エピローグ
澄んだ青空が気持ちいい。
そういえば、師と初めて知り合ったあの日も、このくらい綺麗に晴れた青空だったなと、
彼女は胸中で独白した。ただ、違うといえば、今は涼しく、秋にさしかかってきていると
いうこと、それともう、あれが視界に入ってきても、不快にならないということ――
そして、前とは生きる目的が違っているということ。
彼女は、いつものように塀に腰掛け、足をぶらぶらとさせていた。涼しげなそよ風が気持
ちいい。暑さに弱い分、涼しさ、寒さには慣れている。季節の変わり目で、近所の子供達
の中には風邪をひいてしまったのもいるらしいが、彼女にとってこの風は、空からの心地
よい秋便りでしかない。
彼女は空を見上げた。高くそびえる、澄んだ青に身体が吸い込まれる感覚に陥りそうに
なる。実際、身体が浮いてきそうな気がして、彼女はゆっくりと目を閉じて――
「……リオ、」
唐突に聞こえてきた呼びかけに彼女――リオは、危うく塀からすべり落ちそうになって
しまった。同時にハッと我に返り、声のした方を見やる。そこには、細身で長身の女が、
『セルフ』の横に静かに佇んでいた。
「――リーゼさん? いつ帰ってきたの?」
「帰ってきたってわけじゃないのよ。ただ、ちょっと近くを通ったものだから。」
女――リーゼはそう言って、軽く微笑んだ。細身の割には力があるというのは、二ヶ月
前の事件からよく知っているはずなのだが、こうして一台の『セルフ』に大きな荷物を縛り
付け、それを平然と運転しているのを見ると、改めて凄いと、リオは感嘆の息をついた。
一方リーゼは、そんなリオの考えに気付いたらしい。慌てて手を振り、
「あ、これ改造車なの。電力の貯蔵庫がそのままブースター増幅器になってて、少しの
力で進めるようになってるの。」
「え、でもリーゼさん、アースガルドじゃあんな重そうな槍を振り回して――」
「言ったことあるでしょ、あのピラムって槍は、勝手に標的まで飛んでってくれるの。振り
回すにしても、半分はあの槍自身が動いているから、まあちょっとした力の入れ具合で
狙いを定めていたわけ。あれもあなたのチャージと同じ、『エンチャント魔道具』なのよ。
攻撃の際に爆撃したりするのも、みんな魔力なんだから。」
「あ、そうだったんですか。」
初めて知った、というように、リオは納得顔をみせた。同時に、呟く。
「力の入れ具合、かぁ……ま、年の功ってやつかな。」
「聞こえてるのよ、それ。」
半眼でぼやくリーゼに、リオは口に手を当てて、あさっての方を向いてしまった。横目で
見るとリーゼは、確かに以前の彼女のような、冷たい表情を見せてはいた。だが、本当に
そうしていたのかと訝ってしまうほど早くにその表情は消え、もとの素顔に戻っていた。笑
みすら浮かべ、小さく肩をすくめる。
「ところで……あのバカは?」
「……それって、師匠のことですか?」
今度はリオが半眼で――とはいえ、呆れた時なんかに見せるそれだが――聞き返す。
しばらく間を空け、無意味に頬などを掻いていたが、
「今、ここにはいませんよ。何か、音感を鍛える旅に出るとか言って――てっきりリーゼさ
んを追っていったのかと思ってたんですけど。」
「私を? 何で?」
「いえ、何となくなんですけど……。」
さらに頭を掻き、リオはそう呟いた。対してリーゼは、怪訝そうに首を傾げる。
何となく、ばつが悪そうに思ってしまい、それからリオはしばらく黙り込んでいた。近くを
走り回る子供達の声が、波紋のように辺りに響きわたる。耳をすませば、遠くにある海の
さざ波の音も聞こえるかもしれない。実際はそう時間がたってはいないだろうが、リオにし
てみればそれは、何十分もの時間に思えた。
そんな中、リオはふと気が付いたことがあった。どうも何か、違和感のようなものがあっ
たのだ。
「ところで……リーゼさん、」
「ん、何?」
「リーゼさんって、あの、ちょっと言いにくいんですけど……一応、アースガルドのお嬢様
みたいな人だったんですよね? 確かに、社長が実の父親ではなかったんですけど。」
「ん?……まあ、確かにそうだけど?」
「だったら、そんな『セルフ』なんて貧乏くさいものなんて使わないで、もっと楽に旅ができ
ませんか? いくら改造車といっても、体力は使うわけだし……」
「あのね、リオ。」
ハンドルに腕を乗せ、その上にあごを乗せる形で、彼女はリオの方へと身を乗り出した。
「確かに、私はアースガルドにいた時は、裕福な生活を送っていたかもしれない。まあ、
何をしていたかは別として、ね……でも、今は違う。本当の両親を捜す旅をしているのよ。
もう、アースガルドの将軍職なんかじゃない。その時の私は、捨てきってしまいたいの。
あなた達から見たら、そんなこと都合のいいこととしか思えないだろうけど――」
目を細め、リーゼは遠くの空を見上げた。太陽の中を、渡り鳥が飛んでいくのを見送っ
て、また視線を戻す。
「だけど、それでも私は過去の償いをしたいの。だから、アースガルドで稼いだお金はみ
んな、色々な施設に寄付して回ったわ。おかげで今や、すっからかんよ。」
苦笑して彼女は、財布を開けてみせた。確かに、中にはほとんど入っていない。
それを見て、リオが心配そうにしていたが、そこでリーゼは不適な笑みを見せた。肩さ
え震わせ、言ってくる。
「だから、あのアルテのバカから貸していた金を返してもらおうと思ったわけよ。あいつの
給料で『ビューア』一式なんて買えるわけないでしょ? ここにいなかったのは誤算だっ
たけど、返してもらうまでは地の果てまででも追っかけてやるんだから。」
それもアースガルドで稼いだものなのでは、とはリオにはとても言えなかった。代わり
に、乾いた笑い声がすきま風のように喉から出てくる。
そんな時、彼女の後ろで窓が開く音がした。見ると、彼女の兄が何か白いものを持っ
てそこから顔を出している。
「リオ、お前の師匠って人から手紙が来たぞ。」
「え、ホント?」
言うが早いか、リオは塀から飛び降りた。そして、家のドアまで早足で駆け出す。
「そこで待っててね、まだ読んじゃだめよ?」
「え、いや、もう一通り読んじまったんだけど……。」
言い終えて、ウォードはしまったという顔をした。だが時は既に遅く、半眼でこちらを睨
んでくるリオの、姿は塀に大半が隠されていても、その気迫が十分に伝わってくる。
「バカッ! 何でもう読んじゃうのよ? んもう、私の最大の楽しみというか、私達の師弟
愛というか、とにかくそれを邪魔するようなことしないでよね、ったく信じらんないんだから!」
「お前……何ていうか、口調も性格もあのノッポのねーちゃんに似てきたな……。」
それはまずいぞお前? と言いたげな表情で、かぶりを振る。その時、こちらを見つめ
る人間がふと視界に入ってきたので、何気なくそちらを見やる――
――と、
「うわわわわっ!?」
異形の物体を見たかのような形相で、彼は悲鳴をあげた。同時に、後ずさりする。
「すっ、スンマセン! そこにいらっしゃるとは思いもしなかったもので。もう言いませんか
ら殺さないで下さい!」
すると今度は、リーゼが半眼になる。頬に冷や汗を一筋、伝わせながら。
「私……あなたのお兄さんに、どんな風に思われてるのかしら……?」
「……知らない方が幸せってこともあるんですよ。」
同じく半眼で、リオが応える。まあ、彼はほとんど彼女の戦いの場面しか見ていないの
だが――
ともかく、リオはウォードから手紙を受け取り、封筒から中身を取り出した。文字がびっ
しりと書き込まれている二枚の紙を見て、リーゼは口笛を吹いた。
「あいつの手紙なんて初めて見るわ。何て書いてあるの?」
「待って下さいよ。私が読むんですからね?」
そう言ってリオは、手紙を開いた。その上からリーゼが、こっそりと盗み見する。
「えっと……拝啓、我が弟子リオ様、いかがお過ごしでしょうか? お兄さんやお友達は
お元気でしょうか? 今、俺はスリュムヘイムという所に来ています――」
「スリュムヘイム? 辺境ねー。」
眉間にしわを寄せて、リーゼ。リオは咳払いをし、かまわず続けた――
『――時のたつのも早いもので、君と別れてもう一ヶ月がたちました。セッスルムニール
の復旧や、君のお父さんの回復を見届け、安心して旅に出たわけですが、それでも離れ
てしまうとどうしても愛弟子の身が心配になってしまい、こうして筆をとっている次第です。
スルトゥルが倒れ、あれからアースガルドや、君達『ヴァルキリー』の存在意義が大きく変
わってきたわけだけど、それでも俺は君に『ヴァルキリー』の一員としての何かを続けてい
ってほしいと思っています。音楽を学ぶのに、音楽のこと一つを見つめているだけでは、
決して大きな成長はありません。何かもう一つ、音楽の他にも自分が熱中できることを探
して、続けていって下さい。全く違った視点から見た音楽、それがあってはじめて自分の
殻を破ることができるのだから。また――』
――苦笑し、あるいは頬を掻き、リオは手紙を読んでいった。そして、二枚目の最後、
妙に離れて書かれている一文に目をとめる。
『追伸――もしリーゼさんに会ったら「借金待って」って伝えといて。』
「野郎……」
完全に目の据わったリーゼのうめき声に、リオは身体を硬直させた。
「いつか絶対殺らなきゃね……もちろん、その前に借金返してもらうけど。」
そう言って、拳を握る。二ヶ月前以来の冷や汗を流し、リオは心底から戦慄した。
と――そこに、意外な所から助け船が現れた。
「ダメですよ、そんなことしちゃ。あの人、あなたのこと好きなんですから。」
サンダルで外に出てきたウォードは、そう言ってリーゼの顔を覗き込んだ。
「あなたも、少なからず好意は持っているんでしょ? 一緒に旅とかしないんですか?」
「私が? あのバカと?」
ケラケラと、まるで腹を抱えるようにひとしきり大笑いし、リーゼはかぶりを振った。笑み
は次第に苦笑へと変わっていったが、それもやがて表情から消える。
「……そうねー、私からの借金を百倍にして返してくれたら、考えてもいいわよ?」
「いやー、そんなこと言ったら、ホントに返してくれるかもしれませんよ? 愛の力って、絶
大なんですから。」
と、ウォードが冷やかすように笑う。リーゼもそれに応えるかのように笑い、
「うーん、そうはいっても、結構な額だし……ね?」
「そうですか? だったら俺、アルテさんを応援しますよ。もし返済が実現したとしても、そ
の時になってウソでした、なんて言わないで下さいよ?」
「ちなみに大体、昨年度のスリュムヘイムの町の納税額くらいよ? 確か。」
「さってと。父さんの苦労を少しでも減らせるように、俺も働かなくっちゃ。」
と、急にあさっての方を向いて、ウォードは腕を回しながら家の中へと消えていった。
「男って、薄情よねー。」
半眼で、しかしこの上なく楽しいというように笑いながら、リーゼ。一方、リオは再び空笑
いをしている。冷や汗と共に。
それからまた、しばらくの沈黙が訪れた。リオは、家からまた兄が顔を出してくれること
を期待していたのだが、どうやら彼は、部屋にこもりっきりになったらしい。半ば、本当に
薄情だと思いながらも彼女は、何とかこの雰囲気を変えようと試みた。
「……リーゼさん、そんなに師匠ってまずいんですか?」
「へ? あ、ああ……いや別に、大したほどじゃないわ。スリュムヘイムの人口ったって五
十人もいないわけだし、商業もほとんど発達してないしさ……ただああ言えば大人しく引
っ込んでくれるかな、って。」
「いや、その……お金のことじゃなくって。」
慌てるように、リオは手を振った。後ろめたいような表情で、呟く。
「つまり、あの……人間性っていうか……一人の男としてっていうか……」
普段言い慣れない単語を口にして、リオは完全にうつむいてしまった。自分ではよく分か
らないが、紅潮さえしているかもしれない。
返事は、なかった。恐る恐る、リオは顔を上げてみる。目の前にはリーゼの姿があった。
当たり前だ――だが、様子が変である。彼女のその、澄んだ青の双眸は、限りなく大き
く見開かれていた。視点もあっていない。ピントのずれた、カメラのレンズのように。
そしてそれは、いきなりシャッターに閉ざされるがごとく、彼女のまぶたに遮られてしまっ
た。わずかな、笑い涙を交えて。
「プッ……アハハハハ!」
リーゼは再び大笑いを始めた。腹を抱え、ハンドルを叩いて必至に笑いを抑えようとする
が、それも効かないらしい。その様子にたまりかねて、リオが口を尖らせた。
「リーゼさん……何も、そんなに笑わなくっても。」
「フフ……ねぇ、リオ。私達って、そんなに似合ってる?」
唐突にそんなことを言われ、リオは思わず面食らった。
「え……いや、そんなこと、急に言われても……」
「だって、兄妹に同じこと言われたのよ。気にしない方が変じゃない。」
リオは腕組みした。慎重に言葉を選び、視線を戻す。
「まあ、その……似合ってると思います。少なくとも、私から見ると。」
「えー、ショックー。」
だがリーゼは、予想を大きく裏切って、あからさまに嫌そうな声を出した。
「ショック……なんですか?」
「だってぇ、あの男よ? 信じらんない。」
眉をひそめ、言ってくる。だが、今度は彼女を非難しようとは、リオは思わなかった。
「あーあ、今度はそんなこと言われないように、いい男見つけなくっちゃねー。」
思わず、笑みがほころんでくる。そうだ。これが平和というものなのだ。
リオは、満足げに頷いた。そして、空高く見上げる。どこまでも続く、広い空を。
「どんなに大きな樹でも、見上げる空は一つ……どんなに離れていても、師匠と私は、同じ
空でつながってるんですよね……。」
澄み切った青空。『世界』をいつまでも見守っていくその大空は、少しずつ秋色に染まり
始めていた。
− 世界樹の葉・完 −
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