。
   母親の身体が脈打つように震える。そこで彼は、母親の腹部に何か、肉が盛り上が
  っているものを見つけた。少なくとも、夏まではなかったものだ。
   徐々に現実を受け入れはじめ、彼は酷く焦燥した。
   これ以上、肉親を――母親を失いたくない。
   彼は、肉の盛り上がりを舐めた。ビクッ、と激しく、母親が震える。
   それでも彼は、構わず続ける。彼女が震える度に、彼は瘍を優しく舐め続けた。
  そうしていくうちに、やがて母親の震えが小さくなっていく。なおも舐め続ける彼の双
  眸には、確実に涙が浮かんでいった。
   そして――彼は、舐めるのをやめた。彼女の絶命と共に。
 
   ――ここは、どこだ?
   ――今、自分は何をしているんだ?
   ――自分は一体、何なんだ?
   そんなことを考えながら――つまり、呆然としながら彼は、「聖域」への道を走ってい
  た。
   ただし、「聖域」に向けて、ではない。逆方向――即ち、人間達が住んでいるであろう
  世界に向けて、である。
   正確に言うと、彼の父親がいるであろう所へと、彼は走っていた。
   母親はもう、この世にいない。祖母も昨冬、逝ってしまった。
   誰かに頼りたいというわけではない。ただ、父親に一目、会ってみたい。
   正直、彼は生きる力をなくしている。ただ、そうという自覚がない――気付いていない
  だけなのだ。その間接的な現れとして、父親に会いたいという感情が生まれた。
   彼は、父親に会ったことがない。ただ、見れば何となく分かりそうな気がした。
   以前、祖母や母親に教えられたことを脳裏に浮かべ、彼は走り続けた。そうしていくう
  ちに、父親が祖母達に話したという情景が、彼の目に映ってくる。
   雪化粧はしているものの、間違いないだろうと彼は思った。その証拠に、そこを境に
  並木道は途絶え、代わりにやたら平坦な道が辺り一面に広がっている。
   ただ、そこからは勘を頼りに進むしかなかった。彼の父親も、「森に入ってから」は祖
  母達に話したことがあるらしいが、「どうやって森に辿り着いたか」は話していない。お
  そらく、父親もまた成すがままに走って、偶然森へと辿り着いたのだろう。
   迷路のように、右へ左へとひたすら続く道を、彼は体力の続く限り走った。もう夜だと
  いうのに、辺りに散らばる大きな箱からは、光が漏れている。箱だけではない。道の両
  端から生えている、背の低い木のようなものからもだ。祖母から聞いた通り、人間達の
  世界は不思議なことが平然と存在している。ここで父親も育ったのかと、ふとそんな思
  いにふけ――
   キキ――ィッ
   唐突に、彼の耳にそんな音が聞こえた。同時に我に返ると、目の前にあの、巨大な
  物体が光を発して迫ってきている――
   それから何が起こったのか、彼自身よく分からなかった。が、身体に異変がないとこ
  ろを見ると、どうやらあの黒くて丸い足に踏みつぶされずにすんだらしい。ホッと胸を撫
  で下ろすようにして、そこで彼はようやく、現状に気が付いた。光に驚いて、思い切り横
  に跳んだらしい。雪の上に横倒れになっていた彼は、立ち上がり身体を震わせた。付い
  ていた雪が辺りに飛び散る。
   辺りを見回すと、そこは光る箱の前だった。箱の周りは細長い石で囲まれ、彼はちょう
  ど、入り口から飛び込んできたらしい。箱の方を見やると、そこには3人の人間が佇んで
  いた。
  「あ、犬だ?」
   1番背の低い子供が、そう口走った。隣にいる、もう少し背の高い子供が、合わせて
  言ってくる。
  「ホントだ……あれ? あの犬って、ハッキーに似てない?」
  「そういえば……ハッキーじゃないの、アレ?」
   そう言いながら彼等は、彼の方へと歩み寄ってくる。
   彼は驚愕した。祖母を殺した――母親も人間のせいで絶命したといってもいいだろう
  ――人間が、自分の方へとやってくるのだ。慌てて逃げようとするが、ここまで走って
  くるのに体力を使い切ってしまい、体が動かない。もとより、空腹なので抗うことすらで
  きず、彼は人間の子供達に抱きかかえられてしまった。
  「あれ、でも……ハッキーって、こんなに小さくなかったよね?」
  「ホントだ、似てるけどちょっと違う。」
   間近でこちらを覗き込まれ、彼は戦慄してしまった。これから、この人間達に何をされ
  るのか。何でもできる人間達。ひょっとしたら、食われてしまうのかもしれない。
  「まあまあ、ハッキーじゃないとしても、子犬がこんな寒い中にいちゃ、かわいそうだろう?
  それに、おなかも空いているんじゃないのか。家の中に入れて、ミルクでも飲ませてや
  ったらどうだ?」
   1番背の高い人間がそう言うと、子供2人は揃って頷いた。
  「そうだね、お父さん。」
  「この子、かわいそうだもんね。」
   そして彼等は、彼を抱きかかえたまま、箱の中へと入っていった。
   そこで彼は、再び驚愕した。冬だというのに、暖かいのだ。更に、外に比べて随分と
  明るい。
   中には、もう1人の人間がいた。彼女はこちら――彼を抱きかかえている子供達の
  方を見やり、首を傾げた。
  「おかえり、随分早い散歩だったのね――あら、その犬は?」
  「うちの前にいたの。寒そうだったから、連れてきたの。ハッキーにそっくりなの。」
  「それでね、おなか空いてそうだから、ミルクあげたいんだ。いい?」
  「ええ、いいわよ。」
   そう言って彼女は、何やら取り出して、その中に白い水のようなものを入れた。
  「ちょうどミルクをあたためていたのよ。あなた達が帰ってきた時に飲ませようかって。
  あげちゃっていいかしら?」
  「うん、いいよ。ママ。」
  「よし、飲んでくれるかな――?」
   子供達は彼を下ろすと、その前にそのミルクの入った小皿を出した。そして、彼がい
  つミルクを飲むのか、今か今かと覗き込む。
  「……飲まないよ、ミルク。」
  「おなか空いてないのかな?」
  「お前達が近くで見てるから、恐いんだろ。ちょっと離れて見てみなさい。」
  「え〜……僕達、恐くないよ〜?」
   不平を言いながらも、子供達は言われるままにその場を離れた。そして、じっと待つ。
   一方、彼はまだ状況を把握しきれていないのだが、空腹に負けたのか、とうとう目の
  前の白い水を飲み始めた。
  「やったぁ! 飲んだよ。」
  「ね、お父さん。この犬、飼っていい?」
  「そうだな、ハッキーのようにかわいがってあげるんなら飼っていいぞ。」
  「ホント? やったー。」
  「ねえねえ、名前、何にする?」
   そう、人間の親子達が言っている間、彼は無我夢中でその暖かい水を飲み続けた。
   自分の肉親を殺した人間。だが、今こうして自分を助けてくれる人間。
   どちらが、本当の人間の姿なのだろうか?
   彼の脳裏に、ほんの僅かだけ、そんな疑問が浮かび、消えた。
  「それにしても……本当に似てるわね、ハッキーと。」
  「ああ、あの仔はいつだったか、餌箱と一緒にうちから消えたな……そしてしばらくして、
  離れた所の交差点で、はねられてたんだ。」
  「そのことはあの子達に言ったの? あなた……」
  「いや、言えるわけがないだろう。ただ、こうしてあの仔そっくりな犬が見つかったんだ。
  あの子達もこれでまた、元気になるだろう……」
   凍える雪の中、こんな暖かい空間の中でいられる。
   そんな空間と、食糧を提供してくれる存在。人間。
   体力がある程度回復して、彼は逃げ出そうと思った。この人間達に噛みついてやろう
  とも思った。だが、頭で思っても、身体がそれについてきてくれない。
   彼の肉親を殺した存在。人間。
  「ウォォ――……ン。」
   彼は吠えた。
   それが人間でいう、「鳴く」なのか、それとも「泣く」なのかは分からない。
   彼は自問した。鎖をつけた首輪を一瞥して。
   自分の望んだ「森閑な空間」とは、果たしてこのようなものだったのか、と――
 
                              林野の詩・完 

 
 
 



 
 
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