山南 敬助知信

(1833〜1865)



十一月の秋が一気に深くなりつつある某日、壬生の光縁寺を訪ねました。
五時近くですでにあたりは暗い秋の夕暮れ、
それでなくとも京都の町家の並ぶ道筋は薄暗いのに、
光に縁の寺と書くこの寺は、まるで待っていてくれたかのように穏やかに佇んでおりました。
門入り口には”子供かけこみ所”の札が掲げてありました。

八木邸の向かい、前川邸の前の道を数分真っ直ぐ歩いた左側にあり、
東京より遥かに大きな満月がずっと道すがら照らしてくれました。
穏やかで優しい人であったと、数々の本には記されていますが、
やはりその優しさは今も決して消えてはいないのでしょう。
閉門の刻限は過ぎていたのにもかかわらず、
御住職さんが快く招き入れて下さいました。
周りを民家に囲まれ、決して大きな寺ではないけれど、
その昔ここに埋葬された理由が分かる気がしました。

山南さん、武士の世を知らない今のふやけた日本人のうわ言かもわかりませんが、
文武両道に秀でた才能を、美しさだけの強さではない強さを、
同じ試衛館仲間の中にあって、もう少しわがままな人でいてほしかった・・・。

そしてあなたは、ひとり孤独であったに違いない
沖田総司の一番の理解者ではなかったでしょうか。
江戸生まれの総司ではあったけれど、
同じ奥州の血をひく二人には通じるものがあったのでしょう。
介錯を仰せ使った総司の胸中を想うと忍び難いものがあります。
総司の病の悪化はそんな精神状態も大きく影響していたのでしょう。
口には出さずとも心の中ではきっと泣き叫ぶ毎日だったのではないでしょうか。
憐れです。

山南さんの隣りに総司の縁者の墓があるのも、
あなたを慕った彼の気持ちの表われだったのでしょう。
あなたの側なら安心できるから・・・。
それぞれが今、散り散りの場所に眠っています。
でも山南さん、あなたは今もあの時 江戸を出たまま
ずっと京の地に残っているのですね。

文久三年の二月に残したこの一詩が、
屯所へと続く道に聞こえてくるような気がします。

牢落天涯むなしからず
尽忠ただ一力のなかにあり
何ぞ辞せん万里艱難の路
早く向かわん皇州よく攻を奏す

吹き荒んだ生き地獄の世に、あなたは
ひととき暖かな春の陽を与えてくれました。
それだけで充分です。




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