気持ちいい朝だ。そう思ったのは何年振りのことだろうと、スティンは記憶を辿らせた。
  だが、そんなことはどうでもいい。要は、「今」がよければそれでいいのだ。普段よりも
  多少早くに目覚めた彼は、軽い足取りで1階の酒場へと下りていき、そのまま掃除を
  始めた。そして、徐々に沸き上がる動悸を抑えながら、少し早すぎる商売の準備をも始
  める――
   ギィ……
  「……どなたですか? まだ開店時間じゃないのですが……」
   グラスを拭きながら、スティンは出入り口の方を見やった。ノトである。
  「確かにまだ早いが……邪魔するぜ。」
  「今日は早いんですね。」
  「ああ、理由はお前さんと一緒だよ。」
   カウンターに着きながら言うノトに、スティンは思わず肩を震わせた。
  「え……理由……って?」
  「とぼけんなよ? あれだけの上玉を目の当たりにして、どうにもしない男がいるかよ。
  今日来ると言われても、いつ来るか分からないだろ? なら、1日中いれば必ず会え
  るわけだ。そうだろう?」
  「ま、まあ……え、しかし、今日はお連れの方達は?」
  「今日は奴等は一緒じゃねえ。その方が、お前さんにとってもいいはずだ。色々な意
  味でな。」
   スティンの出したワインを一口含み、ノトは薄く笑みを浮かべた。
  「……だが、彼女については、一切の情けはかけねぇぜ。なかなか油断ならねぇよう
  だからな。」
  「え……僕が、ですか?」
   スティンが目を丸くする様子に、ノトは浮かべる笑みを意地の悪いものへと変え、
  「それこそとぼけんじゃねえってんだよ。この酒だってそうだ。お前さん、抜けてるよう
  で俺がいつも飲んでるヤツを、しっかり覚えているじゃねえか。昨日だって、まさかお
  前さんが『アースガルズ』を知っていたなんて、思いもしなかった。」
  「それはたまたま……それに、客の、常連の飲む酒を覚えるくらいなら、店主なら当
  然のことでしょう?」
  「たまたま……ねぇ。勝負において、それほど恐いものはありゃしねえ。」
  「え?」
  「……ホレ、客が来たぜ。もてなしてやんな。」
   眉をひそめるスティンをさておき、ノトは出入り口の方を目で差した。彼の視線の延
  長上から、妙に太い四肢を持ったバンダナの男がやってくる。
  「何だオイ、2人ともやけに早えじゃねぇか。」
  「朝にめっぽう弱い、低血圧のお前さんには言われたかないね。」
   身体を後ろに倒し、笑いながらノトは彼――クレイアを一瞥した。対してクレイアは
  フン、と小さく鼻を鳴らし、相手を見下すように顎を少し上げる。
  「仕事熱心と言ってもらいたいものだな。女目当てだけに来たわけじゃないんだぜ、
  俺は?」
  「仕事熱心……ねぇ。普段は面倒そうな依頼は、目もくれずに断っちまうお前さんが。
  フーン……」
  「……何か言ったか? 無ギャンブラーさんよ。」
  「我が道を進んで生きていると言ってほしいねぇ。」
   言いながらノトも、その場に立ち上がって半眼でクレイアを睨み付ける。険悪な雰
  囲気になりつつある2人を、冷や汗を頬に伝わせながらも知らぬ振りをしてスティン
  は、グラスの類を全て奥のにしまい込んだ。彼等が暴れて、割れてしまうと思った
  からだ。
   そんな時、カウンターの1番端――出入り口の方――に、1人の男がいることに気
  が付いた。昨日も来ていた、あのみすぼらしい男である。
  「あ……いらっしゃいませ。ご注文は?」
   スティンがそう言うと、男はスティンの後ろにある桶を指さした。どうやら、水を飲み
  たいらしい。仕方なくスティンは、小さなグラスに水を汲み、男の前に差し出した。
  (わざわざ酒場に水を飲みに来るなんて……ひやかしか?)
   怪訝に思いながらスティンは、ふと2人の方を思い出した。見ると、2人とも今に
  も暴れ出しそうな形相で互いの胸元を掴み上げている。
  (やっば……!!)
   胸中で驚愕し、スティンはその場に身をかがめて頭を抱えた――が、しばらくた
  っても、何も変わったという様子はないし、気配もない。静かに頭から手を離し、ス
  ティンはゆっくりと立ち上がった。
  「…………あ、」
   2人が暴れ出さない理由は、すぐに氷解した。彼等の視線が、出入り口の方へと
  向いている。
  「おはようございます……って、まだ早かったかしら?」
  「……いやなに、ちょうど俺達も来たところだ。」
  「ああ、むしろ好都合さ。」
   エウルの登場に、表情を一転させた男2人をスティンは、半眼で見つめながらも
  人のことは言えないかと頬を掻いた。そのまま、クレイアと彼女の分の酒も用意し
  はじめる。
  「しかし……なぜこんな早くに来たんだ? 俺達がいなかったらどうしてた?」
  「それは、朝早くの方が静かだと思ったの。それに……あまり、他の人に話を聞か
  れたくないから。いない場合は、ここで待たせてもらうつもりだったわ。」
  「なるほど、ね。つまり、ラッキーだったってわけだ。」
  「そういうこと。早くに来て正解だったわ。」
   肩をすくめ、そう言うエウルの笑顔が、スティンにはとても印象的に見えた。
  (けど……何か、楽しくないな?)
   自分が空回りしていることに、気付いてはいてもそう表現はできず、手に持つグラ
  スを出すことに躊躇しながら3人の会話を聞いていた。

 



 
 
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